峠路
それは、暗夜の峠道だった。
峠道とは言うものの、その道が本当に峠を越えているかどうかすら定かではなく、心細い旅路だった。
周囲は険しい山中で、光は私の車のヘッドライトばかり。砂利道ですらなく、断崖を削り取った「岩道」とでも言うものに過ぎなかった。
見上げるような所に、羊羹色をした山々が威圧的に聳えていた。そして星明りで牛蒡色にほの白んだ夜空とのほんの僅かな色の違いで、ようやく山の形が把握できる、それ程暗い夜だった。
尾根の上に非常に高い松があった。寄る辺のない孤独な旅路にあっては、その父のような佇まいは、僅かに心安さを感じさせた。
その内に、左側に何となく湖がある事を感じた。それは水面を見ての判断ではなく、唯左側一帯から、淀んだような静けさ、と言うよりも恫喝的な静寂を感じたのだ。それは光も音も、幸福も明日も全て呑み込んでしまうような、情け容赦ない闇の深淵。
道はいよいよ険しく、危うくなって行く様子で、ついに谷が極まり、峠が近い事を思わせた。
突然目の前の断崖に穴が開いていて、それが峠の隧道なのだと理解した。コンクリートで巻き立てをしていない素掘りの狭い隧道で、恐る恐る踏み込むと中は水浸し。タイヤが水を分ける音と、突き出した岩が床を擦る音に肝を冷やしながら進んで行くと、霧が巻いていた隧道の闇の中に、全く唐突に大勢の人の気配を感じた。
岩肌が剥き出しの隧道の壁面に、およそ場違いなガラス張りの大きなドアがあり、人の気配はその中から染み出していた。
中では、着飾った男女が乾杯したり談笑していた。多くのシャンデリアに照らし出された室内は広々として眩く、暖かで快適だった。湯気を立てた料理が次々と運ばれて来る。窓の外は明るい夜景が広がっているようだった。
一人の背の高いボーイが近付いて来て、恭しく案内をするので黙って附いて行く事にした。トンネルと反対側のドアから一歩出ると三鷹駅だった。
とすると、三鷹で電車に乗った途端、暖かなパーティ会場に現れ、外の隧道に停めてある車に乗り込んで、暗夜の恐ろしい峠道を降って「どこかに」帰って行かなければならない「別の私」がどこかにいるのだろう。それにしても、何で三鷹駅にいるんだ?