国鉄(インチキ)車両図鑑-番外
倶利伽羅峠のあの頃
倶利伽羅駅から砂利道を撮影ポイントへ向かう最中、小雨もよいの中を下り富山行きが追い越して行った。背向重連のDD50が牽引するありきたりの列車だった。
ありきたりではあったが、底冷えのする初冬の山道を歩いていると、昨夜来の宿であった暖かい客室がもう懐かしく思えて来る。
三脚を立ててややもすると、上り急行立山が猛然と峠を下って来る。
白っぽく沈んだ山峡を照らすギラリとくやしげにむき出した黄色い前照灯は、あたかも義仲の田単火牛の計によって倶利伽羅谷に消えた平氏の公達の怨霊なのではないかと疑う程の迫力であった。
程なく、今度は下りの貨物列車が轟音と共に峠を昇って来る。キャブフォワードのD61は敦賀にいた筈だが、その年の秋から金沢に集結するようになったと後で知った。前補機を勤めるのは変形テンダのD6110であった。
全くあの頃の北陸筋は何が飛び出て来るか予想が付かなかった。富山のD51とアメロコ16000の重連の更に露払いをDD50が勤めている。恐らく運用の都合だったのだろうか。
DD50の出力強化型は各社で取り組んだものらしく、DF50と同時期に多様な試作機が登場しては話題になったものだ。下り泊行きを牽引するDF94を見かけた。片運転台で足回りは旧式ELの使い回しであったが、性能はまずまずだったようである。専用の暖房車が蒸気を上げているが、もうそんな季節になったのだ。
昼を少し回った頃、下り直江津行きを牽引するE10を目にした。本務機はもうその頃は既に珍しくなっていたC51であった。この取り合わせが大変珍しく夢中になってシャッターを切った事を覚えている。
その次の上り米原行きは鈍行には珍しくDF50が付いていた。前補機が必要とも思えないような短い編成で、ロコの次位にはオハフ30が挟まっていたのも珍しく思った。
そろそろ旗を巻こうと思った頃、とんでもない珍客がやって来た。慌ててシャッターを切った為、思う通りの仕上りにならなかった事を悔しがったものだ。貨物用DF10は非常に貴重で、当時金沢に4両配置されているばかりだった。
この後七尾線へ回る途次、羽咋で変わった列車を見た。DD50が逆行単機でたった1両のスハ32(スハフ50であると後で判った)を牽引して、金沢方へ去って行った。
動画・倶利伽羅峠のH50