日の丸半導体壊滅の経緯

 

 

 かつては世界の半導体需要の80%を担っていた我が国の半導体産業も、今ではすっかり かつての造船・鉄鋼より旗色の悪い斜陽産業と化し、かろうじて競合相手の無くなったごく一部のみが残存者利益を得ているのが現状だ。つい先般も、住友金属が半導体用リードフレーム事業から撤退した。

 

 こうなってしまった原因を、業界内で働いていた側からの視点で振り返るに、外国に まんまとハメられた分と、敵が内部にいたという両側面があった。

 

 これらを思い起こし、纏めることは、私にとっても大変つらい過去を掘り起こす作業でもあり筆も進まなかったが、この国の製造業を担う後進が同じ轍を踏むことのないよう記録に残すこととする戻る

 


 

 出稼ぎ先で冷やメシ食いながら 考えた。「私の勤め先に限らず、なぜ日本の半導体業界は こんなことになってしまったのか? 避ける手立ては無かったのか? あるいは こちらにも非はなかったのか?」

 

 たとえば、私が小中学生の頃は、歯医者が慢性的に不足しており、国も歯科医師を目指す学生を育てるべく様々な優遇措置を講じたことがある。だが その結果、今度は歯科医が一時はコンビニエンスストアの数より多く乱立し、歯科医一人あたりの医療報酬は分散してしまう。結果、多額の医療設備をかけて開業したはいいが年収は200万円以下で、借金返せず夜逃げする歯医者まで出た。

 

 これと似たような事が日米構造協議によって起こった。我が国は、日米の貿易不均衡是正のためにと大幅な譲歩を呑んだ。米国の半導体を一定量買わねば制裁を受けてしまったり、冷戦時代なら産業スパイが暗躍して調べていたような(商売)敵国の製造コストを、こっち自らが米国に開示することが義務づけられるなどの おかしな協定を結ばされた

 

 海外から『現代の不平等条約』『10年間の経済レイプ』とも称されたこの片利協定は、'86年にロン・ヤスの関係などと米国におだてられた中曽根首相時代に締結された。この外交敗北により、日本で今まで造っていた半導体は売れなくなり、価格競争力を失い、人も設備も余ってしまったのである。

 

 私と同年代なら、半導体は『日本の次世代産業のコメ』と目されていた時代。国もこの分野を学習指導要領に取り入れ、男子は義務教育の時間に半導体の原理やそれを用いた整流回路くらいは学んだ。高校の頃になると、家庭用ゲーム機のROMカセット一本が8000円代の大台に乗るなど、半導体は慢性的な供給不足に陥っていた。

 

 そんな業界に私が足を踏み入れたのは'90年。なんでまた、首都圏の企業から、東北の田舎の普通高校に求人票が回ってきたのか? それは恩師から「たぶん地元でも人が集まらなかった、誰も遣りたがらない仕事だゾ、イイのか?」 と評される仕事だったからだ。実は私は当初、県内では募集が来なかった栃木の植木屋に応募するつもりが親に反対され、余った求人票から、土作りでなくモノ造りに鞍替えすることにしたのである。就職クラスの担任は「俺、お前が最初 緑を増やす仕事がしたいと言ってて今時珍しいと美談にしちゃった後だよ、どうしよう」と言いつつも、政治経済担当の先生らしく「資源の無い国が先進国と同じ暮らしを夢見た以上、日本の国益とは外貨を稼いでナンボ。我が国はかつて資源を巡って列強と戦争までした。だから君は、今度はフェアプレーで売れるモノ造り、外貨稼ぐのに貢献して欲しい」と就職の世話に乗ってくれた。

 

 だが残念、既に日の丸半導体は10年もの長きにわたりアンフェアルールで闘うことを余儀なくされていたのである。

 

 配属部署が決まる前、新入社員全員で家電メーカーの工場見学した際、数ある事業部の中で断トツ不人気だったのが半導体で、中でも同期のO田君(原文では実名)が「自分は授業でCAD(コンピュータ製図機)を使ったけど、あの仕事だけは絶対遣りたくない、勘弁だ」と唸っていた。確かに見るからに『ハイテク』な感じであっが、同時に取っ付きが悪そうだった。そして私はその不人気な半導体の中でも さらに同期が絶対イヤって部署の配属になった。

 

 工業高校のCAD経験者を差し置いて、なぜ私が あの部署へ? これは思い当たるフシがある。適性試験で なぜか『幻惑されずに迷路をたどる』ペーパーテストがあったことを。私の小〜中学時代の同級生にS々木君という遊びの天才がいた。彼には休み時間、自由帳にやたら凝った迷路を書いては級友にタイムアタックさせるのを趣味にしていた時期があり、そんな彼に鍛えられた私は 会社の適性試験に思わず熱くなってしまい、スピード・正解率共に超絶ハイスコアを叩き出したのである。

 

 で、配属されたのが、主にIC内部の回路図/パターン図の配線を追ったり辿ったり繋いだりする仕事だったと。趣味の工作が幸いし、私は「評価基板も手がけるCAD作業者」という合わせ技で重宝され、独自のポジションを築いた。

 

 しかし労組の言うような儲かっていたので他の事業部から 羨まれていた仕事の実態は、決して左ウチワだったワケでは無い。人手不足の仕事、仕事で先輩共々午前帰りは当たり前、仕事場で夜明けのコーヒーを飲むこともザラだった。

 

・より優位なICで他社を出し抜くためには5月連休も盆休みもシルバーウィークも正月休みも返上だった(これは製造部も)。

・相部屋の先輩のひとり、K野さんは毎月200時間捨てていた時期があったという。

・土曜の午前中に先輩の結婚式、なのに午後出社したら新郎がCADで仕事をしている。

・休日も部長から電話が掛かって「大変申し訳ないんだけど・・・」と測定の仕事があれば出社。

・上司はたびたび寝言で「え〜これから(機種名)の量試会議を〜」というのを奥さんに聞かれていた。

 

 という有様だった。橋龍不況やリーマンショック、震災以降を除けば最後まで黒字部署でありつづけたものの、これが他の事業部から うらやまれていた半導体事業部の実情であった。

 

 当時は「モーレツ社員」が企業戦士などと もてはやされ、「ライフワークバランス」という概念も無かった。労組も会社側が「今が稼ぎ時だから」と連休返上で稼働させたいと申し入れれば労組は唯々諾々と受け入れた。「あー、世間は長期連休なのに何でウチら仕事してんだろ。国民の祝日にも働かす会社の社長は非国民」などと嘆いても、隣の先輩は「いやー俺は別に連休つっても遣ること無いし、だったら仕事で稼いだ方がいいかなーって」という塩梅だった。仕事が趣味って人なら適性があったかも知れない。

 

 思い起こせば暗雲が垂れ込めて来たのは'92年。協定違反者に対する「見せしめ」的な懲罰を見て恐れをなした国内メーカーが、汎用LSIをこぞってアメリカ製に切り替え出した頃だ。

 

1989年(協定から三年後)の業務用アミューズメント機器における主要メーカーの採用CPU

メーカー

使用システム基版

採用CPU

製造国

セガ

SYSTEM16

68000Z80

米国

ナムコ

SYSTEMU

68000

米国

タイトー

F2

68000Z80

米国

コナミ

TWIN16

68000×2 、Z80

米国

ジャレコ

MEGA SYSTEM

68000×2 

米国

カプコン

CP1

68000Z80

米国

アイレム

M72

V30Z80

日本 米国

 

 

 この片利協定、あまりのバカバカしさに、当初は日本国内でもあまり守られていなかった。しかし その一件があってから、勤務先の主力製品だった汎用品は、国内メーカーが「ウチも訴えられてはタマラナイ」と、皆アメリカから買うわけだから当然苦しくなった。(反対に、アメの半導体メーカーは、ウルグアイラウンド同様、労せず日本へ半導体を売ることができた)。そのため私の所属部署は、なまじ黒字部署だったがために、赤字部署の損失補てんまで遣って やっと評価されるという厳しい目標を背負わされる羽目になった。

 

 もちろんこちらも不平等条約で実入りが減るのを手をこまねいていたわけではない。半導体業界から「あの会社に この人あり」と目されたE部長(原文では実名)も、日米半導体協定の脅威を早くから見越していた一人だった。その対策にと暖めていた構想を、私の入社時には既に動かし始めており、経済新聞で米RCA社がメキシコでテレビを生産する記事を目ざとく見つけ、「是非ウチのICを」と、部長自らが米国へ営業活動に出かけた。「汎用がダメならウチはオンリーワン製品に活路を見出す」。開発に6年掛けて部長が売り込んだICは、今まではテレビの出荷前調整を、画面を見ながら裏のボリューム抵抗回して決めていた行程を、PCに繋げることで個々のばらつきを自動で調整し安く造れるようにするというモノだった。RCA社のパートナー企業SGSトムソンは、日本人に対する偏見があり、当初は営業に来た部長を正門から入れてくれず、裏口から通されたそうだ。だが結果的に、そのICは、両社に多大な利益をもたらしたので、部長もトムソンに正門から入れてもらえるようになり、会社からも、IC単体としては珍しく会長賞を得るに至った。開発部のK主任(原文実名)は、金一封を自分の懐に入れることも出来たが、開発に携わった人全員、私のような下っ端にもオンリーワン製品の記念品(当時としては文房具業界唯一の0.3mm極細万年筆)をくれた。

 

 しかし競合他社もさるもの、同じ無調整ワンチップICを、今度は東芝深谷やシャープのような他社も追随してきたのである。勤務先は特許に甘いとよく言われたが、「特許、特許」でギチギチにするのは業界の発展を妨げるとの哲学が開発部に あったため、業界技報の論文で無調整ICの技術をブロック図と共にオープン開示したところ、容易に他者にマネされて、たった数年で一個1200円だったIC300円台に下落してしまった。同じく日米半導体協定で干された国内他社が、今度はなりふり構わず同じ国内市場の奪い合いを仕掛けてきたのである。かくして私の所属部署も、折角築きあげたマーケットを他社に取られぬよう、さらなる微細化プロセスと、使用頻度の低い機能をブロックごと削除した廉価版の作り直しに迫られた。こうして国際競争力という名の持久戦に このジャンルも巻き込まれ、同じ国内企業が同じ用途のICを巡って潰しあいで疲弊していったのである。

 

 日米半導体協定の締結は、先人が苦労して築き上げた国内市場を易々と米国半導体メーカーに明け渡したばかりか、かつては一大CPU製造国であった日本が、性能ではなく、アンフェアな協定の制約で、汎用IC市場ばかりか自社も手がけていたマイコンに、日立やNECも造っていた中央演算装置市場の将来をも潰された瞬間であった。この協定が、日の丸半導体凋落の元凶となったこと、また日本で仕事を干されてしまった半導体業界の労働者に対し、中曽根元首相は勿論のこと、アメリカ通商代表も一切、謝罪していない

 

 戦勝国に命乞いをし、米国に うだつの上がらない元職業軍人を首相に据えたら外交で足下見られる/つけ込まれるのは当然で、その反省からシビリアンコントロールという言葉が出てきたのも この頃である。が、半導体業界にとっては そんな議論も遅すぎた。

 

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 日本政府の「お人好し」な外交手腕も敵に塩を送る結果となった2014年頃のリストラ面談席上で、Sシニアマネージャ(原文実名)が「オレは悪くない」という話の流れでこんなことを言っていた。

 

 「我が社は今のサムスン(電子)がまだ三星だった頃、向こうの技術者を呼んでウチの寮に住まわせ、今まで培ってきた半導体製造のイロハを惜しみなく教えていた」。しかし、その影響を真っ先に受けたのが国内D-RAMメーカーだった。日本のD-RAM市場は次第に韓国や台湾の振興メーカーに市場を奪われ、去年粉飾決算で騒がれるほど収支悪化を招いたのである。「だがソレ(外国への技術支援)は日本政府からの要請だったのであって、オレが悪かったワケじゃない」と。

 

 外交とは、他国からカネや譲歩を引き出してナンボである。その点、日本政府は、九州地方の人が「おにぎり食べたい」と言って死んでいったその頃、あるいは都内で老齢の姉妹が病死と餓死を遂げたのが報道されていたその頃、もしくは郷里の苦学生が、貧しさから進学をあきらめねばならなかったまさにその頃、敵性国家の留学生には年間200万円もの援助をし、この3年だけでも130兆円もの日本の血税を海外にバラ撒き、TPP交渉でもタフ・ネゴシエイターが聖域5品目すべてを米国に明け渡し、自分たちの変わらぬ暮らしの維持のため、議員報酬と公務員給与を引き上げ、そして庶民には増税した。

 

 今まさに『経国済民』(国を経営し、民を救済する)の逆、『民に先んじて楽しみ、民に遅れて憂う』を地で行く日本政府は外交の基本動作を間違っているとしか言いようがない。

 

 この外交を間違った政府と同様、私のかつての勤務先もまた、ライバルを出し抜くどころか商売ガタキに塩を送りまくって自らの足元/メシのタネを切り崩し、メモリで競合した東芝に大損害を与え、その屋台骨を揺るがすなど、国がそうなら経営陣も「親方日の丸」とばかり政府の言うことに唯々諾々と従って、経営というものの基本動作を誤った

 

 半導体事業部は、全国から「我こそは」と名乗りを上げて来た人の集まる部署でもあったので、希に規格外の目利きや天才が入ってきた。音響LSI部門のN村氏(原文実名)もその一人だったろう。彼は'91年頃すでに「ウチの会社はお人好しすぎる」「たとえ海外への技術支援といえども食い扶持である技術の部分はブラックボックスにすべき」「このままではウチの会社は、ごく僅かな社員の雇用維持と引き替えに、日本人の稼ぎが外人に吸い上げられる経済植民区になってしまうだろう・・・」その席で、彼の話を聞いていた人は皆「まさか」と言っていたが、現にその通りになってしまったではないか。経営者の周りをイエスマンばかりで固めるのではなく、彼のように意見できる人が一人もいなかったことが今さらながら悔やまれる。

 

 

 日米構造協議では、日本政府が、裾野の広い自国の自動車産業保護のため、そうでもなかった半導体をアメリカに差し出し譲歩した、とも言われている。理由は、(シリコンウェハー上に素子を形成するタイプの)半導体は確かに米国の独自発明だが、自動車の発明は、フォードやデトロイトのイメージから これも米国が本場と思われがちだが、実際には米国でなく、欧州(のどこか)であるから、米国も ことクルマに関しては、日本に強いことは言えなかったのである。

 

 そういう意味では、米国の半導体産業は、根っからの砲艦/恫喝外交国の歴史にならい、自国の始めた産業をマネされたので政治圧力で取り返した、という見方も成り立つ。

 

 しかし日本の半導体産業従事者にしてみれば たまったモノではない。過去にもアメの一青年が、「クジラは(自分たちが日頃口にしている)牛や豚より知能が高い。そんな賢い生き物を殺すなど、日本人とは何と残酷な民族なのだろうか」などと、日本を開国させた理由も忘れて始めた市民運動が、それまで捕鯨で食ってた人間を、減収や失業、一家離散にまで追い込んでおきながら、例によって一切謝罪していない。

 

 日米半導体協定とその余波により、自国市場まで米国にシェアを奪われた国内半導体メーカーは、新規設備の投資にも消極的にならざるを得なくなった。当然、それまで日本の半導体メーカーに製造装置や産業ロボットを卸していた会社も、ウェハーやレチクルの供給メーカーも、自国の半導体メーカーがなかなか買ってくれないので売り上げは落ち、経営も厳しくなった。装置メーカーは売り上げ維持のため、国内メーカーに売る予定だった最新鋭の製造装置の売り込み先を韓国や台湾に求め、最新鋭の製造装置でシェアを侵食された日本の半導体メーカーは、思わぬ身内からの寝返りによって痛手を受けた(東芝はCOCOM違反で捕まったが、新興国は共産圏ではなかったので、競合メーカーへの製造装置販売を自粛要請/禁止することは誰も出来なかった)。

 

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 成果主義の名のもとに断行された賃下げも社員の勤労意欲を下げる結果となった。

 

 経済評論家の森永卓郎氏曰く、今年10月レノボへの買収が決まり、凋落ぶりをあらわにした富士通が成果主義を導入して何が起こったかというと、@手柄の横取り、A仕事の抱え込み、B足の引っ張り合い だったとされている。全く同じコトが、良くも悪くも流行りを節操なく取り入れる私の勤務先でも起こった。

 

 @手柄の横取り:半導体事業部の中でもとりわけ稼ぎの良かった私の所属部署(アナログLSI設計部門)だったが、使っていたCAD端末がCRTモニタから液晶ディスプレイに置き換わったのは一番最後だった。昔のブラウン管モニタは、遠くから見ると「俺は毎日こんなのを間近で見てるのか」と驚くほどフリッカー(チラつき)が激しく、私も先輩方も そのせいで随分と視力を落とした。また妊婦には、CRTモニタが発する電磁波やX線から胎児を守る専用の防護エプロンが支給されていたほどである。ある時、ICデザインセンター3Fのあの長い渡り廊下の半分を、ダイヤトーンの液晶モニタの箱がズラリと並んでいた。シャープのX68000用液晶モニタが50万していた頃と時期的にそう変わらない時期だ。すべてデジタルIC部門が、レンタルでなく購入したモノである。「MOS(デジタルIC)は伸びる!」ということで、赤字でも潤沢な予算がデジタルIC事業部に振り向けられていた。片や、私や先輩後輩の端末は、稼ぎ頭だったにもかかわらず、モニタが液晶に変わったのは、同じデザインセンター3F内でも最後から数えた方が早い。

 ちなみにデジタルIC部門は、もしアナログIC部門の利益の融通がなかったら、あっという間に運転資金が底をつき、事業が続けられなくなってしまうほどのカネ食い部門だった(これは勤務者やOBなら誰もが知ってる事実である)。

 

 A仕事の抱え込み:日米半導体協定の不条理に加え、消費税を5%へ引き上げたことに端を発した いわゆる橋龍不況が顕著化し、いよいよ全員を満足させるリソースが減ってくると、傾いた船の上で醜い椅子取りゲームが始まった。私の入社時の上司・Y主任(原文実名)が、ビジネス開発課に送られたのもこの頃。彼は私や先輩たちに、マンツーマンで、それまで培ったCADの操作や、パターン設計を手書きの頃から遣ってきた回路設計のコツやイロハといった自分のノウハウを惜しみなく伝授してくれた人だ。その功労者が、自分の後継者(若く薄給で同じ仕事ができる)コピーを作ったら用済みにされるのを目の当たりにした課長主任クラスはどう出たか?

 

 彼らは次第に自分の仕事の抱え込み、つまり意図的に後継者を育てないことで自らの「存在価値を高め」リストラを免れようとした。このため開発部の社員はどうにも後継が育たず、当然ICの開発力は落ちた。開発部では大卒で放っておかれる新卒が多く出た。彼らは自分の上司について「忙しいからと なかなか仕事を教えてくれない」と、回路図を渡す先の私に愚痴をこぼすことが多々あった。それら新人は、手探りでICの精度を取るために「(顕微鏡を見ながら配線の)ココとココを切れるように、幅広にしたメタル配線を こすって引き延ばすことでココとココをショートできるように」という指示を出してきたので(量産品にテストパターンを仕込むようなモノ)いかに素子を詰めて書いて収率を上げるかが要(かなめ)なハズのパターンサイズは肥大化し、ウェハーあたりの収率/利益も落ちていく。

 

 B足の引っ張り合い:そして震災で、全員を満足させるリソースが無くなるや、いったん小さくなって皆で分け合うのではなく、手前らの生活水準維持のため、おとなしい社員を畑違いの部署に送り込み、自己都合退職へと追い込む過酷なリストラが行われた。営業研修では、営業職に選ばれる人数に限りがあることが示されるや、詰め所はライバル意識でギスギスしはじめ、つまらぬことで言い争いや諍いが発生した。時の経営者の「我々の船に全員は乗せられない」という、経営者としてあるまじき発言も物議を醸し、それを引き金にヘッドハンティングに応じる者やキーマンの転職が多発して(営業研修当時の私の上司も)、結果的に親会社も勤務先の人材は枯渇したと判断され、ブランドの維持は撤回、お家再興を願って集った面々も散り散りになった。

 

 社員教育を重んじる企業なら、中堅社員研修で習うはずだ。班分けをして、あるゲームをやった。うまい方法を班全体で情報共有したグループと、互いにライバル意識を持たせ、隣同士に良いテを教えないグループとの結果は歴然だった。それにより、自分たちだけ助かろう とか 自分だけ手柄を独り占めする手法や足の引っ張り合いは トータルでは損をしますよ(合成の誤謬と呼ばれる)という結論だった。その間違っていた事を、皆で始めてしまったのである。人も組織も順境の時でなく、逆境の時その真の姿を現す。

 

 「法律は、道徳律の下位に位置する」「法律とは最小限の道徳である」というが、 「だったら法律に抵触さえしなければ何しても良い」と、彼らが思ったかどうかは解らない。しかし、なまじ大企業の方が、法務部は過去の判例を徹底的に調べ上げ、最大限のダメージを、最小限のコストで、もしくは違法スレスレを「法律上『は』何の問題も無い」とばかりに随分えげつないことを遣る。 富士通しかり、マツダしかりである。

 

 しかし富士通はその後どうなったか? 元富士通社員から内部事情の暴露本が出て、FM-TOWNSの頃から富士通贔屓だった自治会のK氏をして他社製品に乗り換えさせるに十分だった。マツダはどうなったか? 私と同じような目に遭った元社員が恨みつらみで工場にクルマで突っ込む事件が起きたのは割と最近である。私も納得いかないことはとことん異議申し立てする人間だと思っていたが、上には上がいるものだ。

 

 サラリーマンの多くは法律に明るくない。巧妙な手口のリストラに、多くが泣き寝入りをした。だが裏を返せば『金持ちケンカせず』といいまして、彼らは まだ泣き寝入りできるだけの余裕があった、とも言える。たとえば出稼ぎ前の意識づけ研修でご一緒した方(名前失念)はこう言っていた。「オレは実は困ってないんだ。あの山(赤城山のこと)の麓に自衛隊の演習所があるだろう。実はソコは先祖代々オレの土地で、自衛隊に貸しているので何もせずとも不労所得が入ってくる。だからオレは困ってないんだ」。営業研修で同じ班だったS水氏は「オレは親が公務員だったから、派手な暮らしをしなければ残り一生を暮らせるだけの遺産がある。だから出稼ぎ先を見学した時 辞めることにした」と。S藤氏は実家に戻って家業を継ぐといい、M山氏は「ウチは兼業農家なので当面そっちに軸足を移す」と言っていた。

 

 だが、そんな彼らと違い、泣き寝入りできるだけの余裕は私に無かった。また「骨折り損のくたびれ儲け」の出戻りを迎える余裕のある親族だって私には居ない。

 

 これが昔なら、たとえば私の母方・香川の実家は古かったけれど部屋数だけはあり、叔父や私の弟は失業しても「しばらくご厄介になります」と、次の仕事が見つかるまでと、しばしば住み込んでたモノだ。つまり突然の失業にも対処できるクッションがちゃんとあった。ところが、失われた20年で、別に商売やオフィス兼用などでもなく、最小限の住むためだけの家にまで、容赦なく掛かり続ける固定資産税さえ満足に払えなくなり、実家を泣く泣く手放した。するとかつては失業時に身を寄せることの出来た実家が無くなった叔父や弟は、じっくり次の仕事を比較考慮できる時間・金銭的余裕の無いまま不満足な仕事に就くことになり、それで心身のコンディションを崩し悪循環に填っている。

 

 このように、かつての中間層までが、税の取り立てのし過ぎでイザという時の緊急避難所まで失い没落していく、いわゆる滑り台社会への急速な変貌を、食うに困らぬ世襲職業政治家のお坊ちゃんお嬢ちゃんは まったくご理解していない。それどころか、そういう人々の足下を見てビジネスチャンスに変えようとする現代の奴隷商人を、内閣のご意見番に重用している始末だ。

 

 本社の人事部門や労組に勤めていた超エリートの方々にしてみれば、私の働きなど取るに足らないモノだったろう。しかし、誰も遣りたがらない仕事であっても 誰かが遣らねばならなかった。

 

 たとえば知財。当時、勤務先の半導体設備は未だ最小線幅が3ミクロンなんてのはザラだったので、よく台湾や韓国の泥棒メーカーにデッドコピーされ市場を浸食されていた。被害の大きなICに絞って知的財産を主張するための資料作りが、本業とは別に私をはじめとするCAD作業者に回って来た。この仕事に、音響課の大卒の新人が「なんでこんな仕事を遣んなきゃいけないんですか」「私はこんな仕事のためココに入社したのではない!」と、上司に訴えてたのを覚えている。確かに時間を取って遣ったところで評価には全く繋がらないし、それで自分が成長するようなミッションでもないし、なにより本業を圧迫するしで誰も遣りたがらない。しかし、デッドコピーでタダ乗りもくろむ泥棒を牽制するためには、誰かが遣らねばならなかった。

 

 たとえば不良解析。ある測定項目でNGが多発した時に製造工場から来る不良サンプルと工程異常連絡票。原因究明のため開発部門に診てもらい、要請があればICの樹脂開封のため別棟の品質保証部へ出向いて回路を覆うモールドを削り、発癌性があるという危険な薬剤を手につかないよう吸わないようパターンを露出させる。頃合いを誤り本パターンまで削ってしまわぬよう慎重な操作が求められる。しかしコレ、本来ならCAD作業者の仕事ではなく、品保や計測技術の仕事である。このカネにもスキルにもならない仕事を一緒にしていた後輩のS君は、ある日突然ブチ切れて「こんなん遣ってられるかー!!」とちゃぶ台返し。懇意だった他部署の課長に働きかけ、開発部へ移籍してしまった。W口部長(当時)言うには、一度仏心出して手伝ったら「便利や便利や」ということになって、他部署が遣るはずの仕事までなし崩し的にウチらの仕事になってしまったんだよなぁ・・・とのこと。誰しも あんな後ろ向きな仕事など遣りたくない。しかし歩留まり向上のためには誰かが遣らねばならなかった。

 

 たとえば業務連絡。二人いた業務担当者を一人に減らし、内線/外線電話のコールを仕事中のCADルームに押し付ける。仕事中に延々と鳴る電話のベル。仕方ないから性能まちまちなCADのローテーションで電話に一番近い人が取る。業者から搬入の電話が来れば−これは本来業務の仕事だが−エレベーターで3Fもしくは4Fから、1Fの資材搬入口まで降りて対応せねばならない。「何でこんなことになっとんねん」と意地でも電話を取らない人もいた。仕方がないので私や後輩が仕事中断してCADの席を立ち取り次ぐ。大所帯ということもあって電話は殆どひっきりなし。割り込みが発生すると当然仕事の効率は落ちる。こんなのがローテーションが終わるまで延々と続く。本来電話番なんて誰も遣りたくない。しかし呼び出し音が10コールも20コールも延々鳴っているのに誰も知らんぷりしていれば、誰かが取らねばならなかった。

 

 たとえば試作。設計部や開発部は、ICの評価基板を作成し、測定工場に「これと同じモノを作って下さい」と、回路と一緒に渡すためのIC特性評価基板を作る仕事も別途あった。実機で検証しながら発信止めのキャパシタを追加する仕事があった。これは、CADオペレータとして集められた人にしてみれば、事前に説明も無く、本業を圧迫しかねない、誰も遣りたがらない仕事だったろう。もっとも、私は電子工作やシャーシの加工、木工は技術の授業でノリノリだったので苦にはならなかった。

 

 たとえばプログラミング。安藤電気の『5040』は、私の入社時点で時代に取り残されたパンチカード式のDCテスターだった。入社してまもなくIC測定は横川電機のACテスター『TS2000』に置き換わろうとしていた。このため安藤5040テスターは消えゆく存在だったが移行期間は私がプログラムを組み、測定していた。なぜなら顧客に対し「当社はテスター入れ替えのため、しばらくICの販売を停止させていただきます」などということは出来なかったのだ。移行期間、そしてACテスターが安定するまでは、誰かが消えゆく運命のテスターを繋ぎで運用せねばならなかった。もし皆さんの身内で工業を志す人が居たら、あなたは彼に言わねばならない、「ツールの移り変わりが早く、使い捨てにされるSEITドカタにだけはなるな」と。

 

 今は亡きバリッド社製の自動配置配線ツール『COMPOSE』。アプリコン社のCADAGS860』。先細り、もしくは倍々ゲームで増え続けるICの大規模化に処理能力が追い付かず、次世代機器に入れ替えられるのが決まっていた。しかし これらも同じ事で、半導体は顧客あっての商売である。こちらの都合で勝手に「当社は設備入れ替えのため 当面開発を中断させていただきます」なんてことはできない。消えゆく存在と分かっていても、デリバリショートを起こさぬよう、つなぎの間に誰かが古い機械の測定プログラミングを覚え、使わねばならなかった。

 

 これに対し、先輩だったO氏(連休中出ずっぱりの先輩とは別の人)は「この仕事は割に合わない!」と、製造部への異動を願い出、受理された。事実勤務先の技術職は、業界内でも薄給なことで有名だった。交代勤務者の駐車場に停めてあるクルマと、日勤者の駐車場に停めてあるそれは、車種もグレードも露骨に違った(裏を返せば交代制勤務の しんどさを、ちゃんと評定してくれていたとも言える)。

 

 その会社命令に従って我慢をし、ちゃんと自分たちの稼ぎどころか他部署の赤字も埋められるほど結果を出していたにもかかわらず、震災のドサクサ紛れにまだイイ目を一つも見られないまま 自分たちだけ助かろうとした者たちによって営業力強化の名のもと体よく外へ追い出して、畑違いの仕事で評価を下げて ポイ捨てとは あんまりである。

 

 おかしいと思わなかっただろうか? 機能的には大手メーカーとほとんど遜色は無かったのに、競合他社と比べて明らに34割は安かったことを。その安さの秘訣は、企業努力だけでは達成できず、前述K野さんのサービス残業な会社人生の例が示すように、末端社員が己が身を削ることで原価を浮かせていたのである!

 

 バブル崩壊の翌年に、ギリで最後に入ってきたH田さんの他には10年以上も高卒の新人が入らなかったものだから、私と同期は格付け的には年中下っ端だった。部下のいない「主任」も一杯いた。しかし人も組織も供給・代謝が滞ればスカスカになり、ズル剥けになる。それは最近よく言われる持続可能な状態でもなければ、次代を生み育てる状態とも程遠い。どこかに無理があったので、何かの拍子でいともたやすく破綻するし、事実破綻した。

 

 「社員からの搾取でしか利益を上げられないような会社は淘汰されるべき」と人は言う。だが、その発言だって所詮はヒトゴトであり、いざ淘汰される側の当事者にとっては 一度しかない人生、それまで積み上げてきた諸々が水泡に帰するというのは どういうことかをリアルに経験した身としては、素直に「そうそう、そうだよね」と相槌打つことはなかなかできないモノがある。

 

 淘汰を辛くも免れた部門の名誉のために言えば、大赤字を出していたMOS(デジタルIC)の技術者も、それなりに役立つモノは作り、それなりに成果を出した。たとえば、MP3が音楽フォーマットとして認知されてきた頃、それまでポータブルオーディオはソフトウェアで処理していたMP3デコードをハードワイヤ化することでプレイヤーの応答速度は飛躍的に増した。会社がデジタル機器のOEMで儲けることができたのも、画像処理チップを他社から買うのでなく、社内調達できていたことによる。また、テレビゲームの黎明期、業務用基板に乗っていた合成音声ICは、その聞き取りづらさが却って凄みを演出し、数々の空耳が誕生したのは当時を知るゲーマーの間で今なお語り草になっている。 だが、折角世間に認められる/役に立つ/文化の一助になったICを世に送り出しても、それが利益に結びつかなければ、そこで働いていた人々の労働は、とにかく何でもかんでもカネ、カネ、カネ、カネな資本主義の論理の前では全否定されてしまうのである。

 

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 政府は言う、「衰退産業から成長産業への労働移動」と。私は日米半導体協定によって弱体化した産業分野からパージされ、政府に煮え湯を飲まされたクチであるが、では、私は なお日本政府を信じ、半導体産業と引き換えに、米より存続を許された日本の自動車産業に、労働移動する気はあるだろうか?

 

(2016/12/25)

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