牧師室'17.12


◎ 2017.12 ◎
「歌え。楽しめ」

天よ。喜び歌え。地よ。楽しめ。山々よ。喜びの歌声をあげよ。
主がご自分の民を慰め、その悩める者を憐れまれるからだ。
(旧約聖書 イザヤ書 49:13)



  「歌は世につれ、世は歌につれ」と言うことわざがありますが、「ある時代によく歌われる歌は,その時代の世情を反映しているものだ」という意味だそうです。特に歌謡曲は、その時代を反映していると言えますね。それとともに、歌が誕生した時代を超えて、歌い継がれていく・・・そこには、時代が歌の誕生の世相を超えていくのではないか。つまり、人々が歌い始めた時に歌に託した感情が、時を経て歌い継がれていく。懐メロと良く言われますが、「あの時代良く歌ったね!懐かしいな〜」なんて、同窓会で集まると必ず歌われる歌ってあるんじゃないでしょうか。その最たるものは「校歌」ではないかと思うのですが?
  ところで、ある人がキリスト教を称して、「歌う宗教」と言ったとの事です。私もあるとき「キリスト教は葬儀でも歌を歌うんですね。」と言われたことがありますが、そう言われてみれば、クリスチャンは良く歌いますよね。礼拝だけでなく、どんな会合ででもまず賛美から始めることが殆どです。
  勿論それには理由があります。それは聖書がそのように勧めているからです。詩96:4には「まことに【主】は大いなる方、大いに賛美されるべき方。すべての神々にまさって恐れられる方だ。」それを受けるように、黙5:1 2に「彼らは大声で言った。『ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。』」
  また、詩22:23には「【主】を恐れる人々よ。主を賛美せよ。ヤコブのすべてのすえよ。主をあがめよ。イスラエルのすべてのすえよ。主の前におののけ。」そして、黙19:5に「また、御座から声が出て言った。「すべての、神のしもべたち。小さい者も大きい者も、神を恐れかしこむ者たちよ。われらの神を賛美せよ。」と。このように神様は、私たちが神様をほめたたえ、賛美することを望んでおられるのです。私たちの賛美を通して、神様は栄光をお受けになるのです。
  今私たちはアドベント(待降節)を過ごしていますが、ルカの福音書を見ますと、マリヤさんが御使いの御告を受け、その後エリサベツおばさんを訪ねます。その挨拶の声を聞いたときにエリサベツおばさんの胎内の子が『喜んで踊りました。』(ルカ1:44)と記しています。そのすぐ後に4 6 節〜 『わがたましいは主をあがめ、わが霊はわが救い主なる神を喜びた たえます。』と神様をたたえる「マリヤの賛歌」と言われる賛美の歌が続きます。更に、救い主の誕生を羊飼いたちに告げた時聖書はこう記します。
  『すると、たちまち、その御使いといっしょに、多くの天の軍勢が現れて、神様を賛美して言った。『いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。』」(ルカ2:13 − 14)その知らせを受け急いで出掛け、飼い葉桶に寝ているイエス様を見つけた羊飼いたちは、『見聞きしたことが、全部御使いの話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。』(ルカ2:20)のです。
  また、マタイの福音書の記事によりますと、最後の晩餐の後、オリーブ山へ行かれるイエス様と弟子たちですが「そして、賛美の歌を歌ってから、みなオリーブ山へ出掛けていった。」(マタイ26:30)このように、喜びを迎えるクリスマスの時も、やがて十字架に架けられようとする苦しみ、悲しみの時にも、どんな時でも賛美は神への信仰の証でもあるのです。
  「詩は世につれ、世は詩につれ」と先に言いましたが、それは時代が変わっても、人々が歌い始めた時に歌に託した感情が、喜びも悲しみも時を経て歌い継がれていく、信仰の証しに他ならないと思うのです。
  イザヤ書61:10 − 11 に「わたしは【主】によって大いに楽しみ、わたしのたましいも、わたしの神によって喜ぶ。主がわたしに、救いの衣を着せ、正義の外套をまとわせ、花婿のように栄冠をかぶらせ、花嫁のように宝玉で飾ってくださるからだ。地が芽を出し、園が蒔かれた種を芽ばえさせるように、神である主が義と賛美とを、すべての国の前に芽ばえさせ るからだ。」
  皆さん、このクリスマスを迎えようとする時、神様がすべての人に与えてくださっている救いの喜びを、声高らかに、喜び、楽しみ賛美しようではありませんか。
  「天よ。喜び歌え。地よ。楽しめ。山々よ。喜びの歌声をあげよ。主がご自分の民を慰め、その悩める者を憐れまれるからだ。」<イザヤ書49:13>