牧師室'17.1

◎ 2017.1 ◎

「知っています」

それは、主イエスをよみがえらせた方が、
私たちをもイエスとともによみがえらせ、
あなたがたといっしょに御前に立たせてくださることを知っているからです。
(新約聖書 コリント人への手紙第二 4:14)


  皆さん「起き上がり小法師」ご存じですよね。
福島県会津地方に古くから伝わる郷土玩具の一つです。何度倒しても起き上がる事から「七転八起」の精神をも表していると言われています。
  私たちの人生は、正に「七転八起」と言えると思います。辛い事、悲しいこと、苦しいこと・・・数え切れないほど経験して来られたと思います。すべてを覚えてはいませんが、その時その時を何らかの方法で乗り越えて、今日という日があると思うんです。それと同時に、楽しいこと、嬉しかったことも沢山あったことでしょう。「数えてみよ主の恵み」という賛美がありますが、私たちにとっては、痛み、悲しみも、苦しみも、恵みに変えられる事を知っている、いえ約束されているので、苦しみ悲しみは、あえて数える必要はないのです、正に「数えて見よ主の恵み」です。
  そういう意味で、聖書は人生の「七転八起」を記しているとも言えます。「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。」(詩篇119篇71節)とか、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」(コリント第二12:9)と言うように確かな約束が与えられているのです。
  そのように、私たちを支えてくださるのは、私たちを愛し、私たちのすべての痛み、悲しみ、苦しみを担って、十字架の上で死なれたけれども三日目に甦り、今も生きて居られるイエス様です。
そして、同じように私たちにも、永遠の復活への希望が与えられているのです。ですから、パウロ先生は、「四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行き詰まることはありません。迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。いつでもイエス様の死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです。」(コリント第二4:8〜10)とイエス様へのまったき信頼を持って勝利の宣言をしているのです。
  様々な困難苦難の中にあったとしても、イエス様に目を向けるなら、そこに癒やしがあり、希望があるのです。
  ヘレン・ケラーが目、耳、声の三重の障がいを克服した(サリバン先生との)話は世界的に有名ですが、サリバン先生自身も幼少の頃に目の病気「トラコーマ」にかかっており、病気の悪化によって盲目となり(後にある程度視力は回復)、 さらに母と弟の死なども重なり鬱状態に陥ってしまっていたとのことです。病院では誰にも相手にされなくなっていた彼女ですが、掃除のおばさんが彼女に毎日会いにいき、徐々に心を開いていったといわれています。そうした経験から、ヘレン・ケラーとの係わりが始まっていったのです。そんなサリバン先生が、彼女にこう言いました。「雲に触ることは出来ないでしょう?それでも雨が降ってくるのはわかるし、暑い日には、花も乾いた大地も、雨を喜んでいるのがわかるでしょう?愛もそれと同じなの。愛も手で触れることは出来ないけれど、愛が注がれる時の優しさは、感じることが出来るでしょう?愛があるから、喜びも湧いてくるし、遊びたい気持ちも起きるのよ・・・。」と。
  私たちも、イエス様を見ることはできませんが、イエス様の愛の目差し、優しさに触れることができます。
  神様は、御言葉を通して私たちの心に触れてくださるのです。そして神様は私たちのいのちが、地上だけで終わるのではなく、世を去った後も、主のそば近くにおいてくださると約束して下さっているのです。「それは、主イエスをよみがえらせた方が、私たちをもイエスとともによみがえらせ、あなたがたといっしょに御前に立たせてくださることを知っているからです。」(コリント第二4:14)とあります。そして何よりも、イエス様ご自身の約束のお言葉を私たちは知っています。
「わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。わたしの行く道はあなたがたも知っています。」(ヨハネ14:3〜4)。はい、私は「知っています」イエス様、有り難うございます。ハレルヤ!