国鉄(インチキ)車両図鑑-11
形式B51




第二次世界大戦終了後、鉄道輸送、殊に旅客輸送は混乱を極めていた。急遽旅客用機関車を製造しようにも工場は徹底的に破壊され、資材の調達もままならない上に、連合軍最高司令部は日本の工業力を抑制する目的に沿う形で、新規の機関車製造を禁止すると言う状況であった。現場では連日満足に整備を受けていない機関車が、詰め込めるだけの旅客を詰め込んだ継ぎはぎだらけの客車を牽引してどうにか運行を続けていたのである。

従来地方線で使用され続けて来た明治生まれの機関車の寿命が近付いている。その代替用に充当する軽量の高速旅客用機関車が必要な時期になっていた。
国鉄としては、戦争が終わった為に余剰となった貨物用機関車を旅客用に改造する(D51→C61・C15、D52→C62・C16、E50→D53・未成)と言う政策を取る一方で、別の窮余の一策を講じつつあった。昭和21年初頭の事である。

戦時中、増大する工業輸送に対応する為、当時の逓信省が音頭を取って戦時標準型蒸気機関車のモデルを製造し、中小のメーカー各社がこれを手本とした入換用機関車を多数製造していた。最も有名なのが国鉄に納入されたB20形式であろう。
この外にも軸配置0-6-0、0-8-0、2-6-2と言った各種のモデルが次々に完成し、主に軍需産業用として普及して行った。全体の造りは非常に簡素で装飾的な部分が一切無く、運転台やコールバンカー等は木製の物も多数あった。その補重の為台枠等にコンクリートブロックを死重として積載しているのも、戦時型の大きな特徴である。

国鉄はこのような小型機関車の内、比較的大型で数の揃っているC380形式に目を付けたのである。ボイラー出力に余裕があり、足回りの造りも手が入れやすい、何よりも同一形式で30両近く揃っている事が魅力であった。

メーカーに留置されていたそれらの機関車に対し、昭和20年5月から6月までの間に国鉄に納入されたと言う偽の書類が急遽用意され、2830形式と言う偽のナンバーまで付与された。これは当時機関車の新造を禁止されていた為、終戦前から国鉄に在籍していた事にしてGHQの目をくらます為に取られた措置であった。終戦前から在籍している機関車を改造する分には、届け出が随分と楽だったのである。

こうしてまんまと既存機関車の改造名義を手に入れた国鉄は、その年の4月から鷹取工場で本格的な改造に取り掛かった。設計自体は数人掛りでほんの3~4日で終わったと言う。如何にも終戦直後らしいやっつけ仕事ではある。

元々が2-6-2のタンク機関車なのであるが、動輪径は1250mmに過ぎず、期待される旅客用としては物足らなかった。原計画ではC58クラスの1520mm径ボックススポーク動輪を新造する予定であったが、資材の関係で調達が出来ず、仕方なく休車中の英国製4-4-0が履いている1520mm径動輪を取り外して使用する事とし、それに合わせて主台枠を製造して行った。



同クラスのC56と比較してボイラー高がやや低く、それでいて大動輪であるが為にアンバランスな感じは受けない。2-6-0モーガル型のC56が貨客両用であってもやや貨物用に偏向しているのに対し、この新型機はやや旅客用に偏向していると見て良かった。
重量配分の関係で軸配置はやはり4-4-0となった。元のC380からは想像も付かない程軽快で近代的な、そして日本最後のアメリカンB51形式が完成したのは昭和21年の12月であった。叩き台が存在したとは言え驚くべきスピードである。



初号機B511は早速加古川区に配置され、主に加古川線で試験を行った。その結果驚くべき事に、4日目にして主連棒にクラックが入っている事が判明、原因は現物合わせ(!)で造られたそれが位相と微妙に食い違っていたせいだと判ったが、その後も粗製濫造されたボイラーにひびが入っていていたり、車軸の発熱が酷かったりと散々な出だしであった。関係者は頭を抱えつつも「現場主義」で部品を取り替え、少しづつ使い物になるように努力した事を忘れてはならない。



登場時には除煙板は無く、運転台も開放型であった。炭水車は元々動輪を提供した5300や6300等の足回りを再利用していた。大体昭和28年頃までには除煙板が取り付けられ、運転台は密閉型となり、C56用のそれを更に改良した専用の丸みを帯びた炭水車に振り替えられてその姿は一層スマートになったのである。

総勢29両のB51は当初、平、高麗川、亀山、福井、加古川、徳島、そして鳥栖に配属され、平坦線の区間列車の牽引に威力を発揮した。国鉄の産んだ究極のバックヤードスペシャルとしては上々の成績であったと言う。

後に北海道の苫小牧(日高本線)や帯広(士幌線・広尾線)に転出したB51は補助灯や回転窓の設置、切取デフレクタ等の改造を受け、また九州の佐世保(松浦線・臼ノ浦線等)、宮崎(日豊本線)に転じて独特の門鉄デフに換装された者もあった。

最後の活躍は松浦線の旅客列車である。C11と共に3~4両編成の通勤列車を牽引していたが、海沿いを走るとは言え同線はアップダウンが激しく、大動輪の4-4-0にはさぞ辛い職場であった事だろう。



昭和44年、同僚のC11より一足早く、最後のB51は缶の火を落とした。現在B5128が平戸市内の自治会館で保存されている。