国鉄(インチキ)車両図鑑-3
形式18200



「…これまでの経緯を一々反芻するまでもなく、占領国統治に専念すべき幕僚ドナヒュー中佐は、一介のセールスマンに過ぎない事が判明致しま…」
「誰かそいつをつまみ出せ、そいつはレッドコミィだ!」
「議長!議長!」「静粛に、議員諸君、どうか静粛に!」
「議題となっているレイナード・カー議員の動議について答弁します。小官の身に全く覚えがない事です。小官は日本の占領統治に専念する事が任務であり合衆国軍人であれば誰でもが任務に忠実である事は言を俟たないのであります! 小官の身は全く潔白であり、何人たりと言えども後ろ指を差される覚えはないと断言します。また…」
「カーペットバッガーズめ、恥を知れ! 貴様はジャップから幾ら袖の下を貰ったのだ!」
「北部のシェアクロッパーめ、貴様のようなヤツが南北戦争の後のサウスカロライナには掃いて棄てる程おったわい!」
「静粛に! 静粛に」(怒号・野次)

これは昭和23年7月、合衆国下院で行われた「日本向けディーゼル機関車輸出疑惑査問会」での記録である。


昭和21年、日本の鉄道輸送を管轄していたRTOは、輸送力の甚だしい低下と続発する事故・ストライキへの対応に追われていた。
特に余力の無い旅客輸送については時を措かない対応が必要と判断。上部機関であるGHQは米国製ディーゼル機関車の日本への輸出を許可した。
米側機関と国鉄との仲立をしたのは、GHQ内政担当官、エドワード・ドナヒュー中佐であった。周囲から野心家と思われていた彼は、国鉄担当者と面談した際、
「この際だから日本もディーゼル電気機関車を導入すべきである。とは言っても貴下らに米国の機関車事情は分からぬであろうから、小官が仲立をしても良い。その場合は、小官の顔で特別に値段を下げてやらぬでもない。その方がお互いの為でもあろうし、ね」
このように説明したと言う風説が、GHQ内部に流れた。賄賂の強要である。体面を人一倍気にする性質のマッカーサーは、早速慎重な調査を開始。その途上で国鉄担当者の身辺から、風説を裏付けるメモランダムが発見され、問題は簡単には済まなくなった。
メモの信憑性は最後まで疑問のまま残ったが、進退極まったGHQは当のドナヒュー中佐を本国に送還し、査問会に付す事で政府に対して面目を保った。
結局ドナヒューは予備役に編入され、本国へ戻った。実際に機関車の代金を一部収賄したと言う事実は明らかにはならなかったが、彼は退役後問題の機関車メーカーの社外役員に迎えられている所を見ると、どうやら収賄は事実らしくも見える。
それとは別に、これはトルーマンの後釜を狙うアイゼンハワーの謀略ではないかとの見方も出て来た。彼と同じく政界を狙うマッカーサーの威信を少しでも削ぐためと言う、尤もらしい理由が添えられている。


そのような米国政界の動きとは関係無く、昭和24年、米国EMD社製のディーゼル電気機関車の第一陣12両が名古屋港で陸揚げされた。



米本国の最新鋭機関車であるF3A型とほぼ同じ形態ながら、1067㎜軌間である為にやや小振りである。
同機は何も日本が発注したのではなく、昭和19年から昭和20年に掛けて南米諸国向けに製造した物の内の売れ残りがたまたまストック品として保管されていたからに過ぎない。
国鉄ではこの機関車を18200型と称し、全車を名古屋機関区に配置して性能を見る事にした。沼津以西の東海道本線、分けても関ヶ原越えに威力を発揮する事を期待したのであるが、単機で640t級の貨物列車を牽引して千分の二十勾配を登坂する事が出来なかった。その為同機は後のDD50と同様、背中合わせの重連で使用する事となり、翌昭和25年から東海道本線の長距離旅客列車牽引の任に当る事となった。
しかしながら運用開始後は故障がちで部品のストックが心許ない現状では、充分に使いこなす事が出来なかったのであろう。次第に「お荷物」となって行ったのである。
東海道本線の名古屋電化が完成した昭和28年には、後の電気式ディーゼル機関車研究の為の教材として2両(18203、18205)が残置された他は全て台湾へと売却されて行った。

それでも趣味的に見れば、生粋の米国形ディーゼル機関車が秀麗な伊吹山の麓を黒煙を濛々と上げながら驀進するさまや、如何にも日本的なシーナリーである茶畑の間を縫うようにして滑走する姿が見られた時期があった事が実に興味深い事例として記憶に止め置くべき物ではなかろうか。