俺々架空鉄道探訪

俺々北武急行電鉄一つ話  「静かな生活」







飯塚駅近くの農家から遊休地を買って小さな家を建てたのは60年前だった。

当時、駅前には何も無く、線路際の我が家から500メートルも先の駅が良く見えた。

我が家から駅まで道と云うものは無く、仕方なしに田圃の畦道を歩いて通ったのだ。

それは判で押したような、しかし静かで滋味のある生活。

飯塚のホームの綺麗な三和土を泥で汚すのを済まないと思いながら、緑と明灰色の電車で日本橋の会社へ行く。

仕事が終わると、小さな飯塚の駅は、夕暮れにほんのりと白熱球を灯して私を労ってくれた。


小さな我が家。


板塀の外はもう北武電車の線路で、時折電車の重々しい轟音が響く他は、全く静かなものであった。

妻の晩酌で夕飯を遣いながら、開け放した窓の外に傾聴する。

晩春なら田面から聴こえる蛙のじれたような声。

晩秋なら遥か遠くの梢を擦り、大地から大地へ押し渡って行く北風の金切り声。

夕暮れの空一杯に、どこかの落ち葉が舞い上がって、まるで渡り鳥のように南へ去る風景。

雨雲にぽっかり穴が開き、そこから夕陽が輝いて、丸で灰色の空に橙色の百合花が咲いたような息を呑む光景。

それらも全て我が家の居間から妻と一緒に眺めた。


その土地に、息子が二世代住宅を建ててくれた。嫁は相変わらず一緒に住む事に疑念を感じているようだ。

それも良いだろう。

そして、判で押したような生活は今も続く。

思い切って免許証を返上してから、妻の入居する高齢者施設へは電車で通っているのだ。

飯塚で電車に乗り、3つ先の駅まで往復する毎日。

もはや私が誰だか判らない妻の昼食を介助し、何くれとなく話しかけ、うなずき、労わる毎日。

それも良いだろう。

駅前の店で自分用の菓子を買って帰る私に、一言も声を掛けない嫁。

それも良いだろう。

私が丹精した庭はカーポーチとなり、息子と孫の車が置かれている。

それも良いだろう。

我慢する事には馴れた。


そうして色々な思いを腹に収めつつ、それでも変わらない静謐な生活は出来ている。

それこそは、口では言い表せない何物にも代え難い、幸せの形なのだろう。