国鉄(インチキ)車両図鑑-8
形式16000、形式16100




時は昭和41年、所は大宮工場の一隅。留置線の解体待ちの蒸気機関車が押し込められている。



16001(1944 ALCO)、16102(1944 ALCO)




日本の工業製品、就中零戦等と死闘を繰り返し、自らその優秀性に舌を巻いた米国は、戦後の占領方針の一として重工業生産を厳しく規制した。その為日本の復興輸送は戦火で傷つきへたり切った車両や設備を補修しつつ当らなければならず、現場の苦労は筆舌に尽くし難いものであった。
その事情は米国側とても知悉している。占領地を安全なものとする為には充分な物資が行き渡らねばならず、その為の輸送システムの重要性を既に会得していたのである。1944年にイギリスからフランスへ渡った米国製SLの総数は2000両、燃料輸送用タンク車だけで6000両にも上った。
その事例と完全に軌を一に出来ないが、戦略爆撃調査団は日本の鉄道が蒙った損害は独仏の比ではなく(道路等の代替輸送手段が皆無の為)、一刻も早く鉄道輸送を再建しなければならないと結論し、1945年までにフィリピンまで運んで来ていた通称マッカーサー機関車を投入すべきであるとGHQに報告した。

他方国鉄は、構造も設計思想も異なる米国製蒸機を導入する事は簡単に言えばありがた迷惑であると考えていた。すでに戦後間もない内から、将来的には幹線を電化した上、動力分散式で行くと言う方針を定めており、ここでGHQ、RTOの勧告を受け容れる事は重大な先例を作るのではないかと想像されたからである。

両者の折衝が続く間、既に日本に運び込まれていた貨物用2-8-2型56両、旅客用4-6-4型18両は横浜の米軍埠頭で雨曝しになっていた。

「まず足下を見よ」。

泣く子と進駐軍には勝てない道理で、国鉄では1946年3月からそれらの機関車を受け容れる事となったのである。この決定はマッカーサーを非常に満足させ、更にシバート准将は「戦争に勝つと言う事はこう言う事なのだよ」と語ったと言われている。

別項の18200形式や8500形式(後のDD12)と同様、輸入形式の称号は大改番以前の空ナンバーを用いる建て前から貨物用ミカドを16000型(16001~16056)、旅客用ハドソンを16100型(16101~16118)とし、全国に分散配置された。
テンダーは日本製で、戦後廃車されたC53、D50のそれを再利用している。

形式16100、形式16100原型


使って見れば日本の蒸機と違って独自の癖が少なく、扱い易いと言うのが大方の意見であった。更にそれまで国内には例が無かったボールベアリングの効能は著しく、その後のC63形式の設計に影響を与えた。
不思議な事に、16000型の要目・性能は驚くほどD51形式と一致しており、恰も米国のメーカーにD51と同一の機関車を発注ようだ、との指摘が国鉄内部から上ったが、その問い掛けにメーカー側は慌てたように偶然の一致であるとコメントしている。
戦時中、米国の諜報機関OSSは日本に対して様々な諜報活動を行っていた事は謂わば公然の秘密であったが、軍事的項目以外のまさか主力貨物用蒸気機関車の性能までも調べ上げ、日本降伏後、或いは軍事占領した地域の輸送に充当する等と言う事は、普通ならば考えられない事であるが、大戦後半の国力が充実していた米国であればやりかねんとの声が、国鉄内外からちらほら聞こえたと聞く。



その後16000型は各地でD51に混じって活躍し、昭和40年、新津区の2両が廃車され形式消滅した。現在1両がコロラドの軽便鉄道で保存されている。
一方16100型はそれ程の幸運を授からなかったようであった。当初は沼津、浜松に配属され、東海道線の旅客を牽引したが、すぐにC62に追われて全機糸崎へ、そして軸重軽減改造を施された6両が盛岡へ移動し、昭和34年には全機廃車となった。

所でモデルの世界では美形のライト・ハドソン、16100は人気があり、同機が現役で活躍していた昭和33年頃には天褒堂から輸出向けに製作したOゲージの完成品が出回り、後にはタツミ・シュパーブラインでも模型化されている。やはり身近な米国型は夢を与えるのであろうか。