牧師室'17.9

◎ 2017.9 ◎

「最高のしあわせ」

しかし私にとっては、神の近くにいることが、しあわせなのです。
私は、神なる主を私の避け所とし、あなたのすべてのみわざを語り告げましょう。
(旧約聖書 詩篇73:28)



  人は皆、だれもが「しあわせ」になりたいと願っています。しかし、なかなか自分が思っているような「しあわせ」に出会うことは少ないのです。しかも、これが「しあわせ」だと思っても、長続きはしないものです。
  ある人がこんな事を言っています。「つまり、『幸せとは何か』の結論を言ってしまうと、幸せとは『感じ方』なのです。幸せだなと感じる心の状態が『幸せ』だということです。」と。そして続けて「何を基準にしたらいいかというと、『今の自分の感情』を基準にするということです。」と。と云うことは「しあわせ」の基準は『自分』だというのです。
  これは極端に言うと「自分さえ良ければ」という自己中心・自己満足の「しあわせ」であり、周りには何の益ももたらせません。私は思うのです。お母さんにだかれてスヤスヤと寝ている赤ちゃん。その子の顔を見て微笑んでいるお母さん。ここに「しあわせ」の姿があると思うのです。つまり「しあわせ」って関係性の中に生まれてくるのではないでしょうか。自己中心・自己満足の「しあわせ」は、時には他者との係わりを捨て去ることにもなりかねません。
  詩篇の第一篇1節は「幸いなことよ。」で始まります。そして2節に「その人は主の教えを喜びとし」と記されています。ここを「神様の教えを喜びとするその人は、幸せな人です。」と言い変えることが出来るのではないでしょうか。さきほど「『しあわせ』って関係性の中に生まれてくるのではないでしょうか。」と申し上げましたが、聖書は正に神様との関係性の中で本当の「しあわせ」はあると言っているのです。
  神様に造られた人は、神様の備えてくださったエデンの園で、「しあわせ」な日々を過ごしていました。ところがサタンの誘惑によって、神様に背き神様との愛の関係が失われてしまい、エデンの園から追放されてしまいました。神様との愛の関係が失われると同時に、本当の「しあわせ」は逃げ去ってしまいました。
  ですから「しあわせ」の基準は自分に置くしかなくなってしまったのです。自己中心・自己満足です。
  母の懐に抱かれてスヤスヤと寝ていた赤ちゃんもやがて自我が芽生え,自分の要求を満たすことが生きる目的のようになって来ます。そこで必要なのが躾と言われるものです。ダメなものは駄目、と教えられなければ,自己中心となり、自己満足を追い求めるダメ人間になってしまいます。それを「しあわせ」と勘違いしてしまうということは何と『不しあわせ』なことではないでしょうか。
  ですから本当の「しあわせ」とは、エデンの園、すなわち神様の懐に帰ることです。今日の聖書,詩篇の73篇の記者は、「誇り高ぶりねたみの中に生きる人々が栄え、いつまでも安らかで、富を増している。しかし彼らは神様の前には、ただほろびの道を歩んでいるに過ぎない。と悟った」(17節)というのです。そして、自分自身もまた愚かで,わきまえもなく、心は苦しみ痛みの中にあった。「しかし私は絶えずあなたと共にいました。」と神様との関係を失ってはいないと告白するのです。地上にあって人は皆、痛み、悲しみ、苦しみを味わいな がら生きて行くのです。そして人はやがて、不安を抱えたまま地上での終りを迎えるのです。しかし詩篇の記者はいうのです「天では、あなたの他に、だれを持つことができましょう。」(25)そして「私にとっては、神の近くにいることが、しあわせなのです。私は、神なる主を私の避け所とし、あなたのすべててのみわざを語り告げましょう。」(28)と神様への賛美を献げるのです。
  ここで、ただ自分だけが「しあわせ」で満足しているのではなく、それを「すべての人に語り告げましょう」と云っています。つまり、神様との関係性の中で受ける「しあわせ」は人と人との関係性へと広がっていくのです。ですから「しあわせ」の基準は自分(私)に在るのでは無く、私たちを造り今もエデンの園,神の愛の中へと導いてくださる神様ご自身の内にあ るのです。その愛へと導いてくださるのが、イエス様の十字架です。
  イエスが共にいてくださる。これこそが「最高のしあわせ」なのです。ジョン・ウェスレーの最期の言葉は、「最も素晴らしいことは,神様が私たちとともにいてくださることだ。」だったといわれています。ハレルヤ!