今この国に必要なのは負荷の分散

 

本項の主旨:なぜ切り捨て型の社会では上手く行かないのか。労働問題を扱うインターネット掲示板への投稿に加筆修正したものです。

 

 

 運動靴を買うと、取説にこんなことが書いてあった。「(可能なら)同じ靴を2セット用意し、交互に履くことで長持ちします」。私 最初にコレ読んで「履いてる時間が同じなら、別に交互に履いたって、劣化の速度は同じでしょ?」そう思ったが さにあらず。不思議なことに、本当に2セットを交互に履いた方が、1セットを毎日履き潰すよりも長持ちする。もし陸上競技経験者が近くにいたら尋ねてみるといい。あながち靴屋の陰謀でないことを、理由とともに教えてくれるだろう。

 

 ノートPCの記憶装置にSSD(ソリッドステートドライブ)が選択可能となって久しい。ただ、SSDとて完璧ではなく、振動には強い反面 書き換え回数に限りがあり『使えば使うほど、HDD以上に確実に寿命が減っていく』という精神衛生上あまりよろしくない弱点がある。そこで、いつも同じような場所に書き込みが集中せぬよう、内部的に書き換え箇所をわざわざ分散させることで長寿命化をはかっており(ウェアレベリング)、このアルゴリズムの工夫がSSDコントローラメーカーの腕の見せ所となっている。

 

 『斜めドラム』の洗濯機をご存じだろうか? 洗濯漕を斜めに傾ければ 水が一方に寄るので 少ない水で洗えます というのがウリだった。しかし、出始め当初はメーカー保証の切れた頃になって故障が頻発した。というのも、従来型なら回転軸に対し ほぼ均等にかかっていた重量負荷が、シャフトを斜めにしたことで(面や線でなく)特定の箇所だけに集中してしまい、結果シャフトの磨耗によってメーカーの想定以上に早くガタが来てしまったのである。

 

 ある農学部教授が、アリンコ(蟻)に目印を付けて観察したところ、多くの蟻は、一見働いてるようで、実際にはただウロウロしているだけのように見えた。「だったら、働き者のアリだけ集めれば、さぞかし立派な少数精鋭になるだろう」と、そのようにしてみたら、期待に反して やはりそのうちの2〜3割しか働かなかった。逆に、ウロウロしていた蟻だけで“昼あんどん部隊”を編成すると、そのうち2〜3割が働き出す。

この現象は、蟻に限らず社会性を持つ昆虫や、他の動物にも見られるとされ、『8020の法則』『パレートの法則』とも呼ばれる(誤解や曲解も多いが)。先の教授が蟻の実験から導き出した結論は、『すべてのアリが常時シャカリキでないことで、アリの巣全体が息切れせずに持続可能となっている』『順繰り順繰り仕事の持ち回りをすることで、一部の働き蟻だけに過負荷がかからぬようになっている』。つまり8割方のバックアップがあるので2割が円滑に回っているとのことだった。

 

もっとも、アリンコは 女王アリに教わらずとも あらかじめプログラムされた手順に従い この磨耗平滑化/負荷分散を行なっており、これを公平/不公平の概念を持つ人間社会にそのまま持ち込むと、アリと違って『常時固定されている2割』から不平不満が出るのは当然だ。昨今の、いわゆる『ナマポ叩き』も、本来 相互扶助という負荷分散を目指していた制度が機能不全を起こしていることによる。

 

それでも『人は石垣、人は城』といいまして、“怠け者だから”“非効率だから”というだけの理由で えり分けて/切り捨てようとする行為は まるで『このタマネギを延々むき続ければ いつかは価値あるコアだけ残る!』とばかりに 外側からどんどん むしり取っては捨てる愚行にも似ている。そうして80%を取り除く大ナタ振るったつもりになって、未だ受け皿を用意できない“雇用流動化”のオタメゴカシばかりが資本家の言うまま重要視される。だが、組織の手を斬り足を斬り、最後に自分たち頭と胴体だけ残って何をするというのか。今の経営者も政府も、社員や国民に対して夢を見過ぎである。 私の見立てでは、知名度ゆえに各地から高い教育水準を持つ人々が集まる大企業でさえ、その構成員の80%どころか90%以上は至ってフツーの人だったというのに。

 

昔の外科医は、患者の扁桃腺(へんとうせん)が腫れると外科手術で切除していた。しかし医学の進歩で、扁桃腺には実は免疫を担う重要な役割があるとわかり、切除しなくなった。また、盲腸も、『原始的食生活時代の名残』との誤った見方から不要なモノとされ、虫垂炎にかかると切除していたが、これも今では扁桃腺みたく存在理由があるという話が出てきてからは、なるべく切らずに投薬で炎症を食い止めるようになり、積極的な切除はしていない。

 

 アメが日本に『BSE検査基準を緩和せよ』と迫った狂牛病は、本来 草食動物なら食わないモノを無理に食わせて起きたバイオハザードだが(牛を手っ取り早く太らそうとエサに混ぜた羊がヤコブ病だった)、その解決に、ヤコブ病への抵抗力を獲得した羊はいないかと一生懸命探したところ、やっとの思いで見つけた羊は、これまた人間に「商業価値が無くなった」という理由で冷遇され、数を減らした絶滅寸前の品種だったという。つまり、『カネになるから/ならないから』という商業主義のモノサシで隔離を進めた結果、免疫を持つ種との交配の機会が与えられなかった羊たちを媒介に、狂牛病は世界へ拡散してしまったことになる。

 

 

で何が言いたいかというと、モノ造りの世界であれ制度設計であれ、高耐久性や持続可能性を目指すなら、正しい知識とリスク分散・負荷分散の概念を常に念頭に置かねば、浄化力や治癒力を自前で持ってる自然と違い、人間社会は過負荷なトコから ほころび始め、故障、破断、不平/不満が爆発し、早晩デフォルトで行き詰まってしまうという恐ろしい歴史の事実だ。

 

 

 しかし『言うは易く、行うは難し』とも言いまして、皆限られた寿命があるし、ついでに言うと、『旬』もある。ノンビリ構えちゃいられない。

 

もし あなたの乗り合わせたバスの運転手が、競合相手に「こっちのルートの方が早いぞ」とダマされ、ラリー仕様でもないのに悪路へ入り、車輪が すっかりパンクしたあげく、あなたも補修を手伝わされるハメになったとする。だが すべてのタイヤを再び膨らますだけの時間も道具もあまり無い。なんとか最寄りのSSに たどり着くまで空気を入れる配分は どうします?

ちなみに、タイヤ直下の席に座ってた人たちは「俺らはパンク前の乗り心地がいいんだー。俺らのところの空気をパンパンにせよ」と要求してきており、それ聞いた他の人たちは「マテ、そんなことしたら、着く頃にはアンタら以外皆ヘトヘトになってしまうじゃーないか、反対!」などと言い争っている。

 

 実はこれ、今の日本の状況そのものです(比喩)。まず考えつくのは

 

@操舵力優先で前輪に空気を集中させる

A動力源こそ要(かなめ)、後輪に空気を集中させる

 

これらは あまり賢い手法ではない。@動力源の後輪は地面を蹴られず空回りするばかり Aフロントが地面に突っかかり、いくらエンジンふかしたところで ちっとも前に進まないだろう。ならば

 

B 前輪どちらか片方と、対角線上の後輪片方とに空気を集中させる

 

 これもちょっと、折衷案にみえて不安定というか、バランスが悪い。対外的な見た目だけは取りつくろえるだろう。しかし何かの拍子で容易にズッコケやすく、そうなれば転倒前よりヒドくなる。ならいっそ

 

C不公平が生じないよう、どこにも空気を入れずに走る

 

 これもダメだ。『滑車』の実験で学んだように、接地経の小さいままではタイヤも虚しく地面を蹴るだけだからだ。ここは 

 

D時間の許す範囲で、すべての車輪にほぼ均等に空気を入れ、最寄りのSSにたどり着くまで皆で我慢する

 

のが正解だ。

 

ヒトも会社も組織も国家も、あるグループの取り分は非常に高いが、他のグループの取り分は(当事者の問題でなく、抜かれて)低い、という状況は、決して望ましい状態ではない。それは組織や国家の構成員としての自覚を持つどころか、相互を分断してしまうからだ。

 

そんなこと、言わなくたって解るはずだが この当たり前のことが、なぜかこの国の指導者には全く解っておりません。恵まれすぎてヒトの痛みが分からない人たちなのだろうか?

 

 一時期ビジネス誌で『選択と集中』なる言葉が流行ったことがある。しかし それでパッとしない部門を切り捨てて一時的には“V字回復”したかに見えても、中長期的には事業のモノカルチャー化を招いたり、トレンドの変化に弱くなったり、機会損失を被ったりする副作用については あまり触れられることはなかった。いわゆる『トリクルダウン理論』(大企業へ選択的に優遇措置を集中させれば下々も潤うだろう的な)』が幻想だったのもしかり。

 

その反動で、もう一方の極端に進んだのが、最近増えた『○○ホールディングス』を名乗る財閥の現代版みたいなもので、時には赤字部門を黒字部門で埋め合わせてでも未来のメシの種の引き出しを数多く保持しておこうとする。「無いモノは無い、何でもありますよ」、「当グループはお客様のマイナーニーズに応えます」こんな売り文句で相乗効果を狙う。これも一種の負荷分散の考えである(そも、財閥解体を指示したGHQの真意は、日本国の弱体化にあった)。

 

 転じて この国で、政界に餌付けし発言権を得た1%『声のデカい連中』のポジショントークを(つまり「俺の座席の直下に空気を集中しろ」的な我田引水を)また唯々諾々と受け入れてしまったら、この国は一体どうなってしまうのか? しかも彼らは、政府の主催する“成長戦略”会議のメンバーに またしても潜り込んでおり イヤな予感しかしない。このままでは ほどなく日本国民の99%は、上の例えの乗客みたく 悪路の走破にガタガタ揺られ、あちこち頭をぶつけたあげく、窓の外へと放り出されて、目的地(ここではヒトとして最小限の幸せを意味する)にすら たどり着けなくなっていることだろう。それとも彼らは、無能故に責任を負いきれなくなったので、口減らしにワザと庶民に負荷を掛けようとしているのだろうか?

 

おまけに向かっている先が、大多数の国民にとっては さらなる苦難を呼び込む崖っぷちだったりした日には、もはや なりふり構わず政権を運転席から引き剥がすなり、いっそ再びパンクさせてでも、崖への転落だけは阻止せねばならぬと考える者さえ出るだろう(なるほど子供の時は「どうして皆仲良くできないのだろう」と思ったものだが、それは人を喰モノにする側と される側との闘いの構図を知らなかった頃の浅はかな考えだった。革命やテロがこの世から無くならないワケだ)。

 

 では、今この国に本当に必要なのは、果たして『成長戦略』なのだろうか? 生きていくのに最小限必要なモノにまで課税し、物価上昇イコール景気回復の証とばかりに庶民を差し置き値上げを誘導、経済の『押しがけ』を試すべきタイミングなのだろうか? 確かに羽振りが良くなってくのは好景気の特長だ。しかし、だからといって無理矢理インフレ状態を作り出せば好景気になるか? というと、そんなことはあり得ない(もしそうなるのなら、とっくの昔に他の国で遣っている)。なぜなら皆さん長引く不況で結構堅実、その実感が末端へ行き届かない間は どうしても生活防衛の方が先に来てしまう。現政府は、予算の獲得に汲々とするあまり、『北風と太陽』の北風を再び演じようとしている(実は解決策はあるのだが、持てる者が政治のバックにいるがため、この国の傷口はますます開く一方だ)。

 

くり返すが、人間には、寿命もあれば旬もあるのだから、すでに旬を堪能した為政者や自称経済学者の道楽で、若い人たちが旬の時期をガタガタにされたあげく、また似たような顔ぶれの社会実験につき合わされてはたまらないだろう。そりゃ あちこち不満分子のテロだって起きますよ。とうとう日本もこうなってしまった。

 

じゃあ『この国を、一体どうしたいのか?』のビジョンは現在、様々な立ち位置の思惑が絡んで玉虫色のまんまだが、要約すると20143月時点ではこうだ。(消費税増税で)『一人でも自殺者が減るよう努力する』

 

つまり確信犯なのだ。橋本不況で中小経営者が価格転嫁できずに倒産/廃業、ジリ貧になり、自殺が増えた事実を前提にしている。「労災増えるけど仕方ないよね」「過労死増えるけど仕方ないよね」「ワープア増えるけど仕方ないよね」「自殺者増えるけど仕方ないよね」「餓死者も増えるけど仕方ないよね」と半ばあきらめた社会が本当に、または自分たちが変わらず暮らすための代償に 知らない誰かに貧乏クジを押しつけて見て見ぬフリする社会が本当に、そしてそれをも『自己責任!自己責任!』と言い放つだけの社会が果たして本当に我々の目指すべき社会なのだろうか? 奴隷や犠牲や間引きを暗に要求し、自分たちだけ助かろうと 仕方ないよね、仕方ないよねと自己弁護する社会が、本当にユートピアなんですか? そしてそのうち、今度は自分にお鉢が回ってきても、傍観者や加害者に『詮無きこと』で丸め込んだり丸め込まれたりする、そんな社会にしたいんですか?

 

「自活できない経営者や労働者は淘汰されよ」という『勝者の論理』は、どんな時にでも正しいのだろうか? ときに年収800万円以下は、納めてる税金より受けている行政サービスの方が多いので、そういう人は行政から見たら赤字なんだそうだ。だが、では『そんな穀潰しは、社会のお荷物なのだから、払った税金を俺らが100%享受できるよう 日本を出て行け』とか、『とっとと俺らのために吐き出すモノを吐き出して死ね』と、いうことに なるだろうか?

 

 そんなわきゃ−、無いですよね! 

 

もしそんな論理がまかり通れば、日本の80どころか90%は社会的に殺されてしまうか海外に飛ばされてしまい、国体が維持できなくなってしまうだろう。いくら、何にでも交換できるタダの紙切れ/電算機内の数値に過ぎないカネを唯一の基準にすると、往々にしてなすべき政策を誤る。本末転倒とはこのことである。ヒトのためにカネは発明されたのであって、カネのためにヒトがいるのではない > 政府

 

なぜならヒトは、キュウリやナスビじゃないんだから間引きには文句言うわけですよ。そりゃ私たちは、有識者や、エリートから見れば取るに足らない存在かも知れない。だが、その取るに足りない仕事もまた誰かが遣らねばならなかった(少なくとも、モノ造りの現場で働く人々は、刺身の上に食用菊をえんえん乗っけるだけの仕事の1024倍は大変だろう)。私たちは歯車じゃないんだから、対価としてのいい目を見られず間引かれようとされたら当然文句言うわけですよ。

 

だが、そんな大変な状態にある人々の上に増税や物価上昇を誘導し、人々の不安感をエンジンにムリクリ経済を押しがけする『成長戦略』は果たして正しい日本再生の手順だろうか? 言うまでもなく、生き物の成長というのはいつかは止まる。いつかは止まって そこから先は、連れ合い探して次の世代に命の受け渡しと相成る。この代謝を無視して老人偏重で国が滅びましたという、古代ローマの家族制度の崩壊で国滅びましたとあざ笑われるのと同じことをしようとしてはいないだろうかこの国は。支配者は別に困らんだろうが末端はたまったものじゃない。ついでに言うと、為政者が『若い世代にツケを残すな』という総論それ自体は大変結構なことで賛同するが、では各論に入ると何故まだイイ目をひとつも見てこなかった世代まで さも当然のごとく搾り取ろうとするねん。

 

 私は社会主義者でも共産主義者でもないし、『社会人になったからor結婚したからなににも困らない生活を保障せよ』と言ってた社会主義経済が破綻したことも知っている。が、今、世の中のある部分では死ぬほど忙しい一方で、実際には何も良い物事を生み出しておらず、社会に何の貢献もしていないヒトや団体が鼻をほじっているという状況が本当に国としての正しい形なのだろうか?

 

 分散より切り捨てる方がカンタンだからとそうしても、日本国は日本人をリストラできないのだから、生産活動に戻れない失職者の社会保障負担というツケは今どんどん溜まっており、今度の増税で経済再生どころかより一層の泥沼にはまることを今ここに予告し、消費税増税回避を最後まで行政に訴え続けるモノである。

 

(2014/3/30)

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