グローバリゼーションは地産地消と相容れない
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今はもう故人になってしまったが、釣り名人・服部善郎氏による子供向けの釣り指南書に、こんな幕間がある。
氏がオーストラリア釣行中のこと。小遣い稼ぎのためにタイ(鯛)を釣り、現地のレストランだか仕出し屋さんへ持ってった。しかしお店の反応は今ひとつ。「なんで
こんな魚(を狙って)釣ったの?」「キス(鱚)を釣ってくれば良かったのに」。
そう、オーストラリアでは、キスが日本のタイのポジション相当で、逆にタイは釣れても喜ばれない外道(対象魚でないこと)なのだそうだ。『ところ変われば品変わる。オーストラリアのタイが かわいそう(?)』
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「ならば日本のキスをオーストラリアに持っていき、向こうじゃ下魚(げざかな)扱いのタイを
こっちに持ってこられたら、お互いハッピーなんじゃないの?」と、釣り少年でなくても一度は考えるだろう。キスが日本で安いかどうかは別にして、日本近海で
すっかり漁獲量の減ってしまった青モノは、現在遠路はるばるノルウェーやニュージーランドなどから運ばれてきてもいる。が、それら輸入モノもハッピーな価格とまでは言いがたい。なぜか?
主たる要因は
その輸送コスト。もしオーストラリアでキスを、日本ではタイを、それぞれ地元で漁って食卓に並べた場合に比べ、大量のエネルギーを消費する(運搬船や長距離輸送トラック、鮮度を保つコールドチェーンにかかる諸費用で)。その結果、トータルコストは膨らんで、食卓のバリエーションや華を添えるのに、どれだけの資源が費やされたかを考えたら、料理の味も分からなくなってしまう。しかも地球には厳しい。※
※ある外国人が「地球に優しい低燃費」を謳う日本車のうわさを聞きつけ、自国へ一台輸入した。ところが輸入代理店が「わざわざ外車を個人で輸入?
きっとスグ乗りたいのだろう」と気を利かせ、船便ではなく飛行機使ったものだから、結果的に二酸化炭素排出量は船便の297kgで済むところを38000kg(該当車で地球6周分)になってしまい、オーナーはガッカリしたという話がある。国境越えての輸送には、はるかにカネも燃料もかかるのだ。
いくら今「オイル価格が下落した」と言っても、それは
あくまで「ひと頃に比べれば」でしかない。遡ると、元々ガソリンなんて水より安かった。内燃機関の発明で、にわかに「こりゃ有用だ」と値上がって以来、それまでのグローバル展開による儲け話の前提は(魚の運搬はもとより製造業に至るまで)大きく崩れてしまった。ひとたび石油依存社会になってしまってからの激変を、省エネルギーや外貨稼ぎ・賃金抑制で吸収しようとしてきた無茶回しが、今
この国を ひどく疲弊させている。
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その反省から
唱えられてきたのが『地産地消』の概念だ。行き過ぎた適地適作によるモノカルチャー化や株価に翻弄される暮らしはヤメにして、これからは資本家のために生きるのでなく、そこに住む人たちのために地域のリソースを用いましょう、という発想である。
少し前、あるビジネス誌で、『どうする?
国際競争にさらされる日本の農業』的な特集が組まれた。まさか「アメリカの大規模農家にひれ伏せよ」な結論じゃ身もフタも無いので、土地集約化で対抗する/高付加価値作物で対抗する/顔が見える農業へ転換する/等々いろんな提言もあったのだが、いずれも焼け石に水のように思われた。なので最終章では
こんなヤケッパチの一手までが載っている。すなわち、『もう農業でのカネ儲けはあきらめ、自分たちが食べる分だけ作る』取り組みである。取材に応じたコメ農家のお爺ちゃんは「自分と子供、そして孫たちに食べてもらう分だけ作り、都会の方に送っています」とのこと。そして取材班も、「資本家の論理で望まぬ国際競争に駆り出され、勝てない戦いに無駄金使って疲弊する未来より、商売抜きで子や孫を思う原点回帰の心こそが
この国の農業を守っていく原動力になるかも知れない(大意)」と、肯定的に締めくくっていた。
しかしこれ、大事な視点が抜けている。そう、やっぱり輸送コストである!
もしも
その お爺ちゃんち(とその田んぼ)が、子や孫の住まいの
すぐ近くなら、この話も成り立つ。もしくは
クルマで小一時間程度の距離ならば、帰省や顔見せついでに自分たちで運べばいい。だったらおトクと言えるだろう。
だが
子供や孫が県外就職で遠くに住んでたら
どうだろう? コメの賞味期限は精米してから1か月。都市部にコイン精米機がそうそう置いてあるとも思えず、配送頼む直前にお爺ちゃんが都度精米するとする。内閣府の想定する一般家庭に育ち盛りの子が二人いると仮定し
ひと月の消費量30s程度を年12回、たとえば私の田舎(東北)から現住所(首都圏)へ配送するとなれば・・・こりゃ近所のスーパーで買っちゃった方が、親に手間ヒマかけて作ってもらうよりトータルでは安上がりなのではないか???
と思えてくる。※
※それ以前に、独立した後も、田舎の親が、採算度外視で自分のために働くことを ありがたいとは思っても、ほんとに良しとできるのか?
いいとこ
お爺ちゃんが、「国際競争でレゾンデートル(自分の存在理由)を失った・・・」と失望し、ボケてしまうのを防ぐくらいのメリットしか無いのでは?
さらに-輸送コストの問題に隠れてしまいがちだが-遠隔地や海外への出荷は、消費地が、地元でなくなることで新たな問題が発生する。
とある田舎の町おこしの話。そこの
ほぼ手つかずの肥沃な土地を利用して、生産量が多かった地元のニンニクやナガイモにテコ入れし
ブランド化に成功する。ところが出荷が増えるにしたがい農地が
みるみる痩せていき、一時は
それまで考慮の必要も無かった土壌改良に真剣に取り組まねば、シナ産にも負けるほど品質面の優位性を失ってしまった。
というのも、ニンニクやナガイモは、昔から『精のつく食材』として知られる栄養価の高い作物だ。それは裏を返せば、『他の作物よりも土中から大量の栄養分を吸い上げて育つ』ことを意味する。流通革命以前なら、せいぜい近所で分け合うか、朝市にでも並べ、その地域で消費される程度の移動量で済んでいた。それが、全国ブランド化にともない、元々その域内で循環するはずだった「何か」が、商品と共に
その土地を離れて県外に流出、そのため農地は痩せ細った。結局、ブランド持続のためには、肥料を
どっかから買ってきて補填する以外に無い。※
何かを得るということは、代わりに何かを失うということ。上記の場合、一時のカネと引き替えに、子孫に継がすはずの肥沃な土地を失ったことになる。
※どんな薬草も、水道水や蒸留水だけで水栽培していたら、薬に期待の成分は入ってない。太平洋戦争の頃、ある農家の息子は、生きて帰れぬ任務だったので、出撃前に“特別給”が支払われた。息子は一人残される母親のため、ありったけの肥料を買い込んで実家へ積んで行ったという。これは、種や苗木は
近所から分けて貰えても、こと肥料だけは やはり
どっかから持ってこなければならないことを彼は(上記の町おこしの人たちより)よく知っていたことになる。
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コトは農業に限った話ではない。たとえば畜産。ニワトリ(鶏)の飼料を、いつの間にか
すっかり輸入に頼っている状況が危うい。元々ニワトリなんて地産地消モデルの最たるモノで、その名のとおり庭を突っつかせておけば、勝手に育つのがウリだった。なのに「儲かるから」と畜舎を建てて大量飼育。人様の食える穀物を、わざわざ外国から多大な手間ヒマ・カネ・エネルギーを使って輸入し、トリに遣っている。
おかしいと思わないだろうか?
輸入トウモロコシの高騰に加え、失政も輪をかけている。老鶏の入れ替えに補助金出したら「ボーナスタイム!」とばかりに制度が農家に悪用され、若鶏までを殺処分され鶏激減。農水省の“優秀な”役人は、自分たちが一つ角を曲がった先すら予測できなくなってしまったのか。おりしも庶民を差し置いて、物価を上げて喜んでいる政府方針も相まって、かつては「物価の王様」と言われた卵までが2013年秋口を境に二度と(勤め人は)一パック98円では買えなくなってしまった。のみならず、本来Sサイズ以下で売り物にならない「わかばサイズ」までが、10個198円の高値になっている。食うに困らぬ政治屋は、卵ひとパックが倍以上になったところで痛くも痒くもないのだろう。
最近の研究によれば、縄文時代の人々は、狩猟採集だけでなく、フナ(鮒)やカキ(牡蠣)の養殖をしていた可能性があるという。彼ら縄文人は、まさか飼ってるフナやカキに、自分たちも食えるモノを与えてはいなかっただろう。そこへいくと、今の漁業者は、高い魚を売るために、養殖ハマチやマグロを1kg太らすのに7kg〜20kgもの餌を与えている。しかし
その餌は、イワシやサバ・サンマ・アジ・ニシンなど、人様が食える魚である。しかも
その行為が、しばしば赤潮発生の原因となって海を窒息させている。もし縄文人が、今の養殖場や養鶏場の現場を見たら
どう思うだろうか? 「何にでも交換できるという
あの紙切れに心奪われ、子孫の英知はひょっとして退歩してるんじゃないか」と思われないだろうか?
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策士策に溺れる。適地適作の行き過ぎで、かえって
おかしなことになってきたグローバリゼーションがもたらす不均衡について、どこかの教授が
こんなことを言っていた。「もし農産物を輸出するなら、遠く離れた消費地の屎尿(しにょう)を回収し、自分の国に送り返すのとセットで遣らねばならない。さもなくば、国土は得られた外貨と引き替えに、自国の窒素・リン酸・カリなどの農作物育成に欠かせない貴重な有機資源を失っていることになる。輸入国もまた然り。世界各国から有機資源を一方的に買い込むということは、遠からず富栄養化によって国土の自然浄化能力を超えた環境汚染に見舞われることになるだろう」と。
やはり「手っ取り早く儲けたい」という
一部の人間の我欲で回すグローバリゼーションというのは、その時その人々だけにとっては利益でも、実は自分たちの子孫の取り分を奪い、先喰いの後にやってくる泣かず飛ばずの時期に多大なツケを払わし、ダメージを与える『持続不能な社会』を招来しかねない。
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ときに当方、他でも書いたが、震災のドサクサまぎれに儲かっていた仕事を取り上げられ、元・下請けの3K職場へ蹴り出されている。だが『先憂後楽』の『先憂』で人生強制終了させられては
たまらない。這い上がるための第一歩に、企画をかじった経験を使い、新たに親会社となったメーカー部署へ幾つかの新製品を提案した。
採否を決める会場は、プロジェクターにPowerPointなどを映しアピール合戦が繰り広げられたのだろうが、蚊帳の外で参加できなかった私の提案はA4用紙のペラ紙だったろう。しかし
そこは昔取った杵柄、採用されてしまったのである。アイデアの一部は、新製品のほか
ひとつ前のモデルにもファームアップで実装された。市場の反応は
まずまずで、そのカテゴリでは一番手だったソニーの牙城を去年崩す程度には売れた。調査会社BCNの分析によると、件のフィーチャーが売り上げに貢献と書かれている(2014年3月〜2016年2月時点
現行品)。
しかし それらの提案は、少なくとも会社には幾ばくかの利益を もたらしたハズだが、それによって私の置かれた立場が好転したわけでもなければ、同じくリストラに遭った製造部門の余剰人員が職場復帰できたわけでもない。なぜか?
それは 企画が採用され 出来上がったモノは、初号機の2014年モデルこそ日本製だったが、15年モデルと16年モデルからはメイド・イン・マレーシア。さらに提案のキモの別売りオプションに至っては はじめからシナ製だった。つまり、いくら日本の社員(今回は私)がアイデア出しても、実際の製造は海外なので、私を含む日本国内の雇用創出には(企画をカタチにした部署以外)ほとんど寄与しなかったのである。
親会社に限らず、グローバル企業というのは大なり小なり
こんな傾向がある。すなわちキャピタルゲイン(利幅)の最大化こそがすべてで、その追求のためには、海外の人件費の方が安ければ、工場も製造も向こうへ行ってしまい、日本の雇用は優先されない。
しかしそれでいいのだろうか? 勤労を国民の義務としながら、その義務を果たすための場や機会が海外に流出したら
どうなる? 政府は「雇用の流動化」「衰退産業から成長産業への労働移動」とか言うけれど、残れる者の変わらぬ暮らしの維持のため、活躍してもドボンと蹴り落とされる労働者は、こともあろうに今の与党のお仲間の奴隷商人に足もとを見られ、儲けるための道具にされてしまっている!!
日本は内需で回ってきたんじゃなかったのか?
※
地産地消はどうなった? どんな崇高な理念やスローガンも、目先のカネの前には放っぽり出され、このままでは持続不能とわかってるグローバリゼーションのほうが優先されるのだろうか?
※日本がこれだけ石油輸入に依存している以上、その代金はどこか外から稼いで来なければならず、したがって「日本は内需で回っている(ので輸出は大した問題ではない)」とする昨今の誰かの論調はミスリードだ。国民全員で石油の要らないスタイルでも確立しない限り内需だけで回すのはムリ。
しかも、マレーシアやシナで造ったモノを、日本国内で売るとなれば、それは逆輸入になるので、売れれば売れるほど日本国の貿易収支の「赤字」を増やす方向に働いてしまう。赤字というのはマイナスイメージだから、これをGDPや経済指標の判断材料にすると、当然市況は「悪い」とニュースで報じられ、なお一層日本経済のマインドが冷え込む悪循環から逃れられない。
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小生、PCや家電を買う時は
地元の店を素通りし、わざわざ秋葉原に出向いていた。「秋葉原は安くなくなった」と言われて久しいが、それでも地元の値段は相対的にボッタクリに見えるから、リストラに遭ってからは
なおのこと、往復四時間以上の時間と電車賃を掛けてでも、そうしてきた。
しかし私みたいなのが一人二人ならいいけれど、もし
ここの地域住民という住民が皆、「物価がジリジリ値上がってるから」と地元の店を素通りし、私と同じことをし始めちゃったらどうなるか?
当然、地元の電器屋は立ち行かず、店をたたまねばならなくなってしまう。だが
それだと誰かが急な買い物に迫られた時に不便だ。「実物触って確かめたいのに隣町まで行かねばならない」「スグ使いたかったけど届く日はもう少し先」なんてことになり、困る住民も出てくる。さらに本来、地元で回るはずだったカネがヨソ(この場合は秋葉原)に流出し続ければ、そのうち地元経済も回らなくなってしまう。事実、今の居住地は
ここ10年で、地元創業の電器屋さえもが二度の撤退。本屋もショッピングモール併設のチェーン点以外
全滅。倉庫だけにし店舗を持たない安さと品揃えで攻勢をかけたインターネット通販に客が流れてしまったからだ。そのカネは当然ヨソへ流出したことになり、地域には回ってない。
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では、これら憂慮すべき事態を鑑み、すべて地産地消に戻せば今の諸問題は解決するのだろうか?
事はそう単純ではない。人間
いちど味わった海外由来の選択肢や利便性・快適さ、といった恩恵を、顔を知らない誰かのために手放すというのは難しいことである。
それでも日本はかつて日米貿易摩擦の頃、後に自国産業の一角が壊滅するほどの譲歩を飲んだ。※ しかしアメもまた、いちど世界の頂点を味わった頃を忘れられなかった。それでも日本に対するアメの糾弾はやまず、ついに日本車メーカーは「アメリカ人が失業者を出すほど売れたので文句を言われた。ならばアメリカ人を現地で雇い、反日感情を和らげよう」と
こぞってアメに工場を新設、他国の雇用を創出する『自爆営業』で批判をかわそうとした。それでもなおアメの糾弾はやまず、とうとう“スーパー301条”なる経済制裁までチラつかせたものだから、万策尽きた日本政府は破れかぶれになって償還のアテもない米国債をアメから大量に買うことで
ようやく期待以上のリターンを引き出したアメの糾弾はおさまった。この外交敗北でワリを食ったのは
ほかでもない日本の労働者と納税者である。
※その点
トランプの腐れ脳ミソは、’80年代の古い認識のまま日本のモノ造りへの敵意を剥き出しにしている。だが、まぁいいや、私は彼によって恫喝外交国・アメの化けの皮が剥がれ、かの国の異常さに皆が気付く将来を見たい。
「それが
なぜ自爆営業なのか」って? 有名どころでホンダ・オブ・アメリカの工員の時給は3250円、対する日本の時給は1200円である。つまり経済制裁怖いからとアメリカ人を厚遇で雇い、その高給の穴埋めを、日本国内の労働者を不安定な非正規雇用に落とすことで実現している。しかし、日本の自動車業界の派遣労働者の多くが
この現実を知らない。「我慢、我慢」「これで四半世紀ぶりの好景気」などと“美徳”を説かれ、大本営発表もかくやの粉飾に気づかぬ人々がワリを食わされている。米国債購入も同じ。これまたアメの要求でなされたプラザ合意でガタガタになった日本経済を立て直すよりも、宗主国サマのゴ意向通りにアメリカ経済を下支えするのに使われたのである!
顔も知らない誰かのために、おかしいことを「おかしい!」と声を上げる人々は、残念ながら今の日本の政治中枢には居ないのだ。
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グローバリストたちは言う、「日本国内では適さないor人件費が高くつくモノまで無理に内製しようとし、多大な苦労やエネルギーを消費するのは非効率。大量輸送時代においては適地適作をグローバルに展開し、国家間でお互いWin-Winの物流を
ますます加速することに
なぜ反対するのか?」と。
しかし何度も書くように、それは輸送コストを考慮していない。資源は有限なのを考慮していない。地域の雇用を考慮していない。モノカルチャー経済の危うさを考慮していない。リスクヘッジを考慮していない。有機資源の一方通行問題を考慮していない。政情不安や食糧不足で見込みが崩れた時にどうするかを考慮していない。先人のサバイバルの知恵に学ぶ機会の喪失も考慮していない。
もし、ある国から「ウチらの作った農産品や工業製品、サービスを買え。とにかく買え。そっちで既に間に合ってるモノであってもウチから買え。でなければ制裁だ」と、日本の事情を考慮しない相手から迫られたとしよう。どうするか?
正解は
こうだ。「言いたいことはわかりました。では
その代わり、これからあなた方に依存するモノについては、何があっても必要量を、間違いなく供給し続けること。もちろん、今の値段かそれ以下で」。こんな(無茶苦茶な)約束でも担保できなければ、ラチェットな片利協定になど応じるべきではなかったのだ。なぜなら
向こうの要求が既に無茶苦茶だからだ。
お互い
そんな勝手を押し付けたり押し付けられたりすることの無いためにも、必要なモノを外国に握られてしまわないための安全保障の観点からも、地産地消への回帰は叫ばれていたはずだ。しかし政府は、このおかしな状況をただす第一歩を踏み出すのではなく、またいつものように宗主国サマの言いなりとなり、「もはや国境にこだわる時代は過ぎ去りました」「TPPをピンチではなくチャンスに」「攻めの農業」などといったスローガンで、地産地消とは正反対のグローバリゼーションを推し進め、農民票の約束破りをはぐらかすのに余念がない。それとも長期政権維持のためには多くの国民がどう思ってようと、他国の産業を潰すことさえ厭わない宗主国サマの意向の方が絶対、なのだろうか?
誤解無きよう書いておくと、地産地消は鎖国論ではないし、誰も明日から輸入をゼロにすることで達成される“自給率100%”の世界を望んでいるわけでもないだろう。それは私も同じだ。ただ一部の人間の飽くなき強欲が、地域の風土や実情に合わせて回っていた営みにまで土足で踏み込んで来て破壊する、この行き過ぎたグローバリゼーションに「ノー!!」を突きつけること、今7であるのが8か9に偏りそうなのを、4か5か6に戻す努力をしませんか?
と、いうだけの話なのだ。
(2016/2/28)
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