地元諺カレンダー・陰口篇



地域差別。

この言葉の重さを跳ね返すような人気を博したカレンダーが、この幸島新聞社版「地元諺カレンダー・陰口篇」です。
同社では1973年から「地元言い伝えカレンダー」を製作して定評を受けていましたが、1979年、記者達が長らく地元各地を歩き回った結果手許に集まった、土地の人が日常的に用いる「地域差別」の俚諺をカレンダーにして出版すると言う挙に出ました。

その目的は、それまで陰口として囁かれていたそれらの諺を白日の許に晒す事で、「地域差別なんてくだらないじゃないか、皆同じだけ欠点を持っているんだよ」と啓蒙する事にありました。それだけに言葉の選定に当っては慎重を極めたようです。

第一に、憎悪に根ざしたものではない事。読んだ人が「あぁ、俺達もそう言う所があるかも知れないな」と受け流せるような諺である事。
第二に、A地方がB地方を笑い者にしている場合、言われたB地方にも「お返し」が出来る諺があれば望ましい。



東奥本線に沿って幸島県を南北に縦断する所謂「幸島回廊」には、江戸時代を通じて大小の藩が割拠し、そのそれぞれが中心地を持っていました。同じ幸島県でも山を挟んだ西隣の巌梯地方の人々には、稲居藩五十八万石と言う統一政権に統治されて来た結果「同じ巌梯人」と言う感覚があるのですが、これが幸島回廊部となるとその感覚はさっぱりありません。
この事が現在に至っても尚、「あの人は竹崎の人だからケチだ」とか、「彼女は幸島の人だからちっとも面白くない」等のステロタイプ化された地域性が偏在しているのです。

羽根と竹崎の民族性の違いは、旧竹崎藩の領地が一口に「三郡地方」と括られるだけに、群を抜いて際立っています。幸島新聞社が地域差別の宝庫としてここに目を付けたのは正解でしょう。

竹崎は竹崎藩の城下町です。と言う事は軍事・政治都市であり、武士の比率が高く、領民が万事に質素倹約をモットーとする、或いはせざるを得ない事に何ら不思議はありません(尤も倹約の理由は飢饉対策が主なものだったようです)。
一方の羽根は、元禄の頃に既存の羽根藩が取り潰され、その殆どは竹崎藩に編入された歴史があります。以来羽根には竹崎藩羽根代官所が設置され、竹崎の金蔵と称される事になります。交通路が交差し、内陸と海岸の中間に位置する当地は商業に特化する事に生き残る方途を見出したのです。

その結果羽根の人々は見栄っ張りで浪費家、と言うイメージが定着してしまいました。本当に浪費家であれば商業など成り立ちません。しかし始末屋揃いの竹崎の人々はやっかみ半分でこう言ったのです。

「羽根の嫁取り当代限り」(2月)

何事に付け派手な暮らし振りの羽根の女を嫁にすると忽ち家は傾き、当代限りで潰れてしまう、と言った意味です。

これに対して羽根の人々も言われっ放しではありません。

「北鳴りと竹崎の弔いはすぐ済む」(4月)

弔いがあると会葬人に食事を振舞わなければなりませんが、万事にケチな竹崎人はその通夜振舞を出し惜しみするので、呆れた会葬人は焼香を済ませるとすぐに引き揚げると言う意味です。

このカレンダーの巧く出来ている所は、こうして竹崎と羽根で殴り合いをさせておいて、そのすぐ後、5月にこう言う諺が出て来ます。

「竹崎三尺羽根二間」(5月)

これは竹崎・羽根以外の地域で言われている諺で、「目糞鼻糞を笑う」と言う意味で使われます。
本来六尺で用を成す褌を、竹崎の人は勿体無いので半分の三尺に切って使う。一方見栄っ張りの羽根の人はわざわざ二間(十二尺)の褌を誂える。どちらも本来の用を成さない、と言う訳です。





このカレンダーは発売当初から凄まじい反響でした。第一刷は店頭に並んだ瞬間に売り切れたそうで、その後は増刷に次ぐ増刷であったそうです。企画段階で予想されていた反発は全く無く、怖い物知らずの幸島新聞がまた何かやったと思い、面白がって買う人が多かったと言います。

しかし、この向かう所敵無しのこのカレンダーの「1980年版」が刊行される事はありませんでした。

丁度その頃は「マンザイブーム」の走りの時代で、弱者や特定地域を無意味にクサす風潮に批判の声が上がり始めたのが原因です。幾らこのカレンダーの意義が「地域差別なんてくだらないよ」と啓蒙する物であっても、利用者がその意味を誤解すれば、リベラルを以って鳴る同社は忽ち窮地に追い込まれます。そのような訳で、「地元諺カレンダー・陰口篇」は1979年版のみで終了してしまいました。

何事にものんびりと鷹揚に構えていられた良き時代は、1979年を以って終焉を迎えました。同時に剣呑な油断のならない新時代が始まり、残念な事にそれは未だに終わっていません。