幸島県民新聞1954年6月3日号「問題提起」欄より転載

問題提起No.1「タヌキの泥舟と土下座社長」

昭和26年に県下北羽根郡の四ヶ村が合併して出来た半田川町は、発足 以来順調な発展を示している。殊に国鉄駅南に横堀電工幸島工場が誘致された 結果工業就労者を中心として人口が増加。30年前は無人の田野が今や2万人 規模の街に成長した。
然るに昭和28年、羽根三郡では3番目の県立普通高校となる「半田川高校」 が開校した結果、思いも依らぬ問題が生起しつゝある。


知りたがりの県民性のせいか幸島県には「幸島新報社」を筆頭にかなり の数の地元新聞社があります。その中で異彩を放っているのは、幸島県庁広報 室の発行する「幸島県民新聞」でしょう。
県庁が発行すると言えば当然体制寄りの論調になるかと思いきや、その ペン先は常に体制側を向いている事が他に例の無い「変わった新聞」であると 言えましょう。県議の汚職や地元産業団体の価格協定などを次々と遠慮無く 記事にしては激しい論調で木端微塵にしてしまう、言い換えれば「よくもこん な新聞を県が発行しているな」とも言える世にも天晴れな新聞です。

県下羽根三郡を縦断する私鉄、羽根鉄道は、元々沿線より産出する 木材、農産物を運搬する為敷設された鉄道で、乗客の輸送は二の次。戦前期 には其れでも他鉄道に先駆けてガソリン車を導入する等積極性が見られたが、 敗戦の混乱期を経た後、未だ「貨主客従」の態を示している。乗客が少ない頃 ならばいざ知らず、現在では横堀電工へ通勤する工員で朝夕の列車は常に満杯。 其処へ近年の高校進学率の向上で増加した通学の高校生が加わると、正にはち 切れん計りの通勤ラッシュとなつているのが現状である。
試みに記者は5月19日午前7時44分羽根本町駅発、半田川行き上り列車に 試乗して見た。尚信じ難い事に、通学の生徒の大半は車室に入り切らず、窓や 扉からぶら下がつている。中には連結部分の僅かな隙間に身を挟み込んで上手 にバランスを取り乍らマメ単を暗記している生徒もいる始末。流石に屋根の上 までは乗つていなかつたが、宛ら敗戦直後の買い出し列車の如きであつた。
面白いのは、車両は自然に「工員用車両」「男子用車両」「女子用車両」 と棲み分けが出来ている事で、東京などでは当り前になつて来た「婦女子専用 車」が此の片田舎でも自然発生的に顕れたのは誠に興味深い。女生徒専用車は 他に比べて空いているのは、如何に進学率が上がつたとは云え、男女別で分け た場合女子の進学率は未だしの観を図らずも露呈している物と思われる。



その「県民新聞」の名物コーナーと言えるのが、冒頭に掲げた「問題提起」 です。これは幸島県内で「起こりつつある」問題点を「問題が顕在化する前に」 提言して行く内容で、取り上げる内容はそれこそ「高速道路用地買収問題」 から「ちり紙の値段」に至るまで千差万別。記事が発表された結果未然に防げ た問題も幾らかあるそうです。現在でも県知事から町工場の社長に至るまで、 先ず真っ先にこの記事から目を通し、自分の事が書かれていない幸せを神仏に 感謝するのが習わしになっているそうですが…。

記者は通学の生徒にインタビユーを試みた。
「君は毎朝斯うして窓からぶら下がつて通学しているのですか」
「そうです」
「腕が痛くはならないのですか」
「ハア痛いです」
「他の手段で通学をしようと思つた事は有りませんか」
「バスは不便ですし、自転車等は高いですから買つて貰えません」
「君が楽に通学出来る様になる為には、鉄道会社に何をして欲しいですか」
「貨車でも良いですから屋根の有る車に載せて欲しいです」

他の生徒は、亦斯うも言つている。

「自分は弓道部なので腕が痛くなるのは致命的です」
「此れ丈大勢の人を詰め込んでいますが、君は危険な目に遭った事は有り ますか」
「ハア良く落ちますね」
「落ちるとは」
「列車から撒け出ます。どうしても普通の人や後輩達を先に載せたいです から自分らは最後に載るのです。ですから偶に扉から落ちる事が有ります」
「其れは大変ですね」
「大変です。遅刻しますから」


その記事の第一号となったのが羽根鉄道の通学ラッシュ問題を取り上げた 冒頭の記事であった訳です。

どうやら此れは座視出来ぬ問題であるから、記者は運行会社である 羽根鉄道本社を尋ねて責任者に対策方の有無を聞いて見る事にした。
以下は羽根鉄道取締役社長、沢内康興氏との問答である。
「社長、本日は御時間を戴き恐縮です」
「イエイエ此方こそ遠い所わざわざ。相済いませんね、こつだな汚いベベ で」
「イエ、早速ですが私は昨今の通学時間の混雑が向後大問題になるのでは 無いかと思いましたので、会社の見解を伺おうと考え斯うして参上した次第 です。先ずは通学時間帯の大混雑についてはご存知ですか」
「知つてます。私自身が押し合いへし合いし乍ら通勤している者で」
「御自身が」
「そうです。だからと言つてはナンだけんど、此れはへエ早急に手を打 たさねばならねえ問題だと考えていますで」
「何か対策がお有りなんですか」
「此れは(社長、机に台帳を広げる)我が社で持つてらん客車の一覧なん だけんど、どれも此れもへエ六十年以上も使つてる中古品だから、相当ガタが 来てらんですよ。仕方無しに毎朝車庫で、今日はへエこのハコとこのハコを繋 げんべえ、あ、コリヤ駄目だ軸が緩んでらんだよ、直すべえ、せつてね。使え そうなハコを適当に、せつたら怒らえんべえけんどもさ、適当に繋げて本線に 出さんですよ」
「そんな事をしている間に事故があつたらどうするのですか。前以つて通 学生徒にインタビユーしたら、扉から落ちたと言う者も居たそうですが」
「知つてます。見てましたから」
「見ていたとは」
「今我が社が抱えてん問題は、ハコをどうやつて増やすかです。ハコを 増やさんばつかりでは無くて、成るべく大きなハコを持つて来る事ですよ。 今ん所国鉄で使つて居る41000型と言うガソリン車があるんだけんど、それを 譲つてくんねえかと話を持ち掛けて居る所で。其れが無理ならへエ余所の私鉄 で使つて居る似た様なガソリン車を買う手筈にはなつているんだけんどもよ、 あ、失礼、来年の三月迄には随分と良くなつている筈ですよ。銀行もハア増資 に賛成してくれらいた事もあるんで」
「ではもう対策は講じてあるのですね」
「そうです」
「来年三月迄の間はどう安全対策を講じるお積もりですか」
「ハコが足んねえ分についてはへエ運輸省に届を出してあつて、木造の 有蓋貨車に窓開けてカーバイトランプを点けて、その場凌ぎの客車さへエこさ えてん所なんだけんど」
「確か生徒の中には『貨車でも良いから屋根付きの車に載せて欲しい』と 言つていた者もありましたが」
「本当はさ、オラ方としちやさ、そんな訳の分からねえハコに載せたくな んかネエだよ。買い出しじやあんめえし、本当に生徒が気の毒だよ。オラ方の 責めだかんなあ。オラア毎朝列車に乗つちや皆に謝つてるだよ。『来年三月迄 辛抱して下せい』つて言つて謝つてるだよ。だから皆辛抱しらいてるんだと思 うだよ。皆笑つて許してくえてらんだけんどもよ、オラア皆が楽に汽車に乗ら えん様に為るまではよ、死んでも死にきれねえだよ」

会見後、社長の案内で羽根本町駅に隣接する工場を見せて貰つた。其処で は職員総出で客車の修理を行つている最中であつた。どれも此れも極めて古い 車両であつたが、あまつさえ中の一両は明治中頃の造作で、博物館に陳列され ているべき代物であつた。恐ろしく古い客車の脇に凡そ不似合いな婦人物の ハンケチが干してある。此れは一体何か尋ねると、工場の職工長が答えるには、 車内の忘れ物であるらしい。わざわざ洗濯して干してあるのだそうだ。


戦後の混乱期をようやく乗り切った当時の羽根鉄道は、深刻な車両不足に 悩んでいました。正確に言えば「使用に耐える車両の不足」。県立高校の開校 や、農家の次男三男が半田川の工場で働き出すようになった結果、数も少なく 小さな内燃動車だけでは増え続ける乗客を到底捌けないので、朝夕の通勤時間 帯は開業当時から酷使して来た客車や戦時中に機関を降ろしたガソリンカーを 乱雑に連結した列車を、くたびれた蒸気機関車や改造DLが牽いていました。
口の悪い当時の高校生は、非常に古いこの列車を「タヌキの泥舟」、色が 車両ごとにバラバラなので「チンドン屋」などと称し、一歩誤れば大事故必至 の通学状態を、まるでジャングルジムで遊んででもいるかのように面白がって いた向きもあったそうです。
当然ながら羽根鉄道もそうした事態を黙って見ていた訳ではありませんで した。半田川に高校が開校する事が本決まりとなった時点で乗客の急増を予見 し、事ある毎に国鉄に中型機械式気動車の払い下げを請願し続け、一方で既存 の「古式ゆかしいが決して典雅とは言い難い」マッチ箱客車を懸命に修理し続 けて、事態を少しづつ改善しようと努力はしていました。
所が鉄道の思惑以上に事態は急速に悪化します。国鉄が中古気動車の請願 を「目下余剰車なし」と蹴り続け、マッチ箱は益々隙間だらけとなって行く一 方で、進学率は急激な右肩上がりを示したのです。
苦肉の策として、昭和29年5月認可の木造有蓋車を改造した「代用客車」を 2両用意しましたが、同年9月に待望の中型気動車の先陣が西南鉄道から輿入れ し、ついに「羽根鉄道史上最低最悪の客車」は使用される事なく済みました。
それにしてもこの改造客車は、普通の木造ワムの側面に明かり取りの窓を 2つ開けただけ、車内の照明は信じられない事に、イカ漁等に使う「カーバイト ランプ」を一基釣り下げると言う無茶苦茶な代物で、実際に就役していたら 夜間は眩しくて仕方が無かった事でしょう。

一連の取材で最初に記者が得た印象は、乗客を等閑にしてボロ儲けを 企む鉄道会社と言うものであつたが、内実は苦しい台所をナントカ遣り繰りし ながら激しく移ろう世間の流れに、涙も拭かずに追い付こうとする質素で真摯 な鉄道会社と言うものに変化した事を此処に告白しておく。沿線の特に通学生 徒らは、この酷い通学列車を「タヌキの泥舟」若しくは「チンドン屋」と称し て親しみの情すら持つている事も知れた。ハネテツの土下座社長が沿線で割に 知られたもので有る事も知れた。
然しそうであるからと言つて乗客の安全を此の侭の状態にして措くなど 断じて許されるべきものでは無い。何時重大事故が生起するか判つたものでは ないのであるから、確実且つ早急な改善を改めて此処に要求するものである。
記者は今後、羽根鉄道の動向に一層厳しい目を以って取材を続行する所存 である。


記事には写真が載っていませんでしたから、ここでは当時の編成をイラス トで見て頂きましょう。
中型気動車が入線した後の事ですから昭和30年代初頭。

一番上は、羽根本町始発の上り通学列車。DB10+ハフ11+ハフ5+ハ2+ キハ43の編成で半田川を目指します。学生達が夏服で窓が全開ですから夏の図 でしょう。
DBの次位のハフはどうやら「大学生専用車」となっているようで、この クソ暑いのに詰め襟をガッチリ着込んだ弊衣破帽のバンカラ共が乗り込んで いるのがご覧頂けるでしょう。きっと車内は異常なテンションで盛り上がって いたものと思われます。この辺りで自宅通学できる大学は「竹崎大学(旧制 竹崎高等学校)」しかありませんから、「神縄残雪尚ほ高く、集めて鶴野の 水潔し」などと蛮声を張り上げ高歌放吟の限りを尽くしているのでしょう。 歌声列車と言えば聞こえは良いのですが…。
2両目はどうやら「女学生専用車」のようですね。男子高校生達はどれほど 他の車両が混んでいても決してこの車両には乗らなかったと言います。それは 遠慮でも何でも無かった事でしょう。女子の集団の中に男子が一人で乗り込ん で行く為には、物凄い蛮勇を振るわなければならないと言う事については、 今も昔も変わりません。
3両目の茶色の客車は「通勤専用車」らしく、子供や老人の姿も見えます。
4両目の気動車が「男子学生専用車」に振られているようで、開いたドア や窓から手や顔や、酷いヤツになると全身を出している者もいるようですね。
尚男子学生と一口で言っても、半田川高校とは限りません。竹崎高校、 竹崎工業高校に加えて鶴野農業高校などに通う生徒が「呉越同舟」で乗り込ん でいましたから、時には「出入り」になる事もあったようで、
「野郎、表に出ろ」
「バッカじゃなかろうか、汽車から表出たら落っこっちまあべぇよ」
「んたら半田の駅で勝負だ」
「たくらんけえ、イモ高なんか誰が相手にすっか」
「野郎、表に出ろ(最初に戻る)」等とやりあっていたそうですが。

そんな大騒ぎの群れを満載して泥舟が半田川に到着すると、今度は最後尾 のキハ43が客車を一両だけ牽引して羽根に戻って行きます。
流石に帰り車に乗っている人は少ないですね。


遺されたDB10は機回し線を通って貨車の入替えを始めます。そして沿線 各駅に持って行く積車、空車取り混ぜた貨車を引き連れて羽根鉄道のホーム に戻り、二両残された客車の内一両を摘んで下って行きます。今日はワムが 三両だけのようですね。最後尾のハは車掌車代わりでしょうか。


最後に残った一両の客車は、夕方の下り列車の増結にでも使われるので しょう。そのまま半田川のホームに置いてけぼりです。
40番台中型気動車が続々入線したためようやくにして羽根鉄道は危地を 脱しましたが、その10年後、今度は別の意味の危機が羽根鉄道を襲う事になる のです。