ついこの間。ほんの20年かそこら前の純農村を構成する者共を、少しだけご覧頂きましょう。鉄道とは縁のない、いわゆる「無駄ゴマ」ですけれども、こうした景色を保存しておく事の重要さを、今になって噛み締めている次第です。
fig.1 半田川町大字中屋敷
昭和57年08月21日。
純粋な「萱葺き屋根」は、この時点で既に貴重品となっていました。大体萱葺き屋根を葺き替える事自体、莫大なお金と労力が必要な仕事ですから老朽化した藁屋根の上にトタンを被せてしまうケースが非常に多かったように思います。この地方では、申し合わせた様にトタンを銀色で塗っていましたが、恐らく屋根の温度が上がるのを防ぐ為だったのでしょう。
fig.2 新郷村字船窪地先
昭和58年08月01日。
小さな火の見やぐらと、小さな公民館が肩を寄せ合っています。
昔の公民館は、どこに行っても大抵は汚く傾きかけた掘建て小屋で、畳は真っ白。どうかすると根太が腐って落ちてでもいるのか、室内が異様に波打っている所もありました。
この公民館で盆踊りの練習に付き合っていると、蛾や蝶に混じって「ブンブラ(あぁ、カナブンの事だな)」や「ノコムシ(クワガタだ)」、運が良ければ「カブト(カブトムシ…あ、これは判るね)」が乱舞して、形ばかりの網戸に取っ付いたりしていました。無論取り放題。それが何だって?今じゃあデパートで…止そう。スイカが不味くなる。
fig.3 新郷村字真木
昭和58年08月01日。
堅く戸締りをしているようですが、決して廃屋ではありません。なぜならこれを撮影した後で、この家の人にお昼をごちそうになっているからです。
農民は彼らが住む家を「快適な住居」としてではなく、「仕事の合間に仮眠を取る場所」と考えていた節があります。勿論現在では違うでしょうけれども、少なくとも昭和末期頃まではそんな考え方があったやに思われてならないのです。夏=農繁期の昼日中、農家に人が居る事を宛てにしてはなりません。年寄も子供も畑に出て働いているからです。普通は昼飯も野良で食べます。辛うじて「おしん」を見る為に家に戻って来る事はあったでしょうけれど。
fig.4 新郷村字真木
昭和58年08月01日。
牛の糞の片付け。この家では当時小学6年の次男坊の仕事だと言っていました。この日、たまたま次男がキャンプだかで出かけていて留守だったので、
「じゃ、お前やるか?」「飯さえ食わせてもらえれば、何でもします」
空きっ腹を抱えて飛び込んだ農家。親父さんもさぞや驚いただろうなぁ。こいつの糞を始末した後、食わせてもらった飯の美味かった事。おかずは、キュウリの漬物と海苔だけだったけど、本当に美味かった。親父さん、ありがとうね。今更だけど。
fig.5 新郷村字真木
昭和58年08月01日。
その近所にあった、雰囲気の良い農家。かなり豊かな家かも知れませんと言うのは、この絵には映り込んでいませんが、脇に土蔵一棟と母屋より大きな納屋を持っていたからです。
納屋は農具置き場でもあり、農産物の一時保管場所でもあり、作業スペースにもなろうと言う、正に多機能スペース。その思想は母屋の造りにも反映しています。母屋の中は、障子や襖を取っ払うと丸っきり一間続きになってしまう。婚礼や葬儀の時には村中の人々を一同に座敷に通す事が出来ました。だから物持ちの農家には、必ず村中の人が同じに使用できるだけの箸や茶碗、お椀や座布団が用意されていました。貧しい農家では、何かあると隣近所に食器や布団を借りに行かなければならない。私も子供の頃、借りに行かされた覚えがあります。
ちなみにこれは何時代の話をしているかと言えば、「昭和40年代以降」の話をしているのです。
fig.6 半田川町字合会
昭和58年08月01日。
「ふるさとの 訛り懐かし バス停の 前のお店に そを聞きに行く」
村の中心のバス停には、大体何でも屋さんが付随している物でした。「何でも屋」と名乗るだけあって、看板に偽り無し、本当に何でも売っていました。
食料品、日用雑貨は言うに及ばず、玩具、文房具、艾(もぐさと読むのだぞ)、「昨日の料理」「主婦の元」と言った雑誌、自家製の豆腐、近所の農家から買い入れてきた野菜、果ては喪服礼服の類(!)。役場や農協の人でも無い限り、その辺の人がネクタイを締める機会と言えば、姪っ子の光江ちゃんがやっと嫁に行かいた時とか、鈴屋の爺さんが「ナム」だとよ…と言った時位しかありませんでしたから、何でも屋の「吊るし」でも十分に間に合った訳です。