牧師室'17.2

◎ 2017.2 ◎

「とこしえの道」

私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、
私をとこしえの道に導いてください。
(旧約聖書 詩篇 139:24)


  私たちは、新しい年を迎え、梅の花が咲き始めた1月27日、2月3日と相次いで、愛する姉妹・兄弟を天に送りました。葬儀が進む中で、共に祈り、賛美を献げ、御言葉に励まされながら信仰の道を歩んできたあの楽しい日々を思い起こし、自然と悲しみの涙がこみ上げて来るのでした。けれども、私たちイエス・キリスト様を信じる者には、計り知れない恵みと希望に満ちた約束が、御言葉を通して与えられているのです。ですから、悲しみの中にも平安があるのです。
  そのような時に示されたことがありました。それは、創世記23章に、愛する妻サラが死んだとき「アブラハムは来てサラのために嘆き、泣いた。」(2節)とあります。これは人間自然の情です。
  嘆き、悲しみ涙するときがあるのです。だからこそ慰めが必要なのです。
  神様は嘆き悲しみ涙することを禁じてはいません。
  イエス様もまた、愛するラザロが死んだとき、「イエスは涙を流された。」(ヨハネの福音書11:35)と記しています。イザヤ書53章には、苦難の僕としてのイエス様のお姿が記されていますが、3節に「悲しみの人で病を知っていた。」とあります。イエス様は「私たちのうちに痛みがあるかないかを」最もよく知っていてくださるお方です。イエス様はその痛み、悲しみを背負って、十字架にかかってくださったのです。
  詩編の記者は「主よ。あなたは私を探り、私を知っておられます。あなたこそ私のすわるのも、立つのも知っておられ私の思いを遠くから読み取られます。」(139:1〜2)と。これは私たちの信仰告白でもあります。そして「それはあなたが私の内臓を造り、母の胎のうちで私を組み立てられたからです。」(139:13)とあるように、私たちは造られた方の手の中にあって平安をいただくことができるのです。たとえどこへ逃れたとしても、「そこでも、あなたの御手が私を導き、あなたの右の手が私を捕らえます。」(139:10)。
  御言葉は私たちにとって、生きた神の言葉であり確かな希望を与えてくださいます。決して、悲しみは悲しみでは終わらないことを私たちに確信させてくださいます。
「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です」(詩編119:105)。
  笑子ちゃんは、重い病気にかかって入院していました。小学校2年生でしたがキリスト教の幼稚園に通っていた笑子ちゃんは、教会学校が大好きでした。
  あるとき、ベットのそばでお母さんが泣いている姿を見ました。そんな姿を見て幼いながらに、死と言うことを考えるようになりました。でも笑子ちゃんは自分のことよりも、悲しんでいるお母さんのために祈りました。
  「神様、お母さんがイエス様を信じ、天国でまた会えますように。」と。そして、毎日お母さんに聖書を読んでもらうことにしました。 教会学校の先生がお見舞いに来てくださると、一緒に賛美歌も歌いました。そのうちにお母さんは教会に行くようになり、イエス様を信じ、笑子ちゃんと一緒に洗礼を受けました。二人は天国行きの切符を手にしました。
  それからしばらくして笑子ちゃんは天国へと旅たちました。
  お母さんは悲しくて、悲しくて涙が止まりませんでした。けれども、共に涙してくださるイエス様がその涙を「永遠の命の道に導いてくださる」ことを信じる信仰に導いてくださったことを、感謝しました。
  詩編の記者はこう歌います。「私は感謝します。あなたは私に、奇しいことをなさって、恐ろしいほどです。私のたましいは、それをよく知っています」(詩編139:14)と。
  ヘブル人への手紙4:15〜16に「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに合われたのです。ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折りにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」と勧めています。
  笑子ちゃんの祈りは、お母さんを恵みの御座「とこしえの道」へと導いたのです。
  私たちが、悲しみの中にあるとき、そこにイエス様は共におられ、傷ついた道(心)を十字架の血潮によって癒やし、「とこしえの道」へと導いてくださることを、私たちは知っているのです。ですから日ごと主イエス様を仰ぎ、祈るとき、心に平安が与えられるのです。感謝あるのみです。アーメン