平成13年11月。羽根町が町制を敷いて90年が経ち、それ程派手ではないにせよ各種の記念式典が賑々しく執り行われました。分けても力が入っていたのは、町の来し方行く末を一冊に纏めた町民向け冊子「羽根町・20世紀の記録」でした。
過去の貴重な写真や幾多の古老の証言、更に圧巻は羽根町が最も繁栄していた大正年間の中心街のCG再現でした。木材と薪炭 の集積で物資もカネも、ついでに人も集まって来た当時の事とて、「舘州羽根に無い物は、玉の宮居に九段の社…」と、当時の感覚からするとやや不敬な歌であったに違いない「羽根囃子」の歌詞に頼るまでも無く、およそ何でも揃っていました。大正12年の時点で映画館が3軒、ミルクホールが2軒、銭湯が5軒、待合茶屋や娼館まで備えたこの商業町からは、スマートなバスが各地へ向けて頻発し、山と積まれた俵や材木を満載した貨物列車は、誇らしげに黒煙を高々と吹き上げて物資を運び続けていました。
そして今、固有産業の凋落と離農の進展ですっかり往時の面影を失った羽根町に今一度活気を呼び戻そうと、幾つかの夢のあるプロジェクトが進行中である事を語って、本書は締めくくられています。

夢のあるプロジェクト。それは現在実験が進行中である「農業生産の法人化」であり、平成13年から試験運用が開始された「地域交通運賃の共通化」が挙げられています。

上の絵は、同冊子の見開き、羽根町では正午と夕刻の有線放送でお馴染みとなっている「町民歌・我が善き郷は」の歌詞です。この歌が制定されたのは意外に古く、昭和22年の事です。作詞は旧制竹崎高等学校の国語教諭、島岡暁平氏、作曲は羽根町と浅からぬ因縁を持つドイツ系チェコ人、アルベルト・ヨハンネス・ハイネマン氏。そのせいかあらぬか、曲はあたかも「どこぞの国歌みたいに荘重、歌詞は子供にゃ難しかんべぇに」と余り評判は芳しくありません。けれども昭和57年から、それまでの時報に変わってこの曲を流し始めた所次第に普及して行ったそうです。
そう言えば平成7年、羽根町の町立学校で、行事の際に「国歌斉唱」の代わりにこの歌を斉唱すると言う事から、県の教育委員会や当時の文部省を巻き込んだ一大論争が持ち上がった事も記憶に新しい所です。

私が思うに、「町制90周年」とは言い換えれば90年もの間、「市」に昇格出来なかったと言う事を表しているのではないでしょうか。しかしそれはそれで結構。私はこのちんまりとまとまった愛すべき町が大好きなのですから。