国鉄(インチキ)車両図鑑-6
形式D51 944




第2次世界大戦中、我国の鉄道は敵の攻撃目標とされ、多大な施設・輪転機材、そして膨大な職員の生命を奪った。
分けても昭和20年以降、日本近海を遊弋する敵機動部隊から進発する艦載機が本土を直接襲うようになると、その被害は一層深刻化したのである。
そこで止む無く各現場では、独自の工夫を凝らして少しでも損害を食い止めようと知恵を絞ったのだ。
トラス型鉄橋に偽装網を被せる案。機関車の屋根に重機を据付ける案。木材でダミーの線路を敷き、上空の敵の目を欺く案。どれもこれも必死のアイデアであり、一笑に付す事は出来ない。


D51 944(1944 土崎工場)



これらの動きの中で、最も活発に対策案を出していたのが東鉄局長町機関庫であった。長町は仙台を中心とする東北本線・常磐線の貨物用蒸気機関車の要であり、当然ながら空襲による損害は続出していたのである。

上図は目に馴染んだ戦時型D51であるが、ボイラー回りに何かが取り付けられているのがお分かり頂けよう。結論から言えばこれは竹の装甲(シェルツェン)である。

上空から走る列車を眺める時、機関車のボイラーは最も目立ち、且つ狙い易い目標物となる。現に昭和20年に入ってから、ボイラー貫通による休車扱の機関車は非常な数に上っている。
長町機関庫では「完全に銃弾を防げないまでも、一旦弾の勢いを逸らし、缶胴貫通を防ぐ」為に、簡便な資材を使った増加装甲を考案したのである。昭和20年5月、同区に所属するD51944を使って試験を試みた。
当初は材木を使用する積もりであったそうだが、当時は材木すら払底しており、その調達は容易ではなかった。

そこで竹に注目したのである。竹ならば付近の山から幾らでも調達出来る上、軽くて扱い易く、熱による変形も余り考慮しなくて良い。
重要箇所を厳重に防護された「戦時特装型D51」は、昭和20年6月20日、仙台師団にて実弾試験に供された。約200メートル離れた所から先ず小銃で、次いで同距離から機関銃で射撃。その結果、一部の箇所に破断が見られたものの、肝心のボイラー回りは完全に防御されていた。

実地試験はその翌日から開始された。



竹は黒い機関車を背景にすると目立つので、墨汁で迷彩を施し(ペンキ等は払底していた)、施工当初の「民芸品」のような趣は消え、実用本位の凄味が滲み出る面相となった。
ボイラーの周囲を竹で囲ってある為、やや過熱気味になり、注意が必要と言う結果に終わったが、ボイラーと増装の間の通風を改良する事でどうにかなるように思われた。

同年7月1日から増装付D51は運転を開始したが、奇しくも初お目見えのその日、同機の牽引する貨物列車は遭難したのである。
同日午前7時33分頃、東北本線瀬峰付近を走行中の上り貨物3556列車(45輌編成、牽引D51944)は、折から太平洋岸を遊弋中の米空母から発進したコルセアの4機編隊に発見され、射撃を受けた。乗務員は必死で列車を停め、付近の遮蔽物に逃げ込んで、様子を見る事にした。竹の増装に絶対の自信を持っていた指導機関士は、若い助士達に安心するよう言って聞かせていた折、突如大音響と共に機関車から白煙が上がり、次いでゆっくり横転してしまった。
敵機が去った後、乗務員達がおっかなびっくり現場に戻ると、同機のボイラーは無惨に裂け、激しい熱気と火炎で竹の増装はポンポン音をさせて燃えていた。

原因は明らかである。幾ら実弾試験を経たとは言っても、兵隊の撃つ6.5mm小銃弾と、高度2000メートルから時速700キロ超でダイブして来る艦載機の12.7ミリ機銃弾では威力が違いすぎたからだ。

この一件で長町はしょげる事も無く、早速次の改良に取り組んだ。竹の節を抜いて中に水を詰めておく案である。節を抜いて置けば、燃える時も音が出なくて具合が良いだろうとの意見も出た。とにかく皆大真面目であった。

―究極的な解決法は戦争が終わる事だと誰もが判っていたが、勿論そんな事を口にする程皆馬鹿では無かった。

終戦間際、日本はそんな所まで追い詰められていたのである。

同機は戦後修復を受け、昭和36年まで長町に所属し、その後五稜郭に移って昭和46年まで活躍した。