宇宙人は地球を訪れたか

 

もしあなたが高度に発展した地球外文明の代表者であるとしたら、今のところ、地球と連絡するもっとも経済的な方法は、電波を用いることである。電波情報の1ビットは、宇宙空間をわたって地球まで届くのに、1ペニーもかかるまい。したがって、地球外知性を探索する場合にも、まず電波による方法を考えるのが理の当然というものだろう。だがその前に、もっと胸にぴんとくる可能性を考えてみてはいけないだろうか? もし、万が一にも、この地球上に、地球外生命の存在する可能性があるとしたら、それに気付かずに電波信号ばかりを捉えようとしたり、火星で生命を探したりするのに全力を投じているのは、滑稽なありさまとは言えないだろうか?

 

 この種の、大衆文学のうちに多くの追随者を持つ仮説は、大別して2種類ある。そのひとつは、地球が現在この瞬間にも、他の世界から飛来した宇宙船の来訪を受けているとするもので、空飛ぶ円盤説あるいは未確認飛行物体(UFO)説といわれるものである。もうひとつは、同じように地球はそうした宇宙人の宇宙船の来訪を受けているが、それは遠い過去、有史以前の時代だとする説である。

 

 UFO宇宙人説は非常に複雑な構造を持っているが、目撃者の証言の信憑性にそのほとんどすべてがかかっているといってもいい。この問題については、わかりやすい本が最近出版された。『UFO その科学的討論』(コーネル大学プレス刊、1972年)がそれで、この問題のあらゆる側面が検討されている。私(カール・セーガン氏のこと)自身は、円盤目撃例には、非常に信頼性が高く(多数の目撃者がそれぞれ独自に報告したというような)かつまったく異様な(何らかの現象−たとえばサーチライトから気象観測器、給油機などにいたるさまざまなもの−の見まちがいと説明されないような)ケースはない、という意見を持っている。たとえば、奇怪な飛行物体が着陸し、また飛び立ったという信頼できる目撃例は、全くない。

 

 UFOが、宇宙から飛来してきた宇宙船だという仮説への、もうひとつのアプローチの方法がある。この評価は、我々のごく僅かしか知らない多数の要因と、文字通り全く知らない23の要因との上に成り立っているのである。そこで私は、我々の地球が、宇宙人の来訪をしばしば受けているということのプロパビリティを、大雑把に計算してみようと思うのだ。

 

 実際、こうした簡単な計算で調べられる仮説というのは、たくさんある。一番簡単な例をお目にかけよう。たとえば、サンタ・クロース来訪説というのがある。この仮説によれば、毎年12月の24日から25日にかけての78時間内に、特大型のトナカイが、アメリカ中の1億世帯におよぶ家庭を訪問するという。

 

 ちょっと計算してみよう。問題のトナカイが、1軒あたり1秒の割で訪ねてまわったとする。実際はそうではなく、鈴など鳴らしてのんびり走っているはずだが、それはとにかく、非常に能率的ですごいスピードを持っていると仮定する。

(サンタ・クロースを見たものが誰もいないのは、その素早さのためなのだ!)しかし、11軒の割でまわったとしても、1億件の家々をまわれば、全部の家の靴下に贈り物を入れ終わるには3年かかってしまうのである。この計算には、トナカイが家から家へとまわって行く時間は入っていない。一瞬のうちに、全く時間をかけずに着いたと仮定したのだ。だが、この相対論的トナカイをもってしても、1億件の家庭をまわるには8時間ではなく3年の歳月が必要なのだ。つまりここでは、トナカイ推進法やトナカイの正体とは全く関係なく、サンタ・クロース来訪説そのものをテストしてみたわけである。そして、ごく単純な計算の結果、きわめて高い度合いにおいて、この仮説に矛盾のあることがわかった。こうして我々は、この仮説が成り立たないと判断するのである。

 

 同様にして、我々は、UFO宇宙船説−惑星地球上で目撃された大変な数のUFOが他の惑星からの宇宙船だという説−をテストしてみることが−もちろん不確実ではあるが−できる。UFO目撃例は、最近何年か、少なくとも1日何件かに及んでいる。しかし私は、この仮説は採用すまい。もっとずっと保守的に、1年ただ1回の目撃報告だけが真の宇宙からの来訪者であると仮定しよう。そうした上で、これがどんな結果をもたらすかを見ることにしよう。

 

 まず、この銀河宇宙に、現存する技術文明の数、不定数Nを決めなければならない。その文明は、我が地球よりもはるかに進んだ科学・技術を持ち、その方式はとにかくとして、恒星間飛行を実行する能力を持つ文明でなければならない。(この問題自体、非常に困難ではあるが、それはここではいっさい問題外とする。サンタ・クロース仮説において、トナカイ推進方式のメカニズムを除外したのと同じである)

 

 銀河宇宙にある、そうした技術文明の数を決定するための要因は、すでに色々と考えられ、ひとつの方式が試みられている。ここでは、そのデテールまで立ち入る暇はないが、不定数Nを求めるためにはまず、銀河系に、どのくらいの数の星が形成されているかという平均値が求められねばならない。これには比較的よく知られている数値がある。次に、Nは、そうした恒星のうち、惑星を持つ星がどのくらいあるかということによって左右される。これは、恒星の数ほどは確かではないが、ある程度のデータはそろっている。次いで、そうした惑星のうち、恒星から適当な距離に位置するもの−従って、その惑星の環境が、生命の発生に適したもの−がどのくらいあるかが問題になる。さらに、生命が芽生えてのち、その中から知的生物が出現する惑星がどのくらいの割合であるかが−そして出現した知的生物が我が地球よりもはるかに進んだ技術文明を発達させる割合が、Nの値を決定する。また、そうした技術文明が、どのくらいの平均寿命を持っているかも、Nに重要な影響を与える要因となる。

 

 こうして、要因をひとつひとつ追加していくにつれて、条件にかなう惑星は、明らかに急速に減ってくる。宇宙に星は数多くある。だが生命を発生させた例はただひとつであり、その中から知的生物が進化し、技術文明を発達させた例はやはりただひとつしかないのである。しかも、そうした技術文明の平均寿命を判断する例は、全くただのひとつもない。にもかかわらず、これらの数字から、さまざまの推定をした結果、何とかNの値を決定することができた。それによると、Nは技術文明の平均寿命の10分の1にほぼ等しい、ということになったのである。

 

 たとえば、高度に発達した技術文明の平均寿命が1千万年(10年)であると仮定すれば、銀河宇宙の中のそうした技術文明の数は約百万個(10個)ということになる。つまり現在、発達した文明を持つ惑星を従えた恒星が百万個ある、というわけである。これは、正確を期すことのなかなか難しい計算だと言わねばならない。技術文明の平均寿命を1千万年と仮定すること自体、あまりにオプチミスティックに過ぎるかもしれないのである。しかし、ここでは、このオプチミスティックな数字を用いて、どんなことになるか、結果を見てみることにしよう。

 

 これらの百万個の技術文明が、毎年Q隻の恒星宇宙船を送りだすとする。つまり、毎年10Q個の宇宙船が、宇宙空間に出ていくのである。ここで、1回の宇宙飛行にただ1回だけ他の文明と接触すると仮定する。このきわめて堅実な状況の元ではじめて、毎年この宇宙のどこかで、10Q回の接触がなされるわけである。

 

 さて、この銀河宇宙には、訪問すべき興味ある惑星が1010個前後はあるはずだ。従って、任意の興味ある惑星1個について、平均の宇宙船到着のチャンスは年に10分の1回−つまり1万分の1回しかないことになる。さてそこで、もし地球を、年に1UFOが訪れているとすると−宇宙の百万個の世界の側では、平均どれだけの宇宙船を宇宙空間に送りださなければならないか。計算はごく簡単なはずである。技術文明ひとつについて、年に1万隻の宇宙船、銀河系全体では、年に百億隻の宇宙船が出発していなければならないのである! これは、いくらなんでも多すぎる。それらの文明が、地球よりはるかに発達した世界であると想像したにしろ、たった1回地球に出現するために1万隻の宇宙船を打ち上げると考えるのは、過大すぎる期待である。しかももし、発達した文明の寿命を、もっと悲観的に見るとすれば、宇宙船の数は、それに比例してもっともっと多くなってくるのである。さらに、文明の寿命がより短いとすると、文明が宇宙飛行技術を発達させるプロパビリティも、それにともなって減少せざるを得ないのだ。

 

 アメリカの物理学者ホン・イー・チューもこれと似た計算をしている。彼は地球に毎年一隻以上のUFOが到着しているという仮定をとっているが、その後はいま私が述べたのと同じような考え方で計算をすすめる。彼は歴史を通じて送りだされたすべての宇宙船に使われる金属の総量を計算した。宇宙船は、いうまでもなく、ある程度の大きさを持っていなければならない。それはたぶん、アポロ宇宙船よりは大きいはずである−とすると、それに必要な金属の量は、自ずと計算されてくる。その総量は、50万個の恒星を処理して、中に含まれる金属を抽出したのと同じになるのである。この議論を一歩すすめて、もし、発達した技術によっても、太陽のような星の外側からせいぜい千キロ程度しか鉱物採取ができないとすると(なにしろ、あまりに熱すぎる!)、鉱脈源としなければならない恒星は20億個−つまり、銀河系宇宙の含む全恒星の1%に及ぶことになる。これまた、

とうていあり得ない数字といわなければならない。

 

 あるいはあなたは、「その考え方は狭すぎる。プラスチックの宇宙船だったかもしれないじゃないか」と反論するかもしれない。その通り、確かにプラスチックだということもありうる。しかし、プラスチックであっても、材料はどこかから持ってこなければならないのだ。金属をプラスチックに変えてみたところで、出てくる結論はそれほど変わらない。要するに私は、この計算で、我が惑星地球がしばしば宇宙からの訪問を受けていると考えるためには、それがどのくらい大きな規模の仕事になるかということを、想像してほしかったのである。

 

 ほかの反論についてはどうか? たとえば、地球が宇宙人からの特別の関心の的になっているとしたら、どうなるか。たしかに我々は、最近になって、急に文明と知性のあらゆる証拠を−核兵器などそのひとつである−見せはじめた。そのため、宇宙の人類学者が、特別な興味を我々に抱いている・・・・ということはありうる。しかし、我々地球人が、技術文明の存在する証拠である電波を使いはじめてから、まだわずか数十年しか経っていないのだ。そのニュースは、せいぜい、地球から数十光年の先までしか届いていない。それに、たとえばの話だが、アンダマン諸島のあたりで漁網が発明されたというニュースが伝わったからといって、世界中の人類学者という人類学者が、そこに殺到するとは限らない。漁網の専門家も、アンダマン諸島の専門家も、ごく少ししかいないのである。彼らはこういうかもしれない。「アンダマン諸島で、すばらしく興味のあることが起こっている。ぼくはすぐ出かけていって一年ばかり滞在しようと思う。いますぐ行かないと、見逃してしまう惧れがあるから」。だが、これを聞いても、陶器の専門家やオーストラリア・アボリジンの専門家は少しも気をそそられずに、インド洋方面に行ってしまう−といった具合なのである。

 

 第一、この地球で起こっていることが、他の世界とは比較にならないほどすばらしいことなのだと考えること自体、周囲に多くの宇宙文明が存在するという仮説と矛盾する。なぜなら、もし後者が正しければ、地球での文明の発展ぶりはごく平凡なものとなるし、もし地球が非凡な存在だとするならば、周囲の宇宙にも、宇宙船を送り出すほど発達した文明が数多く存在する可能性は少なくなってしまうからである。

 

かりにそうだとしても、第二の仮説は――つまり、過去の有史以前の歴史に、宇宙人の宇宙船が地球にやって来たという仮説なら、成り立つのではないだろうか? そんな偶然の事件までを否定することは絶対にできないはずである。どうして、それを証明できるのか?

 このところ、そうした宇宙人来訪説を主張する本が多数書かれ、有名になった。こうした主張は、各種の伝説と発見された遺物を根拠としている。私自身もこの問題を、1966年に出版した、ソ連の宇宙物理学者I・S・シクロフスキーと共著の『宇宙の知的生命体』という本の中で持ち出している。 私はそこで、人類の祖先と、明らかにスーパー文明世界からの来訪者と想像される何者かとの あいだの接触を暗示していると思われる典型的な伝説を、くわしく調査した。この伝説は、最も初期に属するシュメールの神話から由来するもので、シュメール人が、人類文明の直接の文化的先駆者であるだけに、非常に重要なものであった。 その伝説では、ある超人間的な存在が、シュメール人に数学や天文学、農業、社会と政治の組織、および文字−つまり、狩猟採集社会から、最初の文明社会へと移るために必要な、あらゆる技術を教えたことになっている。

 しかし、この伝説も、これに類似の他の伝説も、きわめて魅力に富んではいるが、けっきょく それから地球外生命との接触を立証することは不可能だといわざるをえない。つまりそれらの伝説は、いくらでも、別の解釈をすることができるのである。われわれは、古代の神官たちが、天上に住んで、人間にあれこれ指図を与える超越的存在に関する神話をつくりあげたさまを、容易に想像することができる。その理由はかんたんだ−そうした神話こそ、神官たちに、人民を支配する権利を与えるものだからである。

 この種の伝説が、高い信憑性を持ちうる場合が一つだけある。その伝説の中に、伝説を作りだ した文明によっては絶対に到達しえない情報が含まれている場合である。 たとえば数千年の昔から神聖なものとみなされてきた数字が、原子核構造の定数であったような場合がそれにあたる。こんなケースがもしあったら、それこそ、徹底的な研究をしてみるだけの価値はある。

 ある種の遺物が発見された場合も、同じように確信できるだろう。古代文明から伝わったある遺物が、その文明を発生させた技術の可能性をはるかに超える技術を用いたものであった場合など、地球外生物の来訪を、一応は考えてよい、面白いケースと言えるだろう。たとえば、美しく彩色された古文書が、アイルランドあたりの僧院から発掘される。調べてみると、それには、高感度ラジオの電子回路が書かれてあった−などという場合である。その遺物の出処は、最大の慎重さで吟味されるだろう。そ して、間違ってもその電子回路図が、どこかのいたずら者のつくったにせものでないことを確かめようとするだろう。

 残念ながら私の知る限りにおいて、そんな伝説も、遺物も、あった試しはないのである 。たとえば、エリック・フォン・デニケンの『神々の戦車』の中に扱われている古代の遺物などを見ても、それらはすべて、ちゃんとした別の解釈の成り立つものばかりである。 宇宙帽に似ていると主張されている大きな細長い頭を持つ人物の絵なども、儀式用のヘッドマスクか、あるいは、末期的な脳水腫を、芸術的に表現したものと考えることは容易であろう。じっさい、宇宙からやって来る宇宙飛行士が、宇宙服の端から眼球にいたるまで、アメリカか、あるいはソ連の宇宙飛行士そっくりに見えるだろうという考えは、宇宙人来訪説そのものより信じにくいものなのだ。同様に、フォン・デニケンとその追随者たちのアイデア−宇宙人が古代に飛行場を作ったとか、ロケットを作ったとか、地球上で核兵器を爆発させたとかいう空想は、いずれも全く信用できない。なぜなら、われわれがその技術を、つい最近開発したばかりだからである。宇宙(スーパー文明) からの訪問者は、われわれと、それほど時代的に接近しているとは考えられない。それはあたかも、1870年頃(ジュール・ヴェルヌの時代)に、宇宙人が宇宙探検用に熱気球を使ったにちがいない と推測するようなものなのだ。つまりこうした空想は、大胆な どころか、何の飛躍もない、まったくの想像力の貧困を物語っているにすぎない。よく知られている宇宙人来訪説の大部分が、驚くほど地球中心的な考え方に毒されているのである。

 南ペルーのナスカ大高原には、巨大な幾何学模様が多数残されている。それらの図形は、地上から見ると ほとんど見分けられないが、空中から見おろせば、非常にはっきり認めることができる。古代人が、どのようにしてそんな図形をつくったのかを理解することは、比較的やさしい。だが、いったいなぜ、彼らはそんなものをつくったのか? それこそ、宇宙人を迎えるため、あるいは宇宙人の指導によって、つくられたのではなかったか? 来訪者の主張者は、こう質問する。だが、それは何でもないことだ。もしその時代の人々が、天界に神々が存在すると信じていたならば、その神々と交信するために、ああしたメッセージを建設するということは、少しも不思議ではない。図形は、あるいは、一種の集合的な祈りをあらわしたものだったのかも知れないのである。

 これらのほかにも、最初、これこそ絶対の宇宙人来訪の証拠だと思われかけたものは幾つもある。たとえば、ザルツブルク博物館にあったといわれる、数百万年以前の地層から発掘された完全な機械製の立方体であるとか、3年のあいだ宇宙からあるテレビ局を呼びつづけた信号であるといった類のものだ。だがこれらは、ほとんど間違いなくでたらめにすぎない。

 こうしたセンセーショナルな本の作者たちが、なぜか見落としている、しかし同じように興味ある考古学的状況がある。たとえば、メキシコシティの郊外にある、テオティワカンの大ピラミッド群の装飾壁にくりかえし現れる雨の神(↑写真)と言われる像である。それは、どう見ても、4個のヘッドライトを備えたキャタピラ式の水陸両用車なのだ。だが私は、そんな水陸両用車がアステカ時代に存在したとは決して思わない−なぜなら、それがあまりにも今ある水陸両用車と似すぎているからである。

 
こうした考古学的遺物は、事実上、心理学的投射テストの役割を果たす。人は遺物の中に自分の見たいものを見ることができる−己が周囲のあらゆるものに、過去における宇宙人 来訪の証拠を見ることができるし、それを妨害する権利は誰にもないのである。しかし、ほどよい懐疑精神を持つ者にとっては、それらの証拠は、全く不十分なものでしかない。したがって、こうした目的で古代壁画を見ることは、UFOを探すことと同じように、実りのない知性の消費ということになるのである。

戻る

 

 カール・セーガン著 『宇宙との連帯−異星人的文明論』(福島正実訳)より

(引用者注:恒星ひとつから採れる金属を わずか一トンと仮定するのは さすがにどうかと思ったが そのまま掲載しました)