眺め架鉄・GP鉄道サニーベール小円丘から
アメリカにおける地域旅客鉄道サービスの最末期にあたる1951年の晩秋。
ウィスコンシン州サニーベールのグレートプレーリー鉄道(Great Prairie Railroad)本線とイーガル短絡線の分岐点に近い、両線に挟まれた小円丘に私はいた。
早朝の朝霧を猛然と混ぜ返し、むせる様なブラストと共に視界に飛び込んで来たのは、朝一番の「ミルク列車」であった。イーガル短絡線からの東行きである。ベントンハーバーの一つ先の、アーディンカーク駅に隣接する乳製品加工場へ送り込むのだ。
各駅で集荷した牛乳を、留め置きしていた専用貨車に積み込んで、駅ごとに編成を長くして行く。鮮度が命の商品なので、牽引機は貨物用ではなく、俊足の旅客用を充てていた。700番代のハドソンが重連で、銀色の専用タンク車、旧式客車を改造した簡易冷蔵車、そして冷却装置を積んだ本格的な冷蔵車が入り混じった雑多なシルエットの列車を牽いて、急行列車並の速度で駆け抜けて行った。あっと言う間だった。
ふと日本の事を思い出した。例えば房総の鉄道に、ミルク列車ならぬ鮮魚列車が走っていたらどうだろうか。銚子や館山で揚った魚を満載した冷蔵列車を、中型プレーリーC58級が重連で牽引して東京の市場へ急ぐ。そこら辺の急行なんぞよりよっぽど早い。我に乳製品あれば彼に魚介類あり、と言う事だ。
ミルク列車の轟音が消えやらぬ内に、東側ベントンハーバー方が騒がしくなって来た。
副音の重厚な汽笛が二度三度と響き渡り、忙しない3気筒のブラストが急に近づいて来る。彼方から上がる二条の煙。二本の旅客列車が猛烈なデッドヒートを繰り広げながら、朝の静寂を打ち破って接近して来る。
先述したように、ベントンハーバー~ウィッタム間は二本の路線が並走している。東側のイーガル短絡線と、西側のGP本線である。
これらの内、イーガル短絡線は元々ウォルバーン・ノーザン鉄道(WN線)の本線であった。WN線がGPに吸収された結果、この狭い区域に二本の複線が通っているのだ。
ややこしい事に、ベントンハーバー~サニーベール間は両社で線路を共用していた。開業当時は単線だったが事故が絶えない為、1910年頃に複線化、1918年には輸送量の増大に対応する為一本を足して3線化されたのである。
WN吸収までの数年間、ベントンハーバーを同時刻に発車した二本のウィッタム行旅客列車は、3線区間の内2線を占め、互いに負けじと速度競争を繰り返すのである。両列車がサニーベールに滑り込むと、車掌も機関士も駅員に発車を急がせる為に、同駅では今でも発車合図の「オールアボード!」を縮めて「オッボ!」と呼称する習慣になっている。駅員が旗を揚げて「オッボ!」と声を上げるか上げないかの内に二つの汽笛が鳴り響き、両列車は動輪を空転させながら駅を飛び出して行くのである。この朝の大騒ぎは、WNがGPに吸収された現在でも続いており、地元のちょっとした名物にすらなっている。
この日のイーガル経由の列車は、運用の都合なのか古いテンホイーラーを前補機に連結していた。この時代の本線旅客は殆どが700番代のハドソンか800番代のノーザンが担当していて、120、170番代に相当するテンホイーラー等は貨物側線の入換用に残っているばかりだった。工場入りでもするのだろうか。
GP鉄道はトリードに発し、シカゴ南縁をバイパスして、ホワイトベンド、ウィッタムを経由しオークレアを目指す。かつては産業の集積地であったベントンハーバーを中心にして、小規模な鉄道が入り組んでいたのだが、1930年代には殆どが廃止されるかGP線に吸収されてしまっている。
ベントンハーバーからウィッタムに至る地域は、30年代の経済恐慌による自作農の没落が最も早かった地域で、言葉を換えれば「古き良きアメリカ」の姿が最も早く、最も徹底的に消滅した地域とも言える(この流れは「怒りの葡萄」に詳しい)。そして農地を捨てた農民の内の少なからぬ数が、ウィッタムの自動車製造会社「オークス・ワークス」に雇用されたのである。
「オークス・ワークス(O&W)」は第一次世界大戦をバネに急成長した企業で、専ら貨物自動車を製造する会社であった。ウィッタム駅西方の荒蕪地2000エーカーを買い取って、近代的な工場を建設したのが1929年の事で、離農失業者の取り込みが念頭にあったのであろう事は想像に難くない。
O&W社は、ウィッタムの郊外に多くの労働者用住宅を建て、専用の道路や鉄道駅を設けて従業員の通勤の便を図った。何故ならばその時点で経営者のB.オークスは後にGP鉄道に吸収される、ウォルバーン・ノーザン鉄道の筆頭株主になっていた為であり、同鉄道は彼が受け入れた労働者を運び、彼の製品を送り出す為に丁度良い位置を走っていたからであった。
第二次世界大戦中にO&Wは製造部門をマックに吸収されたが、戦後に至ってもこの地域の主要産業である事は変わらない。アメリカの他の地方で地域旅客鉄道サービスが消えかかった50年代にあっても、ウィッタム~ベントンハーバー間においては、未だ近距離の通勤輸送が幅を利かせていたのだ。
上図はGP鉄道ウィッタム支局発行の旅客列車案内リーフレット裏表紙を書き写したものだ。時刻表によると、ウィッタムから本来のGP本線である、フェアホープ、ホワイトベンド経由ベントンハーバー行と、旧ウォルバーン・ノーザン線であった、イーガル短絡線経由ベントンハーバー行の短距離旅客列車が(アメリカの感覚では)かなり頻繁に設定されている。
勿論、シカゴ、オマハ、ミネアポリス、ウォルバーン方面への優等列車や大陸横断列車の設定もあり、これが自動車万能時代が到来して久しいアメリカの時刻表とは思えない程賑やかなのである。
暫くのち、朝日が小円丘を染めた頃に、ホワイトベンド始発ベントンハーバー行普通列車が走り込んできた。
先程の機関車競争とは比べ物にならぬ程、穏やかに静かにやって来る。
目に馴染んだ700番代のハドソンの太いボイラーに似つかわしくない短い列車である。旧式のエクスプレスカーを改造した郵便荷物車と客荷合造車。客扱いはしていない。荷物車代用である。3両目の座席車だけが客扱いをしているらしく、結構人が乗っているように見える。この列車と、最前のデッドヒートを演じていた二本の列車の3本で両路線のローカル輸送を担当する。
因みに、サニーベールと言う地名の語源は、私が列車を眺めている「小円丘」に由来するらしい。
町外れから眺める小円丘は、平地に置かれた俵のように見える。朝日が当たるとその俵が赤く光るので「日当たりの俵」だと言うのだ。決して「日光がヴェールを覆うように降り注ぐ」と言う意味ではない。
秋晴れの静けさを愉しんでいると、GP線のクイーン、東行き特急「The Developper」シカゴ行きがやって来た。
この列車は一昨日の昼にポートランドを出発して、深夜にミネアポリスに停まり、昼前のこの時間にサニーベールを通過するのである。シカゴに着くのは今日の夜中だ。
まだこの時代、全ての客車がステンレスのスムースサイドカーで編成されている訳ではない。重厚で優美なヘビーウエイトが数両挟まっているのは、正にこの時代の客車編成の面白さなのだ。
展望車は特別製のドームオブザベーション。その前に連結されたクラブカーもドーム式展望席を設けている。実に豪華な編成であった。
つい去年まで、牽引機は800番代のノーザンが重連で当たっていたが、その時は既にEMDのDLに交替した後であった。
見ている前で特急とすれ違うのは、西行き一般貨物列車であった。
各駅で解結を繰り返しながら終点を目指す形式の貨物列車は、この時代のGP線では既に珍しい存在であった。沿線の農業は極端に集約化されていたし、ウィッタムにはO&W(この頃にはマック)と言う大口顧客がいて、専用貨物列車が非常に多く見られたのである。その中でこの列車は昔のままの姿。雑多で賑やかなシルエットを見せている。
牽引はGP中西部の標準機、600番代のバークシャーが主に当たっていたが、この日は前補機に元WNのミカド(550番代)が付いていた。GPは合併と吸収を繰り返して一大鉄道路線になり遂せたが、生え抜きの機関車に対して合併元の同クラスの機関車は、50を追加する付番方法を採っている。
ミカドやパシフィックと言った形式はアメリカでは中型機に分類されるが、WN鉄道は比較的小規模な鉄道であったせいか、それらの中型機やコンソリデーション、プレーリー等を多く保有していた。こうした中小型機の大半はGPに引き継がれる事はなく、全米の群小鉄道や専用鉄道へ売却されて行ったのだ。
語らば影差すではないが、専用貨物列車がゆっくりとやって来た。
遥々ネブラスカ州サッタワの炭鉱から、サウスデールの火力発電所へ向かう石炭輸送列車である。貨車の数を数えて見たが、余りに長々としていたので途中で諦めた。
この頃のGP線の蒸機は、旅客:700番代、貨物:600番代でほぼ統一されていた。そして後補機は新顔、アルコのRS3が務めていた。この対比はやがてFAシリーズやトレインマスターと云った新鋭DLとの交代劇が間近である事を暗示しているように思えてならなかった。
ウィッタムのマック組み立て工場へ向けて、西行き専用貨物が通り過ぎる。
圧延鋼板に始まり、返送される空車、据え付けの機械、自動車部品専用ボックスカーと続き、最後にベンゼン用タンク車が繋がる。牽引は相変わらずの700番代だが、本務機は後方監視用のドッグハウスを備えた変形テンダの744であった。
ホワイトベンド経由のGP本線東行き線を、ベントンハーバー行ローカル列車が戻って来た。
先程、ベントンハーバー発車時に競争していた内の片方で、エクスプレスカーの他、座席車2両を繋いでいる。
機関車にトラブルでもあったのか、或いは運用の都合かは判らないが、牽引機がRS3の重連になっていた。この一見入換専用機に見えるDLは、暖房用蒸気発生装置を搭載しているので旅客列車の牽引も可能である。しかし実例は少なく、貴重な見聞であった事には違いない。
昼過ぎ。曇り気味の空の下、イーガル短絡線の東行き線路を、マックの工場から出荷される自動車を満載した専用貨物列車がやって来た。
積み荷のトラックは、シカゴにある艤装工場に運ばれて各種の荷台を架装し、販売店へ自走して行くのだそうだ。
幾本かローカルの区間列車や専用貨物列車を眺めている内に、段々と日が翳って来た。急に薄ら寒くなり風も強まって来た。
強風に煙をなびかせ吹き散らされしながら猛然と走り込んで来たのは、西行き急行「The Governer」である。
午前の東行き大陸横断特急「The Developper」と異なり、こちらは比較的ローカルな急行である。だからと云う訳でもあるまいが、古いヘビーウエイト客車を連ね、当時既に珍しかった3軸ボギーのオブザベーションを後尾に飾った列車であった。例えは合っているかどうか判らないが、第二次世界大戦前の「フジ」に対する「サクラ」の位置付けに近いかも知れない。
トリードを前夜に出発し、ミネアポリスには明朝早くに到着する。短いながらも座席、寝台、食堂、展望とバラエティに富んだ編成で、牽引機も800番代の重厚なノーザンが当たっているのが嬉しかった。
急行がイーガル短絡線を北へ去ると、入れ替わりに本線東行き線を午後の郵便急行が近付いて来た。
アメリカの郵便列車は殆どが「護送郵便車」であり、郵袋の輸送に特化していると言って良い。日本のように郵便車内で仕分けをする事は殆どの場合は無い。従って郵便車には窓が無く、またボックスカーで代用するケースも非常に多い。中には西部開拓時代の極めて古いボックスカーも当たり前のように混じっていたが、良くぞ急行並みの時速95マイルの速度に耐えられたものだと思う。
午後の東行き郵便急行は、F7とハドソンの重連であった。
この後私がどうしたかは良く覚えていない。恐らく小円丘からサニーベール駅まで5マイル余りの道を歩いて戻ったのだろうと思う。サニーベールからウィッタム行のローカルに乗り込み、真っ直ぐ家に戻った筈である。
家に帰れば、やる事は沢山あった。大家へ家賃の支払い、郵便局へ転居届の提出、近所の「ホイットニー&ソーサーズ」と言うダイナーに貯まっていたツケの支払い、「ローンスター・バー」もだ。そうして準備を終え、翌日の昼にウィッタムを出る「The Developper」のルーメットに乗り込んで、次の雇い主がいるポートランドへ向かったのだ。
そして2011年秋。私は60年ぶりにあの小円丘にやって来た。
60年も経てば当然と言えば当然だが、サニーベール付近の鉄道はすっかり整理され尽くしてしまった。
ホワイトベンドを経由するGP本線は廃止され、僅かにウィッタム~フェアホープ間だけが貨物専用線として機能している。オマハへ直通する旅客列車はとうに無くなり、ベントンハーバーから分かれていた支線も旅客営業はもう行っていない。
今はGP本線となったかつてのイーガル短絡線を、東行きコンテナ列車がやって来る。かなりの速度だった。そしてまた飽き飽きする程長い。紫とクリームの新塗装に塗られたSD70の重連に、オレンジと黒の旧GP塗装のSD40が付いた三重連だった。
そして西行き一般貨物。これも速く、そして長い。貨車はハイキューブボックスカーがメインで、これはウィッタムのかなり先、カラスコの農業集荷場へ向かうのであろう。
たった一日一往復になってしまったが、今でも旅客列車はやって来る。かつて私をウィッタムから遠く離れたポートランドへ運んだ「The Developper」である。
F40PHが単機で牽引出来る程短い編成で、現在ではかなり旧式となったスーパーライナーⅠがたったの4両だった。それでも寝台車が2両に食堂/ラウンジカーも連結しているあたりは、流石は大陸横断特急の成れの果てだけの事はある。
所で、かつて法務将校であった私は1951年に朝鮮半島で負傷して除隊、帰国したのだが、その後の弁護士としてのビジネスの現場で弱い物は古い物は遠慮なく淘汰されるアメリカの一面を嫌と言うほど目にした。一時駐留した日本と日本人が懐かしく思い出される事もしばしばあった。彼らは無い物を有る物で補い、古い物でも大事にリサイクルして見事な循環型社会を築いていた。常に他者の顔を立て、負けても得の出来る社会を実現していた。この国でそんな態度を取ったら、恐らく一週間で文無しになるに違いないだろう。
アメリカ社会は資本主義の原理で動く。時代に合わなくなった物は簡単に姿を消す社会だ。それを日本の諸兄はドライな、非情な社会だと思うかも知れない。しかし当地では全てにおいてその原理が適用されるのだ。そう言う国であり社会なのだ。
時代にそぐわない物は淘汰され適者が生き残る。強者は弱者を併呑して更に肥え太り、ビジネスの現場はさながらサバンナの捕食現場に見える。ダーウィンがさぞ驚くだろう。
私はこの一文で過去を通り過ぎた列車たちを懐かしく思い出している。そして同時に、ハイキューブボックスカーやセンタービームゴンドラばかりになった貨物列車の奇怪なスカイラインから、社会に適合して生き残ろうとしている鉄道と言うシステムのダイナミックな生命力をも感じ取っているのだ。
古い物は捨て去られるそうした一面の対極に、この国の人々のもう一方の顔がある。
今しも、私の目の前を1921年製の4-6-2が、前世紀初頭に造られた木造の美しい客車を牽いてウィッタムへ走り去って行く。
トラブル防止の為かGP38を連結してはいるが、これは夢ではない。私が物心付いた頃に見たような記憶がある古い古い汽車が走って行くのだ。
この国の人々は、同時にまた古い物を崇拝しているのだ。こうした産業遺産に大事な財布の中身や、貴重な余暇の時間を惜しげもなく提供する市民は、掃いて捨てる程存在する。
ヤヌス神のようなこうしたアメリカ人の二面性こそが、この国を読み解く貴重なキーとなる事だろう。