帰ろう







目もくらむ断崖の中程を伝う道、と言うより通路。

幅は30センチあるかないか。場所によって崖をコ形に切り取った箇所や、丸太を1本ワイヤーで吊っているような箇所があり、恐ろしくて前に進めない。勿論手すりも何もない。


「ここから先は気をつけろ、妙に広い場所に出たような幻影を見る事があるそうだ、安心して脚を踏み出すとまっ逆さまだぞ。オイ、下を見てみろ」


私の後ろで誰かが励ましてくれている。数百メートル下の河原には、何だか人間のかけららしきものが幾らか散らばっているようだが、そんなモノがあろうが無かろうが下なぞ見られた物ではない。そもそも私は梯子の3段目で目を回す程の高所恐怖症だ。

後ろにいる人が誰なのか気にはなるのだが、振り返る事は物理的にも情緒的にも完全に不可能なので、黙って真っ直ぐ歩く事にした。と言って下は怖くて見られない。前方は見た事も無い絶壁が延々と続いているのでそっちも見たくはない。仕方なく絶壁側を見ながら歩くと所々に「落ちるぞ」等と言う標識がある。


「何か見たか」


とたまに後ろの人が声を掛けてくれた。


「お爺さんが死ぬ前に寝かされていた3畳の納戸が見えます」

「なら狭いから大丈夫だ」


「何か見えるか」

「バチカンの衛兵が鉄砲持って行き来してます」

「バチカンは狭いから大丈夫だ」


殆ど這うようにして歩いて行くと、絶壁の少し上、手が届きそうな場所に地下鉄の入口が口を開けているのが見えた。


「地下鉄の入口が見えます。すいませんがこっから地下鉄で帰りますんで、じゃ」


後ろの人が止めるのを振り切り、地下鉄の階段を降りた。代々木上原までの切符を買い、売店で漫画雑誌を買って電車を待っていると、急に安心した。