国鉄(インチキ)車両図鑑-2
形式キハ43800



昭和12年に落成した流線形ディーゼル列車、キハ43000の試験データを叩き台にして昭和14年に落成した急行用気動車が、このキハ43800型である。



当初は電気式の強みを生かし、中央、北陸等の勾配の連続する幹線で使用する事を前提として設計が開始されたが、出力の不足が予想される為、一先ず東海道線等の平坦線の急行用として昭和14年末から開発を開始した。

下り方に電動三等車キハ43800
次いで三等・食堂合造車キサハシ43820
そして二・三等合造車キサロハ43850
最後がエンジンと発電機を積んだ荷物合造車キハニ43830を配置。


4両固定編成が建前であったが、適宜中間車を入れ替えたり減車する事で輸送に弾力を持たせる工夫をしている。

エンジンは船舶用750馬力ディーゼルエンジンを2基搭載し、定格出力1250kWの発電機を廻す。得た電力で120kwの電動機8基を動かして走行する仕組みで、試作車での試験の結果、平坦線での最高速度75km/hを維持しながら問題なく長時間運転が出来た。

車体は資材の節約の観点からキハ43000ばりの流線形を諦め、実用的な省線電車のような造形を採用した。同時代のモハ43(半流)の流れを汲んでいる。

車内の造作は、当時特急用としてデビューしたばかりのオハ35系に準じた設計となっており、この車両が当初から長距離輸送用として開発された事を、如実に物語っている。

箱根越えを丹那トンネルによって克服した後の東海道随一の難所、関ヶ原越えには流石に出力不足が危ぶまれた為、下りは岐阜、上りは米原で後補機を連結して一気に押し上げ、その後走行解放する手法を採る予定であったと言う。


試作編成は昭和14年3月に日車東京支店で落成し、翌4月から浜松-名古屋間で試運転を開始した結果、戦前のディーゼル車にしては良好な成績を収め、間も無く改良型の設計を開始した。

しかしご多聞に洩れず、燃料の入手困難によりその後の計画はあっさりと中止されてしまったのである。
もしも戦争が勃発せず予定通りに開発が進んでいれば、昭和16年には東京-名古屋間で「流線型ヂーゼル急行電車」としてデビューを果たし、その後昭和23年度までには改良型を以って全国の幹線にディーゼル電車による急行列車ネットワークが完成する予定であった。

そしてそれらの列車は所謂「弾丸列車」と共に新しい国鉄のシンボルとなる筈であった。


さて、同車の母体となったキハ43000と異なり、この試作列車の内キハとキハニはどうにか戦火を生き延びる事が出来た。

計画中止後同列車の内キハとキハニはエンジンとモーターを降ろして客車代用となり、武豊線で8620等に牽引されて活躍したが、終戦後数年経って再度気動車に返り咲いた。

キハニはDMH17エンジンを架装してキハユニ16形式に編入され300番台を名乗った。北九州地区で電気式キハ44000等と手を組んで使用。昭和43年まで残存した。
一方キハは再動力化されないままキクハ45(後キクハ09)に編入され、新潟地区でキハ45000(キハ17)等の増結用に使用され、実に昭和55年まで越後線や白新線で姿を見る事が出来た事は、誠に重畳であったと言うべきであろう。