東丹沢一帯の森林鉄道で、戦後かなり遅い時期まで活躍が見られた路線は、別項でご紹介した「塩水川・本谷」両線だけではありませんでした。
塩水川線の起点、塩水橋中継土場から少し下流に下った辺り、唐沢製品事務所を起点として、唐沢川、物見峠方面へ延びていた「唐沢川線」が存在していました。
昭和14年に唐沢製品事務所から黒岩分岐所まで建設されたこの線は、昭和44年9月一杯で軌道による運材を中止し、トラック輸送に切り替わります。
従って私は唐沢川線が実働している姿を目にしていないのですが、幸いにも私の師匠筋に当る、岩美銀山氏所蔵の写真を拝借出来ましたので、ここにその姿の一端なりとご紹介出来る次第となった訳です。
以下の写真は、昭和42年頃、岩美氏撮影になるものと、平成11年に私が現地調査をして来た折の写真との二部構成になっております。








fig.1 唐沢製品事務所(地図A)


昭和42年10月23日
唐沢川線の起点である唐沢製品事務所は、道路脇に伸びる細長い敷地に数本の荷卸し線と機回し線、それにDLとモーターカーの庫があり、簡単な検修はここで行っていたと言います。
塩水川沿線ほど山奥に入って行かないせいか、作業員の合宿所はここに併設されていて、大半の作業員は車なりマイクロバスで通勤して来ていたようです。そのせいかは判りませんが同線には客車は存在せず、人員輸送は専らモーターカーか、運材貨車に差し渡した桟敷で行っていたと言う事です。



fig.2 唐沢製品事務所(地図B)


昭和42年10月23日
軌道の終端部はこのように草に埋もれていました。この線路の先はかつて宮ケ瀬を越えて中津の貯木場まで延々と続いていた「中津川本線」の名残りです。




fig.3 唐沢川に沿って(地図C)


昭和42年10月23日
この訪問時、撮影者の岩美氏は、折からの驟雨の中重い機材を背負って黒岩まで歩いたそうです。
見てお分かりのように、一級森林鉄道である唐沢川線は線路がしっかりしています。路盤もキチンと整えられ、橋は一部を除いて鉄橋化されていました。
黒岩以遠の集材支線、作業軌道はこれと異なり、渡るのも脚踏みするような「グラグラの」木橋や桟道が連続し、殆ど路盤と言えるものは無かったと聞きます。



fig.4 黒岩近く(地図D)


昭和42年10月23日
黒岩に近付くにつれ、愈々深山に入り込んだ感が増してきます。良く整備されていたとは言え、やはり雨で滑る枕木やレールには相当閉口したようで、沿線風景の写真は殆ど撮っていないと言う事でした。



fig.5 黒岩の車庫


昭和42年10月23日
幾つかのヘアピンカーブを抜け、伐採現場をやり過ごし、黙々と小一時間も軌道を歩いた末、紅葉に明るく照らし出された小ヤード、黒岩に到着しました。黒岩から先、二級林用軌道の物見沢線・唐沢川線の二本が延びており、訪問の時点では物見沢線のみが使用されていたと言います。




唐沢川線で使用されていたDLは写真のNo.16(酒井)と、僚機のNo.17(酒井)の二両のみで、ほぼ一日おきに運転されていたそうです。この数年前までは唐沢川製品事務所から宮ケ瀬貯木場までレールが繋がっており、宮ケ瀬庫のNo.64(酒井F2)等の大型ボギー機関車が入線していたと言う事でした。



fig.6 朝の連絡(地図E)


昭和42年10月24日
並々ならぬ豪の者で知られる銀山氏。この訪問時にはカメラ機材の他、山道具一式を持参して入山したそうですが、連絡員を残して夜間は無人となる大雨の山中で一人夜を過したそうです。
「淋しく無かったんですか」との問いに、彼は「連絡員が一人残っていたんだよねぇ。人口が多すぎて落着かなかったよ」と、デビィ・クロケットまるパクリの台詞が帰って来ました。
それはさて置き、朝の山の空気は格別でしょう。そんな澄んだ朝の冷気を引き裂くように、朝一番の連絡列車がやって来ました。
普通森林鉄道では列車の運転前に線路に異状がないかどうか確認する為にインスペクションカーを走らせます。通常この列車にはモーターカーが充当されますが、この日はエンジンの不調とかでNo.17が単機で登って来ました。



fig.7 運材列車(地図F)


昭和42年10月24日
下山する際、銀山氏は持ち前の馴れ馴れしさとしつこさを以って、通常は(少なくとも東京営林局管内では)厳禁されている運材貨車へ便乗を果たします。
東丹沢の各森林鉄道で使用されていた運材貨車は、戦後暫くの間は木製の「単台車」でした。木材を満載した貨車の上に一人の作業員が取り付き、ブレーキを効かせながら山を降りて行く重力乗り下げ方式を採用していた為です。
伐採地域が奥地へと広がるにつれて、重力乗り下げでは対処し切れない逆勾配が随所に顕れ始め、昭和30年代初頭の時点で残存していた「早戸川線」「境沢線」「塩水川線」「唐沢川線」等で、二台連結式の「モノコック台車」に切り替えたと言います。安全の為にこれらの鋼製運材貨車にエアブレーキが装備されたのは昭和33年。東京局管内では極く早いと言えましょう。



fig.8


平成11年10月03日
廃止後30年経った黒岩へ出掛けて来ました。
現地へは現在林道物見峠線が通じていますが、年間を通して通行止の為アプローチは徒歩か自転車に限られます。この時は煤ケ谷方に車を止めて徒歩で現場へ向かいました。
現在の黒岩分岐所跡地は森林鉄道を思わせる物は何も無く、ちょっと道巾が広がった土場のように見えます。雨が草葉を打つ音以外は何も聞こえない、静寂の場と化していました。
かつてあったと思われる車庫や詰所跡は土台も含めて完全に姿を消しており、辛うじて燃料庫だけが往時のまま建っていました。



あちこち探し回ってようやく一本のレールを発見。これは恐らく廃止後、何かの柵にでも転用されていたのでしょう。木がレールに食い付いているのがお分かりでしょうか? (地図1)



唐沢川本流に沿った作業軌道は黒岩を出た辺りで崩壊して先を確認出来ませんでした。多少とも跡が辿れる物見沢線は、廃止後線路跡を何かの作業に使用したものらしく、例えばこのような桟道がそのまま残っていました。 (地図2)



これも判りづらいのですが、当時の枕木です。物見沢線の物凄いヘアピンカーブを描く線路跡を暫く登ると、黒岩分岐所が一望の許に出来る場所に出ます。 (地図3)



このような獣道とも登山道ともつかない踏み分け道が、分岐所から500メートル程続いていました。ヘアピンカーブの奥に小さな素掘りのトンネルがあり、どうにか潜り抜けるとその先は路盤ごと崩落していました。 (地図3)

fig.8


平成11年10月03日


旧路盤の一部は林道に転用されていました。 (地図4)



これはほぼ上の写真と同地点、30年前の模様です。


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