瀬島軌道・相撲小町の事



昭和30年の盛夏。私は以前から執筆を企図していた「海軍丙事件」に関する取材を試みるため、事件の舞台となった広島県瀬島を訪れた。
予め主だった方々には手紙で取材の承諾を得たが、戦後10年経っても傷は癒えない方も相当いらっしゃり、その方には直接面談を試みる積もりでもあった。殊に冤罪事件の中心人物であるN元兵曹長には何としても直接お話を伺いたかった事もあり、呉や広島を差し置いてでも真っ先に瀬島を目指したのである。

丁度夕凪時で油のような海面を伝馬船が行く。瀬島は拉げたソラマメのような格好をした島で、北西は一体に懸崖である。主要な港である宿浦は島の南に位置し、広島側から船で行くにはかなりの遠回りを強制される。船上から島を眺めると思ったより緑は少なく、山の天辺まで耕作地と化しているのが判る。赤みが強く光沢のある瀬島のミカンは戦前から縁起物として大阪等で珍重されており、そのせいか耕作地の殆どは果樹園である。漁獲はあるにしても米は本土から運んで来るのはそのせいである。



いよいよ宿浦に到着する。荒いコンクリートの突堤が海面に突き出している。それはそう長いものではなくせいぜい五十メートル位のものであった。突堤の上にはレールが敷いてあり、所々の水溜りに隠れながら陸地の方へと続いている。
少し離れた所に小さなバスが一台止まっているなと思い近づくとさにあらず、バスと思ったのは軌道車であった。大人の背丈程の高さで、12~3人も乗れば満員となろう。運転台は自動車のように片方にしか無く、終点に着くと蒸気機関車のように転車台でぐるりと向きを変える方式のようである。随分色褪せてはいるが水色と黄色に塗られており、中々どうしてモダーンのようだ。


「のうお客さん、済まんけどこのガソリン車は5時の出発じゃけぇ」


変わった軌道車を珍しそうに眺め回していると突然背後から声を掛けられた。振り向くとこの軌道車の車掌なのであろうか、白い長袖ブラウスに紺のズボン姿の若い女性が両手に大きなヤカンを下げて立っていた。


「瀬島の本村に行くんじゃったら、後5分もしたらあそこの雑貨屋の前から乗合バスが出ますけぇ、そっちの方が早う着きます」


最初の内、その女性にかなりの違和感を覚えていたのだが、ようやくその理由が判った。かなり大きい女性であった。背丈ばかりではなく横にもかなり大きく、力も相当ありそうだ。女性の顔を評論する事は大変失礼である事は重々承知しているが、彼女の場合は割合に整っている、美人と評しても良いであろう。


「君はこの軌道車の車掌なんですか」

「はい、ウチはこの仕事もう3年もさせて貰うてます」

「あの、失礼だけど…」

「アハハ、お客さんの仰りたい事、ウチ良う判ります。こげなこんまいガソリン車にウチみたいなんが乗ったらよう動かんじゃろう、そげに思うてましたやろ」

「いや、面目ない。失礼ながら実際そう思ってました」

「気にせんとって下さい。ホンマの事やけんねぇ、アハハ。あ、乗合バス行ってしもうたぁ。お客さん、堪忍」


見ると商家の前から砂塵を上げてバスが発車して行く所であった。取材中の滞在先である本村の農協組合長T氏のお宅には今日中に着けば良い事になっているので、私は軌道車で行く事にし、あと1時間を港で過ごす事にした。
彼女はエンジンのラジエタに水を注ぎ終わるとヤカンを返しに行くと言うので薦められるままに私も同道した。


「この軌道は坂が多いんです。田祖の停留所の先が一番きつうて、ウチよう降りて走って追い駆けるんです。降りんとガソリン車に悪いけぇ。通学の子供がようけ乗っとる時、後押しはウチの仕事です。この軌道には運転士のおっちゃん2人しかおらんけぇ、よう知っとるもんで坂を登った所でウチが追い付くのを待っとってくれるんですよ」

「大変ですね、毎日毎日」

「そげに大変でもないですよ。この軌道は朝1回夕方1回だけしか走りちょらんけぇ、余った時間はあちこちで色んな手伝い仕事して潰しますけん、退屈せんですよ」

「そんなに働くんですか」

「この体やけぇ、人の三倍飯食わんとおえん事になりますけんねぇ、アハハ。人の三倍飯食うて…よっと、人の五倍働かんとね…御恩返しにならんけぇ」


みすぼらしい掘建て小屋だと思っていたのがこの軌道の駅兼事務所だと知って驚いた。どこかにヤカンを置いて来た彼女は、草茫の駅構内に放り出してあったトロッコに何か荷物を投げ込みながら話していた。


「おう、小町」

「あぁ、後藤のおっちゃん、こないだはおおきにありがとう」

「えぇて、お袋の具合どうじゃ」

「お蔭さんでえぇ按配です」

「そうけぇ、今日えぇ鱧が掛かったで食わしてやりい」

「えぇんじゃろか。うわぁごっつい鱧やねぇ」


薄暗い駅舎の入り口から差し込む陽光でシルエットになった村の人が彼女に話し掛けている。


「お客さん、そろそろ出しますけぇ、ここで待っとって下さい」


未舗装のメインストリートと直交するように細い線路が草茫の駅構内から突堤へ続いている。海に面した通りの飯屋らしき店から作業ズボンに鉢巻姿の老人が現れて、彼女と並んで歩いて行く。恐らく運転士なのであろう。
やがて灰色に塗られた大発らしき船が突堤脇の砂浜に乗り上げると、前部閘門がバタンと開いて中学生が十数人降りて来た。彼らのうち数人が突堤に上がり軌道車に乗り込む。見ていると彼女は軌道車には乗らず、バスの車掌のように呼子を吹きながら軌道車の前を歩いて誘導している。薄青い煙をプッと吹いたかと思う間も無く、軌道車は後ろ向きのまま私のいる駅の方へ近付いて来る。草むらの中を頭をフラフラさせながら軌道車は思わぬ方向へ向かって行った。どうやら構内の片隅に転車台があるようで、半端な場所に停車した。彼女は軌道車の後ろに取り付き掌に唾すると、一人で車の向きを変えてしまった。


「お客さん、どうぞー」


言われて我に返った私は、軌道車の狭い車中に入り込む隙間を見付けた。確かに彼女が乗り込むと立錐の余地も無くなる。もっと大勢お客が乗った時、彼女はどうするのであろうか。


「狭いでしょう。こらえて下さいねぇ」

「のう、小町。どこのお客様じゃ」

「まだ聞いとらん。4時の船でおいでになったんや。ウチが話に夢中になってバスに乗れんかったんや」

「おえんなぁ、おっちゃん、そら災難やったのう」


狭い車内は私を除いて皆顔見知りであった。和やかな団欒にも似た車内風景であった。


「僕は取材で東京から来たんです。乗り遅れた御蔭で楽しい思いをさせて貰ってますよ」

「取材って、おっちゃん新聞記者さんじゃろか」

「今は小説家を目指していますけどね、まだまだこれからです」

「わぁ、ごっついのう。小説家の先生が来るなんて、瀬島も偉うなったもんやのう」

「所で『小町』とは?」

「車掌の史子さんの事じゃ。体が横綱やけに『相撲小町』呼ばれとるんじゃ」

「?」

「ウチも最初は腹が立ちたんじゃけど、まぁ半分は褒められとりますけぇ」


確かに大きな体に整った顔立ちで「相撲小町」とは名付けたものだ。


「オイ、小町。そろそろじゃ」

「えぇよ」


宿浦から続いている狭い谷が極まり、家並みが姿を消す頃、運転士から声が掛かった。彼女は軌道車からヒラリと飛び降り、走って後を追い駆けて来る。


「エンジンが駄目になるんじゃ。小町が乗ったまんまではのう」

「何貫目あるんか聞いて見たいもんじゃけ、恐ろしゅうてよう聞かれん」

「コラァ、オサムゥ、ショウイチィ、何ぞ言いよったかぁ」

「わぁ、聞かれたぁ。今日がわしの命日じゃあ」



油照りの夏日が漸く傾き、窓から松林越しに眺める瀬戸内海も次第に暮色を強めて行く。軌道車は等高線に沿うように細かくカーブを切り、標柱一本だけの簡素な停留場に停まる毎に乗客の数は減って行く。


「お客さん、取材言うて何の取材ですの」

「僕の親族も関係していたんですけど、『海軍丙事件』について調べたいと思いまして」


するとそれまで賑やかだった車内は水を打ったように静まり返った。小町だけが取り繕うように話を継ぐ。


「まぁ、こげなこんまい島ですけ、何日も居たらまたお目に掛かるかも知れませんねぇ」


言うべきでは無かった、と後悔しても遅かった。この島では「丙事件」の事はどんな世代にとっても禁句なのだと思い知った。
夕日に照らされた終点の瀬島本村の駅で軌道車を降りた時、小町はそっと耳打ちして来た。


「ウチもこの島では余所モンやけんど、『丙事件』には触れん方がえぇと思いますよ。何人も無実の人が死んだいうて聞いとりますけん」

「実は僕の親族もその一人なんです。戦後厚生省から弔意金が出ましたが、そうであっても沈黙してしまっては事件は闇に葬られてしまいます。その闇を暴くのが僕の小説家としての第一歩だと思っているんです。ご忠告に感謝します。出来る限り慎重に進めましょう」

「…そげならウチはなぁも言いませんけぇ。成功をお祈りします」


彼女と別れてそのままT氏のお宅に直行した。翌日からの取材は難航を極め、何度も挫折しそうになった。手紙では執筆に賛意を示してくれたG元大尉に会いに行くと前言を翻して「売名行為」「人心を顧ない奴」等と言われ、取材拒否を喰らった事があった。すっかり意気消沈して軌道端を歩いていると、野菜をリヤカーに積み込む手伝いをしていた小町に出会った。


「センセ、どうですかいの調子は?」


正直言ってこの時は旗を巻いて東京に帰ろうと半ば思っていた矢先であった。


「どうもさっぱりでね」

「センセも三倍飯を食うべき時と違いますかいの。ウチ、目的も無く闇雲に頑張るのは無駄や思いますけど、やらないけん事が見えていて頑張るのは人の務め違いますか。何や偉そう言うて…」

「情けないけど、もうそろそろ潮時かと思えて来たよ」

「ウチはこの島では厄介者ですけぇ、ほなけぇ人の五倍働かんといかんのです。お母ちゃんをお医者に診せるのにお金も要ります。こないだ世話人のおっちゃんから、大阪の女相撲に入らんか言われました。アハハ、似合いますやろ。手っ取り早く稼ぐにはそれが一番や思いますけど、それやったらお母ちゃんの面倒を見るモンが居らんようになりますやろ。御恩返しも出来んようになりますけぇ、丁重にお断りしましたんや」

「君は元々どこの出身なの」

「ウチは20年まで広島の己斐に住んでました」

「あ…」

「…センセにだけ見せてあげる」


彼女は仕事の手を止めてブラウスの袖を捲くった。この時私は、何故彼女が暑い盛りに長袖を着ていたのかを理解した。


「もう、酷いもんやねぇ。ピカが光った時、ウチは丁度顔を洗ってたけぇ顔は無事やったんですけど、半袖けぇ出とった腕がこうなって」


酷いケロイドだった。戦後10年を重ねても癒えない傷は癒えない。


「お父ちゃんは行方不明。お母ちゃんは失明して親戚のおった瀬島に身を寄せたんが21年でしたけに。ほいではずっと働き通しですけぇ」

「そんな苦労をして…」

「アハハ、センセ、苦労と違いますよ。これは生かして貰うちょるほんの御恩返しですけぇ、苦労と違います。御恩返しが済んだらその時初めて休む事が出来るんや、天国のお父ちゃんにまた遭えるんや。ウチはそう思うてます。早う御恩返しを済ませたいばっかりに、何かと生き急いで仕事ばっかりしてるんです。ほなけぇセンセもしっかりせんとね。ほら涙拭かんと」

「…君には本当に助けられた。感謝します。感謝します。感謝します。実績はちゃんと残して見せます」


その後の取材の模様は拙著「海軍丙事件取材ノート(河勝書店『海軍丙事件』)」を参照頂きたい。唯ここでは一人の女性に勇気を授けて貰った御蔭で今日の私があると言う事を知って頂きたいのである。

愈々離島の折、小町は突堤の先端に立って私を見送ってくれた。私も彼女が見えなくなるまで手を振り続けた。 その後「海軍丙事件」発刊の御礼を述べに再度瀬島に渡ったのは昭和33年の秋であった。五日間を掛けて取材に応じて頂けた方、応じては頂けなかった方全てに挨拶をし、幾度も礼を述べた。
その一方で私は、大恩人である相撲小町を探し求めていたが、一向にその姿を見掛けなかった。軌道も何時の間にか閉鎖されてしまったようで軌道車は錆の山となり、軌道は唯の草道と化していた。
思い余った私は農協組合長T氏に彼女の行方を尋ねて見た。


「史子さんのう。あぁ、先生が東京に帰られて暫くして、お袋さんが亡うなったんじゃ。ほいでの、世話しようる人がおったんで福山の呉服屋に嫁し付いたんじゃ。あれだけ苦労した娘やけぇ、応分の幸せを授けえん事にゃ神も仏もありゃせん。これは今年来た年賀状やけんど先生の事も書いてあるんじゃ、ほら『先生が見得たら宜しくお伝え下さります様』」


そしてその後、彼女とその家族との賀状交換は40年以上経った今でも継続している。勿論彼女は未だに休んでなどいない。