昭和43年。戦時中から戦後に掛けて羽根鉄道はさしたる変化もなく時を刻んで来ました。大衆レジャーの時代、モータリゼーションの時代と呼ばれて久しいにも関わらずです。それは羽根鉄道を取りまく環境が殆ど変化しなかったせいもあるでしょう。
しかし、時代は非情です。この頃を境にして羽根三郡のみならず日本列島全てが大胆に変わり始めたのです。それまでのみずぼらしい三級国道「竹崎街道」は、昭和43年に四車線を擁するバイパスとして生まれ変わり、そこを走る自動車は次第に自家用車の姿がその割合を増して行った時代なのです。羽根鉄道は「時代が要求しない運輸機関」に成り下がり、廃止も時間の問題とまで言われるようになりました。
この次のダイヤ改正で「客貨混合列車」が廃止され、翌々年の昭和45年にはキハ100型(元国鉄キハ41000)が入線します。それは輸送力を革命的に増進させる筈でしたが、既に通学定期旅客以外には殆どそっぽを向かれてしまった状況では、折角の新車(とはいっても当時で車齢は30年を越えていたのですが)も単なる仇花となってしまったと言えましょう。