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         さて、この悲惨な戦争を通して学んだ事が幾つかある。人間がその柔軟な創造力を失わない限り、
およそ如何なる困窮にも打ち勝つ事が出来るという事がその一つであった。その例は戦時中我が米国民が慣れ
親しんだ大豆を煎った代用コーヒーであり、植物性マーガリンまた然りである。



この気動車だって立派に動く。但し木炭で。鴻岡鉄道で。

     日本人は時として奇妙な事をする。ガソリンが無い無いと言っていながら、木炭で自 動車を走らせ、松脂で飛行機を飛ばし、どうにか石炭から石油を抽出しようとする。これなども 創造力が「精神力」を凌駕した好例である。ベネディクト女史がその著書で述べている重要な事 柄。即ち「日本人は独特の死生観を持っていて、身の恥辱を雪ぐためには死も辞さない」、詰ま り往生際が良すぎると言う特徴があると言う。しかし私が日本に駐在したおよそ19年の間に知り合う機会を得 た殆どの日本人達を見る限り、その観察は全く正しくない。どうやら普通に生きている日本人は、限りなくし ぶとく、ある意味において殊のほか往生際が悪い。

     1947年10月の事であったが、幸島県新郷村にあった陸軍飛行場をどのように活用するか検討するべ しとのオーダーを受けて、件の接収された飛行場に赴いた時である。羽根郡のある場所で、私は実に奇妙な物 件を目撃した。田の中に伸びている土手の上を貨車がひとりでに動いている。不思議に思ってジープを停車さ せ、田の畦を走って築堤上の貨車に近づいた。貨車は牛に引かれていたのである。駅構内の入れ替えに水牛や 馬を使うのは、この当時のアジアの鉄道ではごく普通に見られた事であり別段奇異に思わなかった。しかしそ の場所は明らかに駅構内ではなく「本線上」であり、これは営業列車である事も間違いなかった。判らない事 は聞いてみるものである。牛を引いていた帽子を被った男(これを牛方と呼ぶ)に聞いてみようと、「牛」を 追いかけた。なぜならば走っている機関車を追いかけるのは至難の業であるが、歩いている牛を追いかける事 はそれよりも遥かに容易だからである。

栄光の機関士殿。美しく齢を取った老人であった。

      牛方の親方は米軍の制服を着た私の姿を見ると大いに驚いた様子  であった。もし機関車の不足からやむを得ず牛を使用しているのであれば当  然監督官庁に届けねばならぬであろうし、牛方の慌て様を見る限り、その種  の届けはしていないと判断せざるを得なかった。別に私の身分は「MP」で  はなく、一介の技術将校であるから、ただこの可笑しな光景の説明だけ受け  れば良かったので、牛方に日本語で問い掛けて見る事にした。

      確かにこのみすぼらしい鉄道では、石炭不足のため蒸気機関車の  運転が出来ず、止む無く牛を使い列車を牽引させているとの返事を得た。単  に馬車鉄道であれば我が国の鉄道の祖、ボルチモア&オハイオ鉄道も、その                始まりはボルチモア‐エリコッツミルズ数マイルの貧弱な馬車鉄道から始まっ たのであるから驚くには当たらない。けれども牛が営業列車を牽引する鉄道は初めて見たので、大いに興奮し 驚愕したものである。

     私は牛の脇腹に「茂2」と書かれた木の札がぶら下げられている事に気が着いた。機関車のナンバ ープレートに思えて仕方が無かった。日本語で牛の鳴き声は「MOH」と表現する。そして「茂」と言う漢字は 「モ」と読むケースがある。もしもジョーク部門のオリンピックが4年に一回開かれているとしたら、毎回ド イツ人と共に最下位を独占するに違いない日本人にしては大変によく出来た洒落である。牛方に私の考えを披 瀝すると彼は数分間大笑いしていた。どうも私の考えは間違えていたらしく、笑いすぎて息も絶え絶えになっ た彼の説明によると、沿線の農民「茂平」の提供した2頭目の牛を表す標識だと言うのである。なぜそうする のかを尋ねると牛方は不思議そうな顔をして、「幾らあなたが米国人であっても、牛の顔を一々見分けられま すまい」と言うのである。どうやら牛方の頭の中では、普通のアメリカ市民は皆何百頭もの牛を所有している ものと考えているらしい。

     もう少し牛方と話していたかったが、一つには彼の仕事を余り長く中断させるものでもないのと、 今一つには運転兵の曹長が早く早くと急きたてるので、残念ながらその場を辞したのである。私は楽しい話を 聞かせてくれたこの汚らしく愛すべき運転士にタバコを一箱渡し、彼はそのお礼の積りか知らぬが、非常に汚 い手拭を私に呉れようとするので、慌ててその場を立ち去る決心をさせてくれもしたのである。