遠海諸島解説集・バスガイドの仕事









「ユーリゾートホテル・サウスビーチよりご乗しゃ…失礼しました、ホテル・ユーリゾート・サウスビーチよりご乗車の皆様、おはようございます。

本日は私共、遠海自動車定期観光バス、ショートプラン幅曳島Aコースにご参加いただきましてありがとうございます。

このコースは、えと、サウスビーチ地区のリゾートホテルを出発し、遠海三山の主峰「遠海羽黒山」遥拝所の一つ、最初院を参拝し、荒々しい断崖絶壁の連なる東海岸の景観を、失礼しました、東海岸の絶景をお楽しみ頂いた後、和井花ポリネシアセンター…ポリネシア文化センターでショーを見ながらのご昼食、そして高館市内を観光して頂き、新遠海空港へ皆様をお送りする約4時間のコースです。…約5時間のコースです。

あ、はい。…本日皆様のお供を致します、運転手は一条、そして拙いご案内ではございますが、どうぞよろしくお願い致します…そして…失礼しました、ご案内を務めますバスガイドは、入社半年。まだまだ不慣れですがよろしくお願い致します。…失礼しました、バスガイドは私、富淑子が勤めさせて頂きます。申し訳しゃべりません。

はい、車はサウスビーチを離れ、南の内海、真華(マナハ)湾に沿って進めております。

皆様は遠海諸島は初めてですか? あ、お休みの方もいらっしゃるようですね。あ、初めてですか。あ、そうですか。東京からいらしたんですか? あ、そうですか。東京のお天気はどうでしたか? そうですか。はい。遠海島は地図で見ますと、遠海島は羽根を広げた蝶のようだと例えられます。この…地図を…よっ、あ、ありがとうございます。手伝って頂いて、ありがとうございます。慣れないモノで。はい、地図をご覧頂くとお判りかと思うんですが、左側の羽根は「遠海島」、右側の羽根は「幅曳島」と称されております。元々は二つの島だったのですが、火山噴火と海水の浸食で二つの島が繋がって、このような姿になったと言われております。

この真ん中の繋がった所を「船越地峡」と申しまして、遠海島の主要都市、高館市や岩手県の遠海支庁舎、そして鉄鉱石の積み出し港である望月浜港等があり、島の中枢となっております。船越地峡の真華湾側には船越港があります。こちら側は深くて波も穏やかな為に漁業基地となっております。かつては軍港でもあり、戦後はアメリカの軍艦も立ち寄る事がございます。

さあ、間もなく船越の町に入る手前を右に折れて参ります。国道59号線高館バイパスへと進めて参ります。広い道路ですね。両側には蘇鉄や椰子が植わっています。この道路は遠海島観光開発事業の一環として、去る昭和56年に一部が開通しております。それ以前の遠海島にはこんな道路はありませんでした。あっても米軍専用道路で、一般の車は立ち入れませんでした。道路は狭く曲がりくねって、いみじく不便でした。つい最近まで自動車の運転免許を取ったり更新したりする時は、船で3日掛けて本土へ渡り、盛岡か胆沢の試験場まで行かなければなりませんでした。だから以前は遠海島では自動車は殆ど走っていなかったのです。昭和53年にようやく運転試験場が高館近郊の七織(ナナオヘ)に出来まして、ようやく当地にも自動車時代が訪れたと言う訳です。

この遠海諸島の面積は、離島も合せておよそ2100平方キロ。東京23区よりやや小さい面積です。そこに現在は10万人の人が住んでおります。かつて鉄鉱石の採掘が盛んだった時代には、失礼しました、盛んだった昭和30年代までは、その3倍余りの33万人が暮らしていました。昭和52年に新日鉄が撤退し、それ以後も太平洋製鋼が採掘は続けていますが、安いオーストラリア産の鉄鉱石に押されて…え、あ、はい。運転手さん、冷房を入れて下さいだそうです、今入れますね、はい。え、皆様、左手にはその高館の町並みが見えております。観光開発が始まる前は高館市がただ一つの町で、ちょっと買い物をしようと思いましたら高館までバスか国鉄で出掛けなければなりませんでした。あ、話が飛んで申し訳しゃべりません。左手の丘が段々と切れて来まして、北の入江の向こうに遠海三山が見えて参りました。

遠海三山はいずれも旧火山で、一番南、手前のお山が「普門院山(ふもんいんざん)」と申しまして、標高1412m。この山は全体が太平洋製鋼の持ち物になっておりまして、鉄鉱石の露天掘りを行っております。真ん中の拳骨のような形をしたお山は、遠海三山の主峰「遠海羽黒山」でございます。標高1670mありまして、頂上には羽黒権現を祀った祠があるそうです。修験道の霊山となっている為に、今でも女性は登る事を許されておりません。ですから中腹に遥拝所を設けているのでございます。一番奥、北側にある指を立てたような険しいお山は「観音山(カエナさん)」と申しまして標高1393m。頂上に高さ18mの大岩があり、麓から眺めると観音様が降臨したように見える所からこの名がございます。

この遠海三山の東側、太平洋に面した側は、直下500mから800mの断崖絶壁で、自動車が通れる道などはありません。戦時中はこの断崖を「太平洋の盾」と称して、望楼や砲台が置かれていたそうですが、現在でもアメリカ軍や自衛隊によって「OTH3Dレーダー」と言う物々しい施設が置かれているそうでございます。

ええと、ここからご覧頂けますか? 手前の山の中腹に幾つもの小さいクレーターのような物が幾つか見えます。あちらが露天掘りの現場でございます。鉄鉱石はあちらから貨車に積み込んで、丁度、そうですね、左手、高館の町並みの向こう側に灰色の高い塔が見えますでしょうか。あちらが望月浜の鉱石積み込み所と申しまして、貨車から貨物船に載せ替える為の施設でございます。

遠海諸島と申しますと、鉄鉱石の話は必ず出て参ります。かつて奥州平泉を追われた藤原氏が大船で渡海し、この島に辿り着いた時、赤く光る山を見て砂鉄の存在を知り、その後刀鍛冶たちが幾世代も鍛えに鍛えた刀が「島打物」と称されまして、銘刀の代名詞とまで謂われるようになったのでございます。

昨日皆様がお泊りになったサウスビーチ地区は、砂浜は何色でしたか? あ、殆どの方が眠ってらっしゃいますね。あ、起きている方もいるみたいですね。何色…え? 白。そうです、真華湾の砂浜は白いですね。所が北の入江、あの、左手奥に綺麗なコバルトブルーに光る海が見えると思いますが、あちらが「伽羅(カイワエラ)湾」と申しますが、あちらの砂浜はピンク色をしております。サーモンビーチって名前を聞いた事はございませんか? 先週テレビで取り上げられていましたのでご覧になった方もいらっしゃるかと思いますが、あの色は白い砂に砂鉄が混じって出来た色なんだそうでございます。あの…ピンク色の砂浜…あっ、申し訳しゃべりません。ちょっと、考え事をしておりまして。

車は狭い町を通り過ぎています。ここは和井花(ワイハナ)でございます。ここには大きな国鉄の駅があります。普門院山鉱区や、花砺(ハナレイ)鉱区、更に山越えした太平洋側の花輪、幅曳鉱区で採掘された鉄鉱石は一旦ここに集められ、望月浜港へと向かうのでございます。その為広い操車場と機関車の車庫があり、小さな町に似合わない大きな駅を持っているのでございます。

あっと言う間に町を抜けました。左手には先程お話した伽羅湾がご覧頂けます。どうでしょうか? 砂浜はピンク色に見えますでしょうか? 恋人同士が語らう浜辺、等と宣伝されておりますが、ええ…あ、ええ。東京、あっすみません。右手をご覧ください。視界に覆い被さるような大きな山体。遠海三山の絶景でございます。

藤原渡海の折、島に漂着した泰衡公は、皆の生活の安定を待って、この地に平泉を再現しようと計画しました。その第一番目がこれから参ります「最初寺(さいじょうじ)」でございます。最初寺は中尊寺の元々の名前でございました。しかし当地では鉄は採れても金は採れませんでした。従って本土の中尊寺のような金色の伽藍はありません。ご本尊も「鉄阿弥陀様」と申しまして、どことなく質素な趣を示しているのでございます。車は「茂阿仁(モアナイリ)」へ向かう改正道路から右へ折れまして、最初寺への登り坂に掛かって参ります。

この最初寺は、明治以前の神仏習合の面影を残しており、海神神社と境内を共有しております。海神神社は別名九郎神社と称し、祭神は伊佐須美命の他、藤原渡海の最中、船上で命を落とした源九郎判官義経公も合祀されております。遠海諸島に住む人の殆どは、この海神神社の氏子でございまして、正月、お彼岸、お盆、そして最大の祭りであります11月3日の「船寄祭」には、殆ど全ての島民がここにやって参ります。今走っているこの道路も、先程の農協の辺りから通行止めになりまして、皆歩いて参詣に訪れます。御当代の島主様は海神神社の氏子総代を務めており、そうした催し物の時には必ずお見えになります。

それでは最初寺、駐車場到着でございます。貴重品はお持ちになってお降り下さい。私が先導致しまーす。


はい、皆様ご乗車頂けたでしょうか? まだ眠いですか? では発車しまーす。

はいでは、先程登って来た道を降りて参ります。皆様、あ、もう全員お休みですか? お疲れになったんでしょうね。それではここで、子守唄代わりに、島の伝説を一つご紹介致しましょう。

『昔、むかし。遠海の島にイリオニと言う若者がおりました。イリオニは勇敢で狩りが巧く、またいみじく美しかったので、部族の娘たちはこぞって彼と結婚したいと願っておりました。
イリオニの住む村に、6歳年下のルウルウと言う娘がおりました。彼女はイリオニになつき、イリオニもルウルウを妹のように可愛がっておりました。
ある日ルウルウは、カイワエラの浜辺で、イリオニへの想いで苦しい胸の内をイリオニに打ち明けました。優しいイリオニはルウルウからの恋の告白を聞いて困ってしまいました。』

皆さん…お休みですかあ?

『…イリオニは大変心の優しい青年でしたので、何とかルウルウの想いに応えてやりたいと願うのですが、そうしてやる事が出来ませんでした。
なぜならイリオニは、太平洋製鋼の東京支社へ転勤が決まっていたからです。この厳しい経済状況の中、イリオニはルウルウにこれ以上の苦労を掛けさせたくないと望んだのです。
イリオニはこう言いました。「いずれ東京に着いたら手紙を送るから」。それはルウルウの望んだ答ではありませんでした。ルウルウは「一緒についておいで」と言われたら、何もかも捨ててイリオニと一緒に苦労したいと心から望んでいたのに、イリオニはそうは言いませんでした。桃色のカイワエラの浜がルウルウの熱い涙で濡れました。
イリオニと別れたルウルウは、その後も東京から来た旅人に会うと、必ず東京の事を聴きたがりました』…ぎゃあっ、拍手は、拍手は止めて下さい止めて下さい皆さん。起きてらっしゃったんですかびっくりしたあ。

あの、本当にお聞き苦しいお話を、あのあれで、へあへあへあ…どうか、あの平に平に、え? イリオニですか? あの、手紙だけはくれました、はい。…あ、はい。いえ、イリオニは民話の人で、名前はもちろん違います。はい、近所のお兄さんなんです。いや、こんな瞳のつぶらな不細工ちゃんですけど、付き合ってくれていたんですよ。いみじく有難い事だったんですが、どうなんだろうなあ、捨てられたのかなあ。

はい、はい…ありがとうございます。本当ですよね。待つしかないですよね。えでも、本当に必要だと思ってくれてるでしょうか? あ、そうなんですか、お母さんの、ご主人、単身赴任だったんですか…はあ、行ったらゴミだらけ。…はい、アドバイスありがとうございます。待ちます。すみません、ちょっと…皆さんどうも申し訳しゃべりません。仕事中に愚痴を言うなんてサイテーです。いえいえ、そんな事は…。はい? あ、今運転手さんが「愚か者は幸せが近くにある」と格言を言っています。どうもすみません、愚か者です。え? 皆さん笑ってらっしゃる…え? 鏡? あっマスカラが流れて顔が狸になってるじゃないですか! …どうも、泣いたり笑ったり忙しいですね、このバスガイドは。ちょっと、あの、失礼して…

…失礼しました。ただ今車は、先程の和井花を通過致しまして、「真居(マナウイリ)峠」越えの難所に差し掛かっております。

谷が次第に狭まって来ました。左右の森をご覧ください。椰子や枇榔が混在していますので熱帯らしく見えますが、この辺りの緯度は北緯34度30分。伊豆大島と殆ど変らないんですね。この一帯に限らず幅曳島には熱帯性植物が多く自生していますが、これは地熱や海流の関係ではないかと考えられております。これが遠海島側へ参りますと、意外な位本土と変わらない植生なんですね。私の実家は遠海島西端の「祝祢(ハフリエ)」なんですが、ちょっと竹藪が多い位で、テレビ等で見る本土の山林とそれ程変わらないんです。

農家が二三軒固まっていますね。左手一番奥の農家をご覧ください。もう今では珍しくなった藁ぶきの屋根です。皆さんの所でも、もう珍しいでしょう? え、見た事がない。あは、そうですか。お父さんの方ではどうです…あ、ご実家が、今でも。そうですか。遠海島の民家は屋根も壁も全部藁で造られておりました。そして床がかなり高いんです。庭からオザへ上る、あ、詰まり座敷へ上るには、高い木の階段を3段も5段も登らなくてはいけないんですね。これは蒸し暑さを凌ぐ為だそうです。遠海諸島には台風と言った物は殆ど来ません。たまに荒れる日はありますが、それよりも5月から11月までの雨季をどのように快適に過ごすかに重点が置かれたため、壁は藁。窓や戸は板を立て掛けただけ、と言う独特の形をしていたのでございます。ええ、私の実家も、10年位前まではそうでした。屋根と壁の葺き替えの時は村中総出でした。今は普通の建築になりましたが、それでも遠海島独自の特徴がございます。屋根の真ん中が凹んでいるんです。島の事ですから水は貴重で、雨水を貯めておく地下タンクは、今ではどこの家庭でも備えております。これは昔の天水桶の代りで、お風呂の水や洗い水に使うようになっております。

葛篭折れの坂道を登り切りまして、はい、真居峠でございます。今日は素晴らしく晴れておりますので太平洋が見事に。どうぞお写真を撮る方は今の内に。

島の中央部から幅曳の外輪山を越える自動車道路は、今の所ここだけでございます。先ほどご覧頂きました国鉄遠海線は、ここから少し北の「花輪(ハナウア)峠」を越えておりますが、並行する道路はありません。さっき通って参りました和井花の先に、「馬志遭(マヒアワ)」「和井蹴(ワイケレ)」「間名垣内(マウナカイト)」と言う小集落があり、それらの村には自動車の走れる道が繋がっておりません。人も荷物も郵便も、国鉄が頼りなんですね。島唯一の国鉄である遠海線は昭和65年度に廃止される予定になっています。そうなると沿線に住む人の移動は困難になりかねません。私共遠海自動車も、え、まあ商売敵ではありますがね、この国鉄線廃止反対に向けて様々な活動を行っております。今回のコースでは、遠海花輪駅から終点の一つ手前、筌麗駅まで、僅かな間ですが体験乗車をして頂きます。その途中、太平洋岸の断崖絶壁をお楽しみ頂くと言う趣向になっておりますので、皆様お楽しみに、してて下さいね。はい? いえいえまさか。今前の方のお母様から、鉄鉱石の貨車に乗るの? と聞かれましたが大丈夫です。ちゃんとした旅客車に乗りますよ。

さて、車は峠を降り切りまして、花輪郵便局のT字路を左へ折れて参ります。ちなみにこのT字路の信号機は、高館市を除くと唯一の信号機でございます。何時来ても点滅でございます。さあ、駅に着きました。これから列車に乗りますので、現金貴重品は必ず身に付けてお降りください。この後バスは筌麗駅に回送となります。では私の後に付いて来てください。


はい、座席は自由です。右手の座席の方が眺めが良いですよ。ええ、1両編成ですね。このコースのお客様の他は殆ど乗っていらっしゃらないですね、朝夕の通学時間帯だけは割に混雑します。それでも立つ人は殆どいません。私は修学旅行で東京へ行きましたが、原宿から上野へ電車を使った時に、電車が10両も繋がっているのを見て魂消た事があります。遠海で暮らしていると、列車は1両、多くて2両だとばっかり思ってましたから。どうしてこんなに乗る人がいるのーって思いましたよ、キディランドの袋抱えて。

発車です。駅を出るとすぐに短いトンネルを抜けますが、抜けたら右手をご覧ください。はい、出ます。おおー、皆さん声が上がりましたね。右は太平洋。高い断崖の中腹をコの字型に掘り抜いて、辛うじて鉄道を通しております。所々シェッドと申しまして、落石避けの為にコンクリート製の蓋がしてある個所があります。コの字型に崖を切り抜いているのもそうなんですが、これは落石避けの為です。…まだ断崖は続いていますね。この落石危険地帯は約3キロも続きます。こんな苦労をしてまで何故線路を通したかと申しますと、この線路の終点、幅曳駅の先に大規模な鉄鉱石の採掘場があったからでございます。現在幅曳鉱区は採掘を停止しておりますが、先程ご覧頂いた普門院山鉱区等は今でも採掘を継続しております。その鉄鉱石輸送がある為に遠海線は何とか生き延びて来られたんですが、来年昭和59年度を目途に鉱石輸送用のベルトコンベアーを現在建設中でして、これが完成すると遠海線は存続が出来なくなる訳です。

左手は垂直な断崖。断崖と海に挟まれて小さい駅に着きます。「忍櫓々(オシレレ)駅」でございます。皆さん、不思議に思いませんか? こんな断崖の途中に駅があって、乗り降りする人がいるんだろうか。いるんです。この断崖の直下に忍櫓々と言う、戸数4戸の集落がありまして、駅からは梯子のような階段が伸びております。雨風の強い日には階段は危険なので、待合室に布団と飲み水が常備されているんです。あ、テレビでやってましたか? 「なりほど・ザ・ワールド」で。ああ、そうでしたか。ええ、そうですそうです。天気が回復するまでそこで寝泊り出来るようになっているんですね。尤も最近では、天候が悪化すると列車自体が運休になるので、先月から布団と水を撤去したんだそうですよ。

発車です。この忍櫓々駅では発車の合図の汽笛を長く鳴らす決まりになっています。それは線路敷きを歩く人がいるからなんですね。今バスが回送されています県道は、線路よりかなり高い所を走っています。線路敷きを歩いて釣りポイントへ向かう人が後を絶たないので、何時の間にかそのような習慣が出来たのだそうでございます。この先列車は短いトンネルで「大端(オパナ)岬」を通過します。その前後、左右の車窓にご注目下さい。ああー…ため息が漏れましたね。左右は垂直な切り通し。そこに長い年月を掛けて湧水で成長した無数のシダ。これが遠海線名所、シダのトンネルでございます。この崖からは雨が降っても降らなくても、大量の湧水があります。あ、トンネルに入りましたね。はい、出たら再び左右をご覧ください。どうですか皆さん。また乗りたいと思われませんか? こんな素敵な鉄道旅行は、多分本土では出来ないかと思いますよ。

ええ、列車はボロボロですけどね。バスと同じく軽油を焚いて走るディーゼルカーと申します。本土のお古ですね。これでも新しくなったんですよ。私が子供の頃は蒸気機関車でしたが、長い長い鉱石貨車の一番後ろに茶色の客車が1両だけ繋がっていまして、改札の前で列車を待っていましたら乗る車は遥か後ろじゃないですか。慌てたなんて事はしょっちゅうでした。

はい、皆様、間もなく列車は、日本最東端の駅、「筌麗(ウケレウエ)」に到着致します。東経159度33分21秒、東京からの距離は直線で1150㎞。文句なく日本最東端の駅でございます。お忘れ物のないようにお降りください。ホームが低いので、特にヒールを履いた方はお気をつけ下さいね。はい、写真を撮る方はどうぞ。お手洗いは左手のブロックの小屋です。はい、どうそ、写真撮りますよー。笑ってー。はいっ。さあ、ご準備のよろしい方からバスにご乗車下さい。ええ、駅の他には何もありません。人は住んでいます。あの岩山の向こう側に小さい集落があります。

発車します。お疲れ様でした。如何でしたか、遠海線は? ねえ、素晴らしい景色でしたよねえ。私は船越の商業高校に通っていましたが、3年間毎日、祝祢から1時間余りも乗っていたんですが、本当に本数が少ないんですよ。朝6時50分に乗れないと、次は7時45分だったり。昼間は2時間に1本しかありません。来ても1両だけと言う寂しさですね。バスもありましたが、定期代が高かったし、良く遅れたので使いませんでした、え、運転手さんが何か…え? 大きなお世話だ、ですか。はい、今日の一条ドライバーは我が社の運転部長をしている人なので、滅多な事を言うと怒られますのでもう言いません。あの、前でマイクを握っていますと、たまーにボソッと何か言うんですよ。もう緊張して言いたい事の半分も言えません。

先程は列車の窓から太平洋をご覧頂きましたが、今度は一段高い県道からの眺めでございます。紺碧の海ですね。この遠海島は、太平洋の海底から隆起する「天皇海山」からの噴火によって出来た島でございまして、有史以前は巨大なカルデラであったと言う調査結果も出ております。長年の浸食と隆起によって現在のような形になったのは、今からおよそ1万年前と考えられております。

人が定住するようになったのは今から2千年前、ポリネシア系の人々が移住したのが始まりと言われております。この遠海島の地名をお聞きになって、何か違和感を感じた方もいらっしゃると思います。漢字と読み方が合っていないケースが多いんですね。例えば手紙を送る時に、「岩手県遠海郡遠海花輪町泰煎」等と書いても、読み方は「いわてけんとおみぐんとおみハナウアまちハナウイリ」と読むんです。これはポリネシア語、或いはミクロネシア語に由来する原住民の地名を、藤原渡海の後、日本人によって漢字を充て嵌められて現在に至っている訳です。当然読みにくいですね。

皆さん、ちょっとこれを…お、フリップが、出て来ない、はい、これはどう読むでしょうか? 「泰芦」と書いてありますが…え? 「たいあし」。違います。はい、中ほどのお嬢さん、「たいろ」? 残念でした。読めないですよね、これは「ツツイレ」と読むんです。皆さん一斉に、ええーっ。先ほどの忍魯々にしても、あれを「オシレレ」とは普通読まないですよね。ではこれは? 「浜大宮」。はい、前のお母さん。「はまおおみや」そうですね、普通にそう読めますが、違うんです。後ろの方、はい? 「はまだいぐう」。違いました、残念。「浜大宮」と書いてこれは「ハネフエレ」、ちょっと、本当ですよ。適当に言ってるんではありません。現地人が言うんですから一番間違いありません。ふふふ、読めませんよねえ。どうしてこうなったでんしょうか。

遠海島には、島主藤原家の他に、3人の恩人がいると言われております。その筆頭が、藤原渡海の折、疲れ果てた藤原泰衡一行に同情して家と食料を与え、船中で亡くなった源義経の為に立派な南洋風の祭壇まで作ってくれた、心優しい大王、パマハイ。浜大宮には彼を祀った神社がございます。「ハネフエレ」とは先住民の言葉で「偉大な王の墓所」と言う意味です。パマハイ大王が作った義経の祭壇は祝祢にあるんですが、これはガイドブックには「義経塚」と書いてあると思いますが、現地の、特にお年寄りは今でも先住民風に「ハネフエラ・パガン」、詰まり「判官の墓所」と申します。

では何故、パマハイの神社を建立し、原住民の地名を尊重したのか、お話しをさせて頂きます。藤原泰衡公が病に倒れた後、本来なら嗣子、頼家が一族の頭領になる筈だったのですが、邪な考えを持った泰衡の甥、邦衡によって頼家は離れ小島の「イフラニ島」へ幽閉されてしまいます。程なく泰衡公も亡くなったのですが、これも邦衡によって殺害されたと噂されました。その後、邦衡は宴会にやって来たパマハイ大王を闇討ちにして、島を乗っ取ってしまいました。先住民と藤原氏の抗争は15年余りも続き、幽閉されていた頼家に忠誠を誓う家臣達は、頼家の元服を待って密かに「イフラニ島」から脱出させました。そして遠海島に隠れ住み、苦労と言う苦労をし、やがて機会が訪れた事を知ると同志を募って海神神社に祈願をしました。父の敵、恩人パマハイ大王の敵を討って本懐を遂げたいと。邦衡は高館の館で寝ている所を襲われ、頼家によって首を落されました。見事本懐を遂げ、藤原家頭領となった頼家は名を「依衡」と改めます。彼が最初に行ったのは、騙し討ちにされた大王パマハイの怒りを鎮める為、彼の館のあった浜大宮にパマハイを祀る神社を建立する事でした。この事で先住民は再び藤原家を信頼するようになり、島に平和が戻ったのです。

さて、車は再び峠道に差し掛かりました。左手の丘をご覧ください。丘を埋め尽くす色とりどりの花がご覧頂けるでしょうか? 今日のコースでは立ち寄りませんが、「遠海ボタニカルガーデン」と申します。植物園ですね。遠海諸島原産の熱帯植物を始め、内外の珍しい花や草木を一望出来ます。園内は広いんですが、電気カートを無料で貸してくれますので足は痛くなりません。次回お越しの際は是非お立ち寄りください。あの、個人的には遠海ブーゲンビリアのアイスクリームがおススメですよ。ええ、私なら二つは行けます。はい、痩せます。申し訳しゃべりません。

遠海諸島の恩人は3人いると先程申しました。2番目は誰でしょうか? 誰だと思います? 前のお父さん…え? 中曽根康弘。違いました。2番目の恩人は意外にも織田信長公なんでございます。

遠海の役が収まって島に平和が戻ると、その後300年余りの間、日本と遠海の交流は絶たれました。その後16世紀に入ると、西洋では「大航海時代」を迎えます。スペインやポルトガル、オランダ、イギリス等が帆船を出して、未知の領土を見付けると勝手に領有を宣言するんですね、そうするだけでその土地はその国のものになってしまうんです。何とも乱暴な時代ですね。遠海島が西洋の船に初めて発見されたのは1577年、天正5年の事で、スペインの「サンサルバドル号」によってでした。たまたまその船には、イエズス会の宣教師ルイス・デ・アルメイダが乗っていました。日本を良く知る彼は、この島の風俗が日本に良く似ている事を訝しみ、日本との摩擦を避ける為、京都で織田信長に面会してこう尋ねたそうです。「遠海島は日本の島ですか?」すると信長公は「もちろん、日の本の護りの内じゃ」と即座に答えたので、スペインはそれ以上遠海島に手が出せなくなったそうでございます。もっともアルメイダが退出した後、信長公は側近に「して、遠海島とはどこにある島じゃ?」と聞いたそうです。この故事から織田信長公が遠海島の第2の恩人と称される訳です。

では何故、当時の強国であるスペインは、信長の一言であっさり引いたのでしょうか? 当時スペインは中南米の帝国を滅亡させ人々を奴隷にしてまで金銀を欲しがりました。その中南米で産出される銀よりも遥かに大量の銀を、日本は貿易で支払っていたのです。日本は銀の一大産地だったんですね。所が日本を植民地にしたくても出来なかった。それは当時の日本の社会が強固で、付け入る隙がどこにも無かったからだそうです。なのでせめて貿易で銀を得たい。それには日本を怒らせてはいけないと言う暗黙の了解があって、信長公の一言で領有を諦めたのでございます。

この後、信長公は遠海島の調査船団を作って送り出そうとしていた矢先の1582年、天正10年に起きた本能寺の変で帰らぬ人となりました。その後を継いだのが、天下人、豊臣秀吉でございます。彼も、太平洋の遥か沖合にあると言われる島に興味を持ち、1586年、天正14年に関白となった後、羅針盤と大砲を備えた西洋式帆船「八幡丸」を遠海島調査の為に派遣しました。調査団は、島主として住民を治める藤原氏が、頼朝によって滅ぼされた奥州藤原氏である事を知ると大いに驚き、急いで報告の為に日本へ帰ったのです。所が八幡丸が大坂に戻った1598年、慶長3年には既に発令者である秀吉はこの世に無く、調査団は仕方なしに五大老筆頭、徳川家康に事の次第を報告したのでございます。

関ヶ原の合戦後の1602年、慶長7年には、奥州を守護する伊達家に命じて遠海奉行を兼務させましたが、慶長18年、1613年に支倉常長を団長とする所謂「慶長遣欧使節」が出発した事が、伊達家による徳川幕府討幕の疑いを呼び込んで幕府内で問題となり、常長帰国の元和6年、1620年には遠海奉行は老中直属の機関となったのでございます。そして実際に人を出して島の監督に当たる「島代官」は、地元の仙台藩、後に南部藩、更にその支藩の陸中山田藩が受け持ったのでございます。

その後、江戸時代を通じて代わる代わる島代官が赴任して参りましたが、大体は本土の都合を一方的に押し付ける人が多く、代々の島主様は島代官の無茶な要望から島の人を命がけで護って下さったのです。だからその後幾ら時代が変わっても、遠海島の人々は島主・藤原家を心から敬っているのでございます。

さあ、車は間もなく、皆様のお食事場所、遠海ポリネシア文化センターに到着となります。あの、建物の入り口に、先程申しました、パマハイ大王と泰衡公の銅像がございます。そちらで一旦集合写真を撮らせて頂きます。その後にお食事場所へご案内致します。はい、到着でーす。


皆様お乗りになりましたか? お隣の方は乗っていらっしゃいますか? まだ乗っていない方は手を挙げて下さい。いないですね。はい、発車します。

車は、遠海ポリネシア文化センターを後にしまして、高館市内にあります、藤原家本家の名園、望洋園へと進めて参ります。あ、ちょっと右手をご覧ください。土手の上を鉄鉱石貨物列車が走っていますね。あ、手を振って、機関士の方、手を振ってますよ。手を振りかえして見ましょう。あ、ハンカチを振ってますね。機関士の方って思ったほど忙しくはないようですね。先程乗って頂いた1両車に比べて、貨物列車は長いですね。数えてますか? え、23両。そうですね、遠海線の一番のお客は鉄鉱石で、乗客は二の次なんですね。これは本当です。

大正9年に遠海鉄鉱山会社が鉱石輸送の為に敷いたのが最初で、戦争中の昭和18年に国に買収され、以来日本最東端の国鉄線となっております。先程乗って頂いた筌麗の一つ先、幅曳から、今朝通って参りました船越まで、66㎞の遠海線。高館から分岐して祝祢まで41kmの真華線。その他に鉱石輸送専用の鉄道が、和井花から分岐しております。真華線は、アメリカの空襲が激しさを増した昭和19年、鉄鉱石の積出港を望月浜の他に、西の外れの祝祢に建設して、被害を少なくしようと建設された路線でございます。結局祝祢に積出港は建設されないまま終戦となり、今では日に数本の旅客列車が走るだけとなっております。

さて、皆さん、お食事は如何でしたか? 美味しかったですか? あ、味が濃かった。そうかも知れませんね。あの、「イイ」は出ましたか? はい、「ご飯」の「飯」と書いて「イイ」です。おせんべみたいなのが出ましたか。ああそうですか。おせんべは煮物でした? そう、野菜と一緒にのっぺい汁みたいにして食べる事も多いですね。

この「イイ」は、遠海諸島ではいみじくポピュラーな主食でございます。当地特産の傘葉芋を潰して団子にします。それに米粉をまぶしましてね、おせんべみたいに平たくしたり、お団子にしたりして、それを焼いたり蒸したりして頂くんです。料理して3度の主食にもなりますし、焼いた「イイ」をそのままおやつにしたり。万能選手なんですよ「イイ」と言うのは。私が中学生位までは、学校へ持って行くお弁当には、必ず「イイ」が入っていましたし、近所へお使いに行ってもご褒美で頂くのは大抵黒砂糖をまぶした「イイ」なんですね。「イイ」は遠海の人と切っても切れない食材なんです。

「この、粉知らず!」 どうも失礼しました。今私が怒鳴りましたのは、遠海島で一番言ってはいけない、最悪の悪口なんです。もうこれを相手に言うと、良くて絶交。悪くて拳固が飛んで来ます。え…運転手さん、今度は…? 「車庫に帰ったらお前は首だ」ですか? 運転手さん、顔を紫にして怒っています。それ位言ってはいけない言葉なんですね。はい、ご協力ありがとうございました。で、「粉知らず」と言うのは、芋のミンチに米粉をまぶすのが「イイ」なんですが、その米粉すら買えない貧しいヤツ、と言う意味になります。本土の言葉で「うだつの上がらないヤツ」と言いますよね、あのニュアンスなんです。勿論傘葉芋だけでも充分に栄養があるんですが、米粉をまぶさないで食べて良いのは、お葬式の時と火事の時だけなんです。緊急事態だから米粉なしでもOKなんです。普段から米粉を使わない「イイ」を食べる人は、遠海ではまともな人だとは思われませんでした。

後、遠海では豚肉を良く使います。島に自生しているユリヤツデやオシマガシの大きな葉っぱに包んで、蒸篭で蒸すんですね。それらの葉っぱは非常に良く油を吸収します。肉の油が染込む上に葉っぱの良い香りが付くので、良くお祝い事で使われます。油の染みた葉っぱは、軒下に吊るして一晩干して置くと、手で軽く揉んだだけで粉々になります。それを灰や糠と混ぜて畑に撒くと良い肥料になるんです。本土では「干鰯」と申しまして、鰯の干物を畑に漉き込む地域もあるそうですが、遠海ではこのようにして施肥をします。つい10年前までは、遠海島の人々は普段から炊いたり蒸かしたお米を頂く事は余りありませんでした。本当にここ数年で食生活が変わりましたね。結婚式やお祭りで白飯を頂く事がありましたが、それ以外は「イイ」で済ましていました。遠海では「飯」と書いて「メシ」と読むといわゆる普通のご飯。「イイ」と読むと、さっき申しました傘葉芋の米粉まぶしなんです。紛らわしいですね。

遠海の味付けは主に魚醤を使います。ああー。前の方のお母さん、納得されましたか。あ、お母さん、秋田から。あ、じゃあ「しょっつる」だと思うと、そうですよね。お味は似ていますね。魚醤は日本ばかりでなく、タイのナンプラーやベトナムのニョクマムが知られていますが、製法は大体どこでも一緒です。お魚の腸を塩に漬け込んで発酵させるんですね。この魚醤をベースにして花や魚、豚の脂を混ぜて、ネギやショウガを散らした濃厚なソースが「塩香(しょっか)」と申します。このソースは何にでも使います。先ほどの「イイ」を火鉢で軽く炙って、香ばしい匂いがして来ましたら壺に入れた各戸秘伝の「塩香」に付けて食べるんです。これがまた進みますのね…はい? 運転手さんが「痩せるべし」と一言。大きなお世話ですよ、あの、遠海の人は幾らダイエットしても、そこらじゅうに「塩香」の香りが充満していますから、先ず間違いなく成功はしないんです。いえいえ、これは自己弁護ではなくてですね。

あの、先程ちょっと触れましたが、東京へ転勤したイリオニ君ですね、手紙をくれたのでいみじく嬉しかったんですが、最初にこう書いてありましたよ。「東京には塩香が売っていません。「しまふじ」か「真音ストア」で買って3本位送って下さい」だったんです。もう、信じられます? 私よりも塩香が大事なんだそうですよ。

はあ…。

…あ、どうも申し訳しゃべりません。

私は今、普通にお話をしている積りなんですが、所々に言い回しが違う個所があるのをお判りになりますか? 例えば今の「申し訳しゃべりません」。これは目上の人に謝る時に良く使います。元々は「申し訳し侍りません」だったのですが、それが何時の間にか「しゃべりません」に変わったんですね。でも、改まった場面では、きちんと「申し訳し侍りません」と申します。後良くご指摘を受けるのは「いみじく」ですかねえ。これは「凄く」とか「非常に」と言った意味で、古語がそのまま残ったのだそうです。戦後のアメリカによる占領中、アメリカ兵は遠海の人々を「ミディー」と呼んでいました。これは私たちが余り「いみじく」「いみじき」と言っているので、それと太平洋の真ん中、「MIDDY」を掛けた言葉だと聞いております。余り良い言葉ではありませんし、今ではそう言う人は誰もいません。

さて、先程途中になりましたが、遠海島の3人の恩人、その第3の恩人は、アメリカのトルーマン大統領でございます。

戦争末期の1945年、カイロで開かれた連合国の首脳会談で、日本が負けた後、連合国で分割して統治する計画が立てられました。その中でソ連は北海道、東北を支配する予定になっていたそうです。そして遠海島は岩手県に帰属します。当然ソ連は遠海島を手に入れる積りでおりました。そうすればソ連は太平洋のど真ん中に海軍基地を持つ事が出来る訳です。アメリカはそれに意義を唱えました。ルーズベルト大統領の後を継いだトルーマン大統領はソ連のスターリン首相に毎日のように電話を掛け、遠海島の事で怒鳴り合いの喧嘩を続けたのだそうです。これには流石のスターリンも根負けして、「千島列島をソ連が領有する見返りに、遠海諸島をアメリカが領有する事に合意する」と言わせたのだそうです。口喧嘩と申しましたが実際はもっともっとシビアで、トルーマン大統領はソ連に対して原子爆弾の使用も辞さない、とまで言ったと言われておりますが、本当の所は私共の知る所ではありません。

さて、そんな事をお話ししている間に車の方は、高館の町に入って参りました。左右、ご覧ください。いみじく細い道でしょう。大型同志のすれ違いは難しい上に、歩道が無いので人も自転車も思い思い。ええ、これが従来の遠海島の道路なんです。皆様、左手小高い所、ご覧頂きますと、高い石垣が見られますね。え、あの消防署の望楼の右隣りです。お判りですか? その石垣の上に十字架が立っているのがご覧頂けると思います。見えますか、ポルトガル風の石造りの教会です。16世紀から17世紀にかけて当地を訪れた外国船の乗組員の為に島主様がキリスト教会を建てました。ここで亡くなる船員を弔う為だったそうです。「常真堂」と申します。鎖国後は十字架を外し、備蓄倉庫として手入れを続けたそうでございます。そしてその隣、鬱蒼とした森がご覧頂けます。こちらが島主、藤原家の御館でございます。

御当代の島主、藤原暢衡様は、今は普通に働いて税金も納めておりますが、かつては華族でした。江戸時代には徳川幕府から、正二位権中納言を授けられ、形の上では宮中で帝に拝謁する事も出来ました。でもそれは形式上の事で、代々の島代官、島役人から酷い扱いを受けながらも、島の人々を守護し続けたのでございます。明治に入り、華族となった後、本土の資本で「遠海鉄鉱山会社」、後の太平洋製鋼が鉄鉱石の採掘を始めた際、島主、藤原家にも相当のポストを約束していたそうでございます。しかし当時の当主、延衡公はそれを断り、その代り鉱山会社の株を買い漁って最大出資者となり、島の労働者が不正に搾取されるのを陰に陽に、防いでくれたのでございます。

島の人々は、島主様への代々の恩返しとして、例えば屋形の内外を掃除したり庭の手入れをしたり、そうした自発的な奉公を今でも皆で行っております。これから参ります「望洋園」は、明治30年、御当代の祖父、延衡公が私費を投じて造園された、和洋折衷の庭園でございます。広さは28000平方km。甲子園球場20個分の広さがございます。誰でも無料で入って楽しめるばかりでなく、園内には図書館や茶室、武道場なども設けられ、更に戦時中には地下に食料などの備蓄倉庫が作られております。昭和35年のチリ地震の津波が押し寄せた時、高台にあるこの公園に、高館の人々が避難して来ましたが、それでも余裕があったそうでございます。

このような性格の公園ですから、遠海島の人々はこの公園を「望洋恩賜公園」と呼んでおりましたが、完成披露宴の際に延衡公は大筆を持って墨で「恩賜」の文字を消し、集まった人々にこう言ったそうです。「恩賜とは帝より賜る事を申し侍る。帝ならぬ我が事に用いる事勿れ」。それ以来この公園は「望洋園」と呼ばれて親しまれております。さあ、望洋園駐車場到着です。私が先導致します。旗の後からどうぞー。


はい、見事なお庭ですね。この辺は土が砂から出来ているので、地面の色がピンク色なんです。鉄鉱石の成分が混ざっていると言うお話を先程致しましたが…はい…はっ、はいっ、これはっ、大勢で押しかけまして申し訳し侍りませんっ、はっ、はっ、いえ、そのような事は、はいっ、それは願ってもない事でございますっ、はいっ、あの、あの皆様、こちらが島主様、藤原家御当代、藤原暢衡様であらしゃります。島主様が仰るには、庭の手入れをしていた所観光バスが入って来たので、わざわざ遠海島を訪れて頂いた皆様にお礼の挨拶を致したいと仰せでございます。

…島主様、ご懇切なるお言葉を賜り、ありがとうございます。

皆様、島主様と言う方は、このような気さくで優しいお方なんです。遠海島のような絶海の孤島に長く住んでいますと、海の向こうから来たお客様を大事にもてなして、遠くの土地の話を聞く事が何よりの娯楽でございました。島主様とてもその通りで、観光でお見えになったお客様に逢うと、実に気さくに声を掛けられます。私は島の人間ですから、私の先祖に賜った代々の恩顧を想う時、いみじく厳粛な気持ちになって背筋が伸びてしまうのです。皆様は本土からいらしたお客様ですから、島主様と同様に気さくにお話をされて頂くのが宜しいと思います。その方が島主様もお喜びになります。また遠海島へお立ち寄りの際は、是非この「望洋園」にもいらして下さい。たまたま島主様がいらっしゃれば、色々と珍しいお話も耳にされるかも知れません。

…すみません、余りにも急な事だったんで、涙が出て来てしまって…。


はい、皆様、ご乗車になりましたか? はあ…。まだ感激で動悸が静まらないんです。申し訳しゃべりません。

車は高館の市街地を抜け、高架橋で遠海線を乗り越し、岳の浜と言う海岸沿いを、一路、新遠海空港へ向けて進めて参ります。

皆様、遠海島は如何でしたか? どんな印象をお持ちになりましたか? え? 私が一番印象深かったですか? それはいけませんね、私のような目狸が遠海島の印象に置き換えられますと、私は島に住めなくなります。

まだ本っ当に不慣れで、ガイドもたどたどしかったと存じますが、この次またお会いする機会がありましたら、もう少しスマートな案内が出来るように、これからも精進して参ります。え? 体もスマートに? それは難しいかもです。はい? イリオニ君の後を追って東京へ行くかですって? いいえ、先程のお母さんのアドバイスで私は腹が座りました。待つまでもなく、イリオニの首に縄を付けて、東京から引き戻して見せます。はあい、島の女は芯が強いんですよお母さん。

本土に似ていながら、本土とは全く異なった歴史、風土、そして人々。本土の方から見ますと、まるで夢の中にたゆたうような島でございます。どうかお願いします。この先も遠海島の事を忘れないで下さい。気さくでのんびりした人々が、ゆったりと仕事をしてそれなりのお金を貰って、家族と一緒に悠々と暮らす、その一方で豊かな自然を活用し、島の人々の後見人でもある島主様を助け敬い、そしてまた助けられ、上下和気あいあいと暮らしているこの美しい島を…皆さん、どうか忘れないで下さい。…そしてまたいらして下さい。どうか、お願いします…。

…満場の拍手、ありがとうございます。それでは車は間もなく、新遠海空港出発ターミナルに到着致します。どなたもお手回り品、お忘れ物ないよう、充分にお気を付け下さい。本日は私共、遠海自動車定期観光バス、ショートプラン幅曳島Aコースにご参加いただきましてありがとうございました。またお会い出来る日まで、さようなら。さようなら。