国鉄(インチキ)車両図鑑−特別編
大船の併走・1959







昭和34年と言えば、名車20系客車や91系東海型出現の翌年に当り、その一方で三段窓のロクサン型やリベットだらけの旧30系が都心を走り回っていた光彩に富んだ時代である。その頃大船に三脚を立てると何が撮影出来たであろうか。

その頃の撮影地としての大船をどう評価すれば良いのか迷う所だが、一口に言えば「被写体を選ばなければならない」と言う意味で非常に気を抜けない所であった。
フィルムはまだ高価で、1列車につき1枚撮影するのが常識であった。現今のようにモータードライブで立て続けに何枚も撮影する等は先ず考えられない事である。だから大船に三脚を立てても見送るだけの列車が大変に多かったが、それだけ列車本数が多かったとも言える。何しろ天下の東海道線に加えて、横須賀線、湘南新宿線(当時はまだ湘南線と呼ぶのが一般的だったが)と目まぐるしく色とりどりの列車が行き交う。80系サハシなし10連の東海道普通沼津行やEF15牽引の貨物列車等は「撮るだけ無駄」と言うのが普通の考え方だったのである。今にして思えば何とも勿体無い話だとは思う。



ある春の朝である。東海道下り線をまだピカピカの新車、東海型91系が颯爽と飛ばして行く。時間からして下り「第1東海」であっただろうか。オールステンレスのサロ153が珍しかった。轟音と共に「東海」とすれ違うのは、これまた一昨年に出現したばかりのキハ55系である。東京口で55系を目にするのは非常に珍しい。手元の時刻表によれば下り臨時準急「常念」、横浜線経由松本行きであった。キロハ込みの4連で、前夜を茅ヶ崎で明かし横浜まで回送する途上である。後に「アルプス73・76号(はまアルプス)」そしてJR化後は特急「はまかいじ」に進化した横浜−中央急行の最初期の姿である。この後橋本で相模線経由の2両を、大月で千葉編成の4両を併結し、堂々10連で松本を目指すのである。




10分前に通過した伊東発の普通列車をやり過ごし、名古屋発の上り「第2東海」を待つ。91系かと思いきや80系サハシ込み11連が湘南北行線をやって来る。ぎりぎりの所で東海道下り線を行くEF12牽引の貨物列車が被って来た。希少な冷改サハシ88305の全景が切れてしまったのは残念だが致し方あるまい。




やや日が翳った頃、「つばめ」専用機、セーラー服塗装のEF58に牽引された上り「つばめ」が東海道上り線を駆けて来る。狙ったのは勿論「銀箱」オイテ30。日本離れしたデザインもさる事ながら、本邦にたった3両と言う希少性に惹かれた事もあった。要はミーハーなのである。折も折、湘南南行線を行くのは小山発小田原行きである。この頃の湘南線は「おでん鍋」と言われる程あらゆる系列の汽車・電車が無節操に右往左往していたのであるが、これなどはその中でも最上等の部類に入るであろう。80系全金車で編成されているので恐らく田町の車両であっただろうか。




目の前の線路を往来するものが何も電車や電機ばかりではないのがこの時代の面白さであった。列車が途切れて一服付けていた頃、小田原方の直線区間を惰行して来る蒸機を目にした。恐らく茅ヶ崎辺りから新鶴見へ引き上げる回送なのであろうが、良く見ると重連である。アメロコ16000は良く横浜近傍で目にしていた(横浜区所属の16002等は入替の為にベルを付けていた)が、後位に東京では殆ど見る事の無かったD54が繋がっている。戦時中に貨物輸送に対応する為、主にC51をミカドに改造したアンバランスなカマで、後には関西線柘植区に集中し、かつての僚友C51と共に活躍したそうである。




アメSLが来れば次はアメELでも来ないものかと祈っていると、取り敢えずではあっても祈ってみるもので、次の湘南線南行は宇都宮のEF5716が牽引していた。これは今更言うまでも無い程有名なカマなので説明は省くが、ロウイ氏デザインの流麗な肢体は、スカートの切除、灯火管制のフードを取り付けたままになっている前照灯等、数箇所の戦時改造を受けた上でも尚光り輝く事を止めなかった。思えば僚機EF572〜15の武骨さと比較して、16、17号機のこのたおやかさは如何であるか! 何時ぞや大宮駅でEF5717とEF55が並んだのを見た記憶があるが、正直言って私はEF55に同情せざるを得なかった。それ程美しいカマであった。
東部出身の進駐軍は「リリパット・ペンシィ」と呼び、日本人のファンは「JG−1」と呼称したこのGG−1の兄弟機は、惜しい事に翌年、EF58と同等の車体に載せ換えられている。その後はずっと宇都宮に在籍し、昭和53年頃まで東北線で活躍していたので覚えておられる方も多いだろう。




日々すし詰めの通勤地獄を味わっていた私は、ロクサン型に関してやや引き気味に眺めていた。しかし一旦会社人間としての呪縛から解き放たれ、レンズ越しに覗くロクサンは「悪くない」ものであると思った、なぜならばロクサンも電車だからだ。
手前の東海道下り線を横須賀行きが行く。先頭はスカ線のヌシ43型である。この頃はまだ増結として70系と手を組む事も珍しくは無かったが、奥の湘南北行線を驀進して来た73系の全金車との取り合わせが面白く、ついシャッターを切った一枚であった。




午後2時過ぎ、下り第2こだまを狙っていると、奥の湘南北行線から見慣れない列車が被って来た。変形機EF5835に続くのは滅多に本線に姿を見せない特別車両スイロネフ18型であった。1形式1両、皇太子殿下専用であった先代のスイロネフ38の代替わりであったが、当時の新聞によればこの時は来日中のベルギー王太子殿下の御利用で伊勢から日光への移動に使用された事が分かる。



西鹿児島から延々20数時間を掛けて東上して来た急行「高千穂」が、東海道上り線を近付いて来る。恐らく前の列車が支えているものか、優等列車特有の猛スピードは出していない。すると遥か彼方から猛追を掛けて来た湘南北行線平塚発熊谷行普通列車が少しづつ追い越して行った。牽引は高二のEF53、「高千穂」のEF58の遥か先輩格である。その走りは「老骨に鞭打って」等と言うシロモノではなく、老いて尚矍鑠、輝くばかりであった。先頭の客車が珍しくマハ47だな等と思っていた矢先、私はレンズ越しに見た。EF53 の運転台側面窓から顔を出した若い助士が追い抜いたばかりのEF58に向けて満面の笑顔で笑いかけていた。そして右手に白いハンカチを持ち、挨拶をしていたのだ。直後、EF53の深く暖かいクラリオン汽笛が「ホッホッ」と短泣二声。EF58から「ホニャア」と適度一声の返辞。53の助士はすぐ真顔に戻って前方注視に戻る。この間僅かに数秒。この瞬間をカメラに収めたかったものだ。