規制緩和推進派が反対派に転向
アルフレッド・カーンは、規制緩和の必要性を主張した経済学者の一人で、七〇年代から八〇年代のカーター政権において、大統領の依頼により航空業界の規制緩和を進めた。 カーンと共に航空自由法の制定に携わったポール・テンプシーは、規制緩和における自由化は、労働者の生活水準を著しく下げ、安全も脅かすと考え、八〇年代には反対に転じた。 『もし、あなたが日本で規制緩和しようというのなら、こう理解しておけばいい。規制緩和とは、ほんの一握りの非情でしかも貪欲な人間に、とてつもなく金持ちになる素晴らしい機会を与え、一般の労働者にとっては、生活の安定、仕事の安定、こういったものすべてを窓の外に投げ出してしまうことなのだと』 『多くの人々は『規制緩和』という言葉を経済学者が振りまいたとき、ルールが変わってしまうということには無自覚でした。皆が、何となく良くなるという錯覚を持っていたのです。結局、そうした人々はゲームから弾き出され、得をしたのは、権力の中枢にいてルールブックが変わることをよく自覚していた一握りの人々でした』 アメリカではカーター/レーガン政権の規制緩和政策によって、終身雇用が破壊され、金持ちはますます金持ちになった。その一方で、普通の人々はウォルマートに代表される小売業、マクドナルドなどのようなサービス業で、それまでの半額程度の低賃金かつ不安定な雇用に吸収されていった。 安全性の後退
労働の規制緩和によって、安全面でも問題が出てきている。 日本航空では整備コスト削減のため、二〇〇〇年に新たに設立した子会社に本社から整備士を出向させ、ここに整備を委託するようになった。 二〇〇三年には、八五年の御巣鷹山墜落事故後導入された機付整備士制度を廃止。 現在は整備の四割ほどを、本社でやっていた当時のおよそ三分の一の費用で、シンガポールのSASCO(サスコ)、中国のTAEKO(タエコ)に委託しており、二〇〇五年からはエンジンの整備もすべて子会社に委託するようになった。 日航では二〇〇五年に六四件の整備ミスを数えた。これは全日空の六倍で、日航がコスト削減のために整備部門の殆どを海外や子会社に委託してしまったことが 原因として指摘されている。 ・ 二〇〇五年には羽田空港に着陸しようとした日本航空のボーイング767が、前脚タイヤが二本とも外れ、乗客十八人が軽傷を負う。 ・ オーストラリア・シドニー空港で離陸しようとした日本航空のボーイング747 が、滑走路に向かう途中に主脚付け根部品が破断 ・ 福岡空港を離陸したJALウェイズ機のエンジンから火が出て、部品の金属片が多数落下 ・ さらに二〇〇六年に入っても、八つの機体ドアのうち七つのドアで緊急時に使用するドア操作補助装置の電源に電池を入れ忘れたまま飛行していた主翼と胴体の間にあるパネルが脱落したなど、整備不良が原因と見られるトラブルが続出。 『コスト削減のための従業員の待遇の悪化、そして安全面での手抜き。これこそが規制緩和の負の側面です。自由競争という御旗の元で、安全や整備ということがどんなに疎かにされてくるのか。JAL、スカイマークといった身近な企業でそれが起きたことで、ようやく日本の人々にもそのことが分かってくるのではないかと思うのです』 寡占化の進行
『日本で規制緩和が始まった九七年には、三社の航空会社が鼎立していましたが、競争の激化により、日本エアシステムは、日本航空と合併の道を選ぶことにな ります。 現在の日本は、基本的に二社の航空会社しかない寡占状況ということになります。 ヨーロッパでは、 今、航空の規制緩和をすべきか否かが大変な論争になっています。 先日、「インターナショナル・ヘラルド・トリビューン」というパリで編集している新聞に、ヨーロッパ視点の論説が載っていました(二〇〇六年四月四日)。 その取材グループは私たちと同じようにアメリカの航空規制緩和を実施したスタッフに実情を聞いて、「国内路線の寡占化が進んだ結果、アメリカ国内のどこかからコロラド州のある都市に行く飛行機運賃の方が、アメリカからパリに行く運賃よりもはるかに高くなってしまった」という実話を紹介して、「いかに社会的なコストが大きかったか。同じことをヨーロッパは絶対にやってはいけない」と主張していました。』 乗っ取り屋の横行
アメリカの航空業界は、政府が、路線への参入・退出および運賃についての規制をおこなっていたが、一九七八年、路線の参入・退出が自由になり、運賃も自由に決められるようになった。その結果、怒濤のような新規参入と激しい競争が起き、四位と五位の航空会社がこの競争から脱落・倒産する。 シャーロン・ハリスは、空を飛ぶ仕事を志望してイースタン航空に入社、二六年間ずっと同じ航空会社に勤務していた。規制緩和が始まるまで、彼女の生活は幸せだった。 「イースタンが私の人生でした。イースタンが私の家族でした」 と彼女は述懐す る。「規制緩和の前は、生活も会社も安定していました。皆が互いに信頼しあっていました」と。 アメリカでも規制緩和が始まるまで は、航空会社の経営も安定しており、一つの会社にずっと勤め続けるという、日本的な終身雇用に近い境遇が普通に見られた(誰だよ日本の雇用がおかしいとか いってたジャーナリスト連中は)。 しかしシャーロンは、愛するイースタン航空の経営が刻々と悪化してゆく様を、まさにその現場で見ることになる。 「カーターが規制緩和をすると言った時は、規制緩和という概念自体が私にとって新しく、まさか、ここまで酷くなるとは思ってもみませんでした。しかし、変化はすぐ現れました。アトランタから二〇〇ドルで飛んでいたイースタンは、同じ路線を八九ドルで飛ぶ新規参入航空会社と戦わねばならなくなったのです。 『給料をカットしないかぎり、会社はやっていけない』と言われ、私たちは給料の三.五%を会社に返すことになりました。それが五パーセントになり、一〇パーセントになり、最終的には、後に紙屑になったイースタン航空の株券と引き替えに一八パーセントの賃下げを私たちはのみました。 四人乗っていた、フライトアテンダントは三人に切り詰められ、機内食は不味くなり、一回乗ってサービスすると汗が体から滴っていました。 それでも、会社は利益を上げられず、八五年に経営者は、悪名高い会社乗っ取り屋のフランク・ローレンゾーにイースタン航空を売り飛ばしてしまいました」 イースタン航空を買収した乗っ取り屋のローレンゾーは、真剣に航空会社を経営する気は最初からなかった。彼は従業員の給料をさらに削り、休憩時間を半分以下に減らし、一万人の首を切り、コスト削減のために検査や修理を怠り、安全検査の数値を改竄した。その一方でイースタン航空の持つ資産を次々と切り売りし て自分の持つ別会社に移してゆき、最後にはイースタン航空を潰してしまう。九一年、イースタン航空倒産。 ニュースを機内で知った シャーロンは、その夜一晩中泣き明かした。 シャーロンは失業者となり、家のローンを抱えたまま路頭に放り出される。その後、彼女は職を転々としたあげく、取材時点ではベビーシッターをしていた。 「年俸三万ドルの仕事から自給六ドル五〇セントの子守の仕事に落ち着いたわけです」 シャーロンは自嘲気味にそう語っている。 イースタン航空が潰れたときには、倒産から六ヶ月の間に二六人もの元従業員が自殺したとされる。アトランタ郊外に住んでいた整備士は妻と子どもを射殺した後、自身もピストルで自殺を遂げた。 その一方で、イースタン航空を潰した乗っ取り屋のフランク・ローレンゾーは、イースタン航空が倒産したその年にも、経営者としての報酬や株の売却で、三一〇〇万ドルもの収入を得ている。その他の航空会社でも、規制緩和による競争の激化を理由に多くの従業員を解雇し、残った従業員に対しても給与カットなどの賃金水準切り下げ、長時間労働など労働条件の悪化を強要しながら、経営者だけは一〇〇万ドル近いサラリーを得ている。 働く人々の生活水準は劇的に低下し、経営者と株主、投機家という一握りの強者が莫大な富を手にする。それが、規制緩和によってアメリカで起きた現実だった。 日本における村上ファンドの企業買収のしかたも、同じ文脈で理解できる。 標的とな る企業の株を買い集め、一定水準以上に達すると「経営陣を送り込む」。さもなければ「企業価値」を上げろと、資産の売却を含む大胆なリストラ案を提示する。その結果、上昇した株価で売り、その利ざやを得て、一〇〇パーセントをこえる運用実績をほこっていた。 買収された企業からすれば「乗っ取り」と批判される行為によって得た利益はどこにいったのか。それは、村上ファンドに運用を委託していた日銀総裁の福井俊彦氏であり、一九九〇年代半ば以降、「規制改革会議」などで金融などあらゆる分野の規制緩和を推進してきた宮内義彦氏(またオメーかよ)がCEOをつとめるオリックスのグループ企業に流れていった。 まさに『AMERICA:WHAT WENT WRONG? 』のスティールとバーレットが喝破したように、日本でも、規制緩和で「得をしたのは、権力の中枢にいて、ルールブックが変わることをよく自覚していた一握りの人々」だった。 |