国鉄(インチキ)車両図鑑-5
形式E50




E50形式は戦時輸送体制下で逼迫する貨物輸送に対応する為、昭和12年より計画、昭和17年~19年に合計22両が製造された。



当初計画では単機でD51重連に相当する出力を持ち、千分の二十勾配において640t級列車を時速25km/hで単機牽引する性能を予定していた。所が実際、特に戦時中には資材・燃料の劣化や保守要員の質的低下等の事情で必ずしも所期の性能を発揮出来なかった。

軸配置は2-10-4「テキサス」型である。当初は2-10-2「サンタフェ」型を予定していたが、軸重を押さえる必要から従台車を二軸としたものである。急カーブ通過の対策として動輪の内、第3動輪はフランジレス、第1と第5動輪は左右に3°づつ横動する構造となっている。
これだけの巨体を遺憾無く動かす為、火室は広く深くしてあるが、戦後の改装でメカニカルストーカーが装備されるまでは助士泣かせの機関車であったと言う(出典:教導機関士物語、日本シネマ社)。それまでの間、運転台には、教導機関士・機関士・機関助士・機関助士の合計4名が居流れ、「単機で2両分=その分人員削減」のメリットが消えて無くなっている事に注目されたい。
名古屋機関区に配置された10号機には手回し式の手動ストーカーが試験的に装備された記録があるが、その後他形式に波及しなかった事を考えると、どうも失敗作であったようである。



本機は1号機から全機が所謂「戦時形」として製造され、同世代のD52と共に「勝利の日までもてば良い」という簡易製法であった為、どうしても粗製濫造の観は否めず、戦争末期から終戦直後にかけては缶胴爆発事故が相次いで発生している。

E50は特甲線貨物専用として、名古屋、米原、糸崎に集中配置されたが、その際米原と糸崎には同機専用の26m級ターンテーブルが新設された。因みに名古屋においては構内のデルタ線で方向転換をしていたそうである。

戦後は5両が戦時賠償物件としてソ連へ渡った他は、軸重軽減措置を施して全機長町へ移動し、東北本線の郡山-盛岡間で重量貨物牽引の任に当たった。大きすぎた車体が災いしてか、同窓のD52、D62より余程早く、昭和37年には全機廃車となっている。日本残留組の中のトップナンバー、6号機が現在京都の姉小路機関区に保存されている。


余談であるが、戦後GHQの指導で貨物用E50の一部を旅客用に改造する計画があった。
設計段階でD53と言う制式名称が付いていたと言う事は、実現性の高い計画であったのだろう。しかしながら東海道筋における電化の進展の見通しが立って来た為に、このマンモス機は机上の計画で終わってしまった。
仮にもし実現していれば1750mm径動輪4対を持つ雄大な4-8-4「ノーザン」型蒸気機関車が出来上がっていた筈である。美しいカマであろうとは思うが、現場ではさぞ持て余すに違いないだろう。