三田用水の物語

-丘の上を流れたもう一つの川-

Story of
the Mita Irrigation Water

     
      






三田用水が流れていた鎗ヶ崎の高架鉄樋
(出典:目黒区ホームページ・無断転載禁)

     玉川上水と渋谷川・三田用水のハイブリッドな水システム(2) 展示パネル-New!
 玉川上水と渋谷川・三田用水のハイブリッドな水システム(1) 報告-New!
 <2023>
 
7月25日 玉川上水と渋谷川・三田用水のハイブリッドな水システム(2)展示パネル-New!
 <2023>
 
7月23日 玉川上水と渋谷川・三田用水のハイブリッドな水システム(1)報告-New!
 <2022> (b4)
12月31日 三田用水の駒場分水は今も現役だった。
 <2021>(b3) 
 3月21日 <三田用水の4つの遺構>についてのシンポジウム報告-「我が町の玉川上水関連遺構100選から」-
<2017> (b2)
 11月21日三田上水の地下ルートを「貞享上水図」でたどる(後編)-三田町、松本町、西應寺町、そして品川の八つ山下へ-
 11月21日三田上水の地下ルートを「貞享上水図」でたどる (前編) -白金猿町から二本榎、伊皿子、そして聖坂へ-
4月1日 TUC講演録「三田上水と三田用水」-渋谷、目黒、白金の丘を流れた川-
2月4日 東京都庁「三田上水と三田用水」展示パネル紹介
<2016> (b1)
 10月15日 三田用水の流末を「文政十一年品川図」(1828)で歩く-猿町から北品川宿を通って目黒川へ-
著者へのコメントはこちらにどうぞ。
briverebisu10@gmail.com
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三田用水は玉川上水の分水で、下北沢村(北沢5丁目)の取水口に発し、白金猿町(高輪台)を経て目黒川に注いでいました。その歴史は古く、寛文4年(1664)に幕府が開削した「三田上水」に始まります。この上水は享保9年(1724)に農民に払い下げられて名前も「三田用水」に改称し、江戸・東京南部の発展に様々な形で貢献した後、昭和50年に311年の歴史を閉じました。平成28年(2016)に「玉川上水・分水網の保全活用プロジェクト」が日本ユネスコ協会連盟の「プロジェクト未来遺産2016」へ登録されたのを機会に、三田用水が農業の発展のみならず近代産業の成立や人々の暮らしに与えた影響を調べてみたいと思い、このサイトを設けました。「あるく渋谷川入門」と並んでご覧下さい。




2023.7.25



今回のイベントでは講演会の報告の他にパネル展示のお話もいただきました。会場の四谷区民センターは玉川上水の「水番屋」があった歴史的なスポットですから、パネルの作成にも力が入ります。会場の関係でパネルはA1サイズ2枚と決まっていたため、全ての情報を詰め込むのが大変でした。後になって見ると、ご覧の通り中味がぎっしり詰まっていて、説明文も漢字だらけでした。


 


以下は本編の目次です。スペースの関係でパネルに入れることができなかった「筆者のコメント」も加えました。ゆったりと会場を訪れた気持ちで順にご覧ください。

 

<玉川上水と渋谷川・三田用水のハイブリッドな水システム(展示パネル)>

1.   水システムの社会的な役割

2.   江戸・東京南部を流れた玉川上水とその分水網

3.   国土地理院・基盤地図情報(数値地形モデル)5mメッシュ(標高)

4.   三田上水・三田用水の流路の勾配図

5.   玉川上水・三田用水と渋谷川の記録

6.   玉川上水と三田用水、渋谷川の年表

7.   参考文献・資料

8.   パネル展示を見学された方の感想


1.  水システムの社会的な役割

江戸・東京南部の水システムは、「人工の川」である玉川上水・三田用水と「自然の川」である渋谷川のハイブリッドな組み合わせから成り立っていた。それは淀橋台の尾根を通る玉川上水の余水や三田用水の分水を、渋谷川支流の谷間に流し込んで、河岸や斜面の土地に水を行き渡らせる仕組みである。こうした方法には、渋谷川が淀橋台に刻んだ多くの樹枝状の谷間が巧みに生かされた。この地域の上水の役割は、時代と共に変化した。三田上水の時代は主に武家や寺社の泉水や町人の飲水に使われた。享保9年(1724)に農民に払い下げられ、名前が三田用水になり、用途も田んぼの灌漑に変わった。流域の村々は分水口を設けて水を渋谷川支流の谷間に流し、水路を延長し、複線化し、迂回させて田畑を拡げ、米の収穫を増やした。こうしてハイブリッドな水システムが完成した。やがて水路に精米・製粉の水車が掛かり、その数も増えた。明治以降は繊維や化学、金属など近代産業の動力源にもなった。用途は工業用水や科学の実験水、消防に広がり、人々の暮らしと産業の発展を支えた。

 

2. 江戸・東京南部を流れた玉川上水とその分水網

 1.玉川上水 承応2年(1653)に多摩川の羽村から四谷大木戸まで、翌年は江戸城まで開削された。完成後は江戸南部に向けて青山上水、細川上水、三田上水の支流が作られ、武家や寺社、町民に飲水や泉水を届けた。この三上水は享保7年(1722)に幕府の命で廃止された。

2.青山上水 万治3年(1660)に開削された。四谷大木戸で分水され、今の外苑東通りに沿って南東に進み、青山・赤坂・麻布や芝の武家屋敷や寺社、町人に給水した。明治14年から18年まで「麻布水道」として一部復活した。

3.細川上水 明暦3年(1657)に開削された細川越中守の上水。現在の北沢5丁目(下北沢村)で分水され、駒場から目黒、高輪台を通って伊皿子の私邸まで流れた。

4.三田上水 寛文4年(1664)に細川上水と並行して作られ、細川邸の先は二本榎通り、聖坂を流れ、三田・芝を巡って入間川に注いだ。高輪台からは地中に入って木樋で流れた。後に八山下、品川宿への水路も作られた。

5.三田用水 享保9年(1724)に三田上水が農民の請願で払い下げられ、三田用水と改名され、農民が灌漑用水として自主的に管理した。下北沢村で取水され、目黒、高輪台を経て目黒川に流れた。その間、17の分水が渋谷川や目黒川に注いだ。昭和49年(1974)の通水停止まで250年、三田上水を加えると310年間流れた。

6.原宿村分水 三田用水が農民に払い下げられたのと同時期に開削された。玉川上水の千駄ヶ谷村(代々木2丁目)で分水され、渋谷川上流の芝川に入り、原宿橋で穏田川に合流した。

7.渋谷川 淀橋台の中央を流れる自然の川で、水源は新宿、代々木、西原など多数。玉川上水の完成後、四谷大木戸と原宿村分水、三田用水から分水を受けて水量が増加し、季節的にも安定した。現在は渋谷駅南口から東京湾・浜崎橋まで。渋谷より上流と支流は全て暗渠化されている。

 


3. 国土地理院・基盤地図情報 (数値地形モデル)5mメッシュ(標高)


(筆者コメント)下の図は『国土地理院・基盤地図情報(数値地形モデル)5mメッシュ(標高)』に玉川上水、三田用水とその分水、渋谷川の本流と支流、他に青山上水などの流れを描き込んだもので、言わば江戸・東京南部の川の「地籍図」です。この図は緑色、黄色、茶色のグラデーションによって地形の「高低差」を示しています。標高の目安は茶色が標高30-40mの高台、黄色が20-30mの丘と斜面、緑色が河岸と海岸部の低地です。この図の緑や黄色の土地は、渋谷川が、何万年もかけて淀橋台の地面を削り取った谷間や平地です。「自然の川」である渋谷川が削り残した高台を、玉川上水や三田用水などの「人工の川」が僅かな勾配を付けて流れています。後に「勾配図」で示しますが、流れを遮る谷間には堤を築いて通していました。このように、江戸・東京南部の川の仕組みは、渋谷川と玉川上水のハイブリッドです。






4.三田上水・三田用水の流路の勾配図

(筆者コメント)下の図は玉川上水の北沢村で分水された三田用水が、高輪台を経由して目黒川に注ぐまでの流れの勾配図です。三田用水の元である「三田上水」の時代は、高輪台から地中に入り、三田、芝を通って入間川へ注いでいましたので、このルート(茶色の線)も描き入れました(少し遅れて品川の八山下へも流れましたが、下図には入っていません)。勾配図を見ると、高台の峠を流れる三田用水が、東大裏、鎗ケ崎、目黒、白金台などの谷間を通る際に、堤を築いて土地を嵩上げして勾配を保っていたことが分かります。目黒駅は山手線を通すときに恵比寿、五反田の両隣の駅と高さをそろえるために窪地になりました(その時の様子は 2017.2.4「おわりに」 を参照してください)。なお勾配図の上にある数字とアルファベットは、「基盤地図」にある窪地のおおよその場所です。




5.玉川上水・三田用水と渋谷川の記憶

(筆者コメント)次は渋谷川や三田用水にちなんだ遺構の写真や地図など7点です。前の基盤地図のアルファベット文字の場所を示すと、A.余水川跡(新宿内藤町)、B.原宿村分水・取水口(南新宿)、C.三田用水・取水口(世田谷区北沢)、D.三田用水・別所上口(中目黒)、E.旧海軍技術研究所(中目黒)、F.千代が池(目黒駅近く)G.三田用水・築樋遺構(白金台)です。もっと紹介したかったのですが、スペースの関係もあって厳選しました。



 
 A.四谷大木戸・水番屋(現水道局)の余水が流れていた渋谷川(余水川)水路跡。右側の塀は新宿御苑。  

 
 B. 原宿村分水の取水口付近。大正10年頃。電線会社の水車を2台回した後に芝川へ注いだ。水色の縦の点線は筆者。


 

 C. 北沢5丁目の三田用水の取水口。左側の川の流れは玉川上水、右側の水門が三田用水。昭和28年。渋谷区郷土博物館・文学館所蔵。


 
 D.三田用水別所上口分水の滝(中目黒)。歌川國長「鑓崎(やりがさき)富士山眺望之図」東京大学史料編纂所所蔵。重要文化財。

 

 E.三田用水を用いた旧海軍技術研究所・実験用貯水池(屋根が緑色の建物)防衛装備庁艦艇装備研究所。


 

 F. 歌川広重「目黒千代が池」『名所江戸百景』国会図書館。三田用水を屋敷の泉水に利用。


 

 G.三田用水の白金台3丁目「築樋遺構」。堤を通る水路の断面をコンクリートで固定して保存。




6.玉川上水と三田用水、渋谷川の年表

(筆者コメント)これまで三田用水の年表は作ったことがありますが、渋谷川を入れるのは初めてでした。渋谷川は12万年の歴史があり、どこから入れたらよいか迷いましたが、玉川上水との結びつきを考えて、渋谷川が日本で最初に描かれた「寛永江戸全図」の時代(1642)から始めました。

<玉川上水と三田用水、渋谷川等の年表>

寛永19

1642

最初の江戸全図「寛永江戸全図」が作られ、渋谷川(水源は代々木)全景が描かれる。

承応2

1653

玉川上水(多摩川羽村-四谷大木戸)が開削。翌年に江戸城までが完成。

承応2

1653

玉川上水「水番屋」の吐水門から渋谷川に余水が流し込まれる。

明暦3

1657

細川上水(下北沢村-高輪伊皿子)が細川越中守私邸の庭園・飲用水として開削。

万治3

1660

青山上水(四谷大木戸-赤坂・芝)が完成。明治14年に麻布水道として一時復活した。

寛文4

1664

三田上水(下北沢村-三田・芝・金杉)が細川上水の隣接地に並行して開削。

元禄11

1698

白金の麻布御殿(将軍綱吉別邸)造営のため三田村から分水(白金上水・渋谷川へ)。

享保7

1722

「享保の改革」の最中、三田上水など江戸四上水が廃止、細川上水も閉鎖。

享保7

1722

幕府が「新田開発奨励の高札」を江戸日本橋に立てる。併せて灌漑整備を推進。

享保9

1724

三田上水を農民に払下げて「三田用水」と改称。渋谷川へ灌漑用の分水が活発化。

享保9

1724

玉川上水に原宿村分水(南新宿―原宿村、穏田村)が開かれ、渋谷川(芝川)に分水。

享保9

1724

三田用水(下北沢村-白金猿町ー北品川宿)の管理のため十四カ村が水利組合結成。

享保18

1733

渋谷川の水車がこの頃から始まる(元禄年間の説も)。人力に代わり精米・製粉を行う。

安政4

1875

幕府が目黒の三田村に火薬庫と火薬製造水車を建造して三田用水を用いる。

明治3

1870

玉川上水の分水口が改正され、分水口の統合と元樋口の基準化が図られる。

明治11

1878

三田用水の各村の分水口が改正され、水路管理や経費賦課等が決まる。

明治13

1880

目黒火薬製造所が設置され18年から操業。道城口、田道口から取水する。

明治16

1883

三田用水の実態調査『三田用水取調表』が出る。歳入の7割を水車が占める。

明治21

1888

日本麦酒醸造が田道口から取水して製造開始。33年に銭噛窪口とも契約。

明治23

1890

「水利組合条例」が施行され水利組合が公法人の三田用水普通水利組合に。

明治35

1902

日本麦酒が7万石の第1貯水池を竣工。また42年に30万石の第2貯水池完成。

明治40

1907

三田用水の水車設置数が49ケ所とピークに。大正時代になると電力化で水車数が急減。

明治41

1908

「水利組合法」が制定され水利組合の管理体制や財政基盤が強化される。

昭和2

1927

笹塚取水口が鉄製の枠組・扉に改修され、三田用水口と火薬製造所分水口が並立に。

昭和4

1929

日本麦酒が笹塚取水口と目黒間にヒューム管を敷設。完成は昭和1314年。

昭和5

1930

目黒火薬製造所跡に海軍技術研究所が創設。巨大な実験用貯水池を建設。

昭和5

1930

都道19号線新茶屋坂に三田用水を渡す隧道が建設される。平成15年撤去。

昭和21

1946

海軍技術研究所の敷地が占領軍に接収される。返還後は防衛庁技術研究所。

昭和27

1952

「土地改良法」制定(24年)に基づき三田用水普通水利組合が法的解散へ。

昭和36

1961

東京オリンピック(1964)開催決定により渋谷駅以北の渋谷川と全支流の暗渠化(下水道化)が決定。

昭和44

1969

水利権・土地所有権を巡る水利組合と国・東京都の係争で最高裁が上告棄却。

昭和49

1974

東京都水道局が三田用水の元樋口を閉鎖して通水を停止する。

昭和50

1975

防衛庁技術研究所が三田用水を水道局に切り替える。

昭和57

1982

三田用水の旧今里口の近く(港区白金台3丁目)に「築樋遺構」が保存される。

昭和59

1984

三田用水普通水利組合が土地売却などの清算事務を結了して消滅。

平成8

1996

銭噛窪分水口の近く(目黒区三田1丁目)に「三田用水跡」の碑が設置される。

平成27

2015

港区白金台3丁目-港南1丁目の新道路計画で「築樋遺構」等の保存が課題に。

平成30

2018

渋谷駅南口に渋谷ストリームが開業し、再生水による「壁泉の滝」と遊歩道が誕生。



7.参考文献・資料

 (筆者コメント)パネルの地図や年表を作る上で多くの文献や資料を参考にさせていただきました。本の著者や資料を作成された方々に感謝いたします。皆素晴らしい文献や資料です。

<参考文献・資料>三田用水普通水利組合『江戸の上水と三田用水』岩波ブックセンター信山社 昭和59年、堀越正雄『日本の上水』新人物往来社 昭和45年、伊藤好一『江戸上水道の歴史』吉川弘文館 平成8年、渡部一二『武蔵野の水路-玉川上水とその分水路の造形を明かす』東海大学出版会 2004年、小坂克信「近代化を支えた多摩川の水」とうきゅう環境財団 2012、木村孝「三田用水研究」(WEB)、渋谷区立白根記念郷土文化館『渋谷の水車業史』1986年、田原光泰『「春の小川」はなぜ消えたのか-渋谷川にみる都市河川の歴史』之潮 2011年、貝塚爽平『東京の自然史』講談社 2011年、久保純子「相模野台地・武蔵野台地を刻む谷の地形」『地理学評論61 1988、『東京市史稿』上水篇第1・第2 東京市役所 大正812年、東京都水道局『上水記』 昭和40年、間宮士信他編『新編武蔵風土記稿・東京都区部編』第3巻 千秋社 昭和57年、蘆田伊人編集校訂『御府内備考』第45巻 大日本地誌体系4・5 雄山閣 昭和45年、『品川町史』上・中・下巻 品川町役場 昭和7年、『新修渋谷区史』上・中・下巻 東京都渋谷区 昭和41年、『目黒区史』『同資料編』東京都目黒区 昭和36年、『麻布区史』東京市麻布区役所 昭和16年、「貞享上水図」国立国会図書館所蔵、「文政十一年品川図」前掲『品川町史』上巻、『一万分の一地形図 東京近傍 明治42年測図 大正5年修正』 陸地測量部、近藤源一『東京市近傍部町村番地界入-明治44年』 東京逓信管理局 人文社版 昭和61年、近藤源一『東京市十五区番地界入地図-明治40年』人文社版 昭和61年、『東京都市地図23』柏書房 1996年、『東京五千分一実測図 明治20年測図』内務省地理局、大日本測量、『東京時層地図』他。

 
 

8.パネル展示を見学された方の感想

パネルの展示会場では、来場者に感想をお聞きしてメモに残しました。子供の頃に三田用水で遊んだことを話される方もおられて、とても楽しく、また大変勉強になりました。以下にご紹介します。



  会場風景:代田橋・笹塚の開渠遺構のパネルを見学する。

   沼田さん:小さい頃白金台3丁目の遺構の所で遊んでいました。1967年から1968年の頃のことですが、白金台の道の脇に高い土手があった。泥の土手で不思議な地形だった。小学校から塾に行く前にそこで滑って遊んでドロドロになり、塾の先生に「こんな泥だらけの子どもは入れてあげない」とよくいわれた。何故こんな所に土手があるかと思ったが、今日展示を見てよく分った。三田用水を流した堤だったのだ。当時上の三田用水の溝にはもう水は流れていませんでした/男性、1956年生まれ、三鷹市。

 

   野口さん:小学3年、8才の頃おじいちゃんに連れて行ってもらい、羽村から新宿まで歩いた。お姉さんと家族で歩いた。マイマイズ井戸の写真など撮って夏休みの学校の宿題にした。もう20年前になるが、玉川上水の展示をやっていて懐かしくなって寄りました/女性、1994年生まれ、新宿区。

 

   田保さん。玉川上水の現代図があると良かった。現代地図で特に新宿御苑の所など玉川上水の場所を特定出来ると良い。他の地域の写真もあった方が良かった/男性、新宿区。

 

   (若い男性)国分寺分水、恋ヶ淵分水の傍に実家がある。家に帰るとその辺りで良くランニングする。津田塾近くで林がきれいな所。「小さな傾斜で自然に流すことで東京までたどり着けたのはすごい技術力なので感心する。」(会議の時間直前までパネルを一生懸命見てくれた。はっと時間に気づいて帰られた。

 

   (大学の先生)江戸の水利技術はすごかったと思う。どこと比べてもひけは取りません/女性、世田谷区。

       ご感想をいただき、ありがとうございました。                                    

(<その2>終)

 


2023.7.21


<報告に先立って>

20221119日、玉川上水・分水網に関する新宿および関連地区の講演会と展示会が新宿区四谷区民センターで開かれました。主催は「玉川上水・分水網を生かした水循環都市東京連絡会」です。この会は、玉川上水を世界遺産にすることや、玉川上水に水を流して東京の防災に役立てることなどを目標に掲げており、素晴らしいと思います。今回のイベントには「玉川上水ネット」を初めとする多くの団体が参加し、東京都教育委員会も後援しました。幸運なことに、この会で報告と展示をする機会をいただきました。

事務局長の辻野五郎丸先生からのお話は、渋谷川と玉川上水・三田用水がどのように「協働」して水系を作ってきたのかという問題でした。私はこれまで「自然の川」である渋谷川と「人工の川」である玉川上水や三田用水の結び付き(ハイブリッドな水システム)を調べてきましたが、広く武蔵野台地の川を研究されている辻野先生は、これを地域モデルの一つと見られたようです。専門の研究者の方々と一緒に報告するのは心細かったですが、何とかがんばってまとめ、また展示物も作りました。以下はそのご紹介です。



新宿区四谷地域センター12階多目的ホールで「玉川上水と渋谷川・三田用水のハイブリッドな水システム」を報告する筆者。(冨安様撮影)

今回の報告と展示に際しては、辻野五郎丸先生と鈴木利博先生(玉川上水ネット)に大変お世話になりました。この場を借りて厚くお礼申し上げます。また会場の受付や撮影でお手伝いいただいた「渋谷川・水と緑の会」のメンバーの方々に感謝します。それでは、講演会での報告に入ります。

<報告:玉川上水と渋谷川・三田用水のハイブリッドの水システム>

「渋谷川・水と緑の会」の梶山です。初めに、このようなお話の機会をいただきましたことを、関係者の方々にお礼申し上げます。今日は地元(新宿および関連地区…筆者)の話題提供ということで、「玉川上水と渋谷川・三田用水のハイブリッドな水システム」というタイトルでお話しをさせていただきます。パワーポイントの画面に目次がありますが、この順に沿って話を進めます。


 


このタイトルと目次をご覧になって、今日は玉川上水の話と思っていたが、なぜそこに渋谷川が出てくるのだろう、あるいはハイブリッドな水システムという言葉はあまり聞かないが何のことだろう、と感じた方もおられると思います。今日はその辺りが話の中心になります。

 

1.「人工の川」と「自然の川」


 (図1)江戸・東京南部の市中では、「人工の川」である玉川上水や三田用水が、「自然の川」の渋谷川支流と結びついて水システムを形成していた。玉川上水から2本(三田用水と原宿村分水であるが、他に屋敷用2本)、三田用水から6本の分水が渋谷川の谷間に流し込まれていた

図1は、「江戸・東京南部の市中」における玉川上水と渋谷川、三田用水の関係を示した「概念図」です。ご覧のように、これらの三つの川は「逆三角形」のような関係にあります。


まず「上の辺」が承応4年(1654)に完成した「玉川上水」で、ご存じの通り、羽村で取水し、小平、三鷹を通って四谷大木戸まで流れています。


次に「左の辺」が、玉川上水の分水の三田用水です。この三田用水は、元々は「三田上水」として始まりました。「三田上水」は寛文(かんぶん)4年(1664)に開かれ、下北沢村(今の北沢5丁目)で取水し、駒場、目黒を通って、白金猿町(高輪台駅)までは地表を流れました。そして、ここから地下に設けられた石樋や木樋に入り、北の三田、芝、あるいは南の八山下、北品川へと流れ、武家や寺社、町民に飲み水や庭園の泉水を届けていました。それが享保7年(1722)に幕府の命で突然廃止となり、享保9年に田んぼの灌漑用として農民に払い下げられ、名前も「三田用水」になりました。三田上水の開削から60年後のことです。流れは短縮されて下北沢村から白金猿町までとなり、流末は大崎村、北品川村を通って目黒川の小関橋辺りに注ぎました。


次に「右の辺」が渋谷川です。天現寺橋からは古川と名前が変わります。この川はおそらく10万年以上前に生まれた「自然の川」で、湧水と雨水を集めて流れていまた(注)。玉川上水が完成した後は、渋谷川の「上流部」では四谷大木戸の余水と原宿村分水から、「中流部」では三田用水から分水を受けて、水量が豊かで安定した川に変わりました。他にも、内藤家下屋敷(今の新宿御苑)の玉藻池など、幾つかの武家屋敷の庭園の泉水からの流れを受けていました。


この水システムの特徴は、玉川上水や三田用水のような「人工の川」と、渋谷川という「自然の川」との「ハイブリッド(異種の組合せ)」にあります。高台を流れる「人工の川」の分水口から低地を流れる「自然の川」に水を流すことによって、田んぼを広く灌漑しました。図の赤丸が分水口で、玉川上水から主に2本、三田用水から6本の流れが渋谷川に注いでいました。この二つの異種の川が「協働」することにより、広い地域に効果的に灌漑を行いました。

 

2.淀橋台の地形と川の流れ

こうしたハイブリッドな水システムが生まれる上では、「江戸・東京南部」の地形の特性が影響しています。この地域は、武蔵野台地の東端にある「淀橋台」に位置しています。淀橋台は、約12万年前に地球規模の寒冷化で海面が後退することに伴って、関東地方を覆っていた古東京湾の海底から姿を現しました。歴史的には関東地方の多くの地域で海面が退いたのですが、この時に陸化した大きな平らな土地を「下末吉面(S面)」と呼び、淀橋台はその一部です。その上に富士山などの火山灰(関東ローム層)が約10m降り積もり、さらに土地の隆起も加わって今日の台地になりました。




 
(図2)真ん中の谷が渋谷川。水色(筆者)は玉川上水と三田用水。渋谷川は古多摩川の影響を受けない自生の川で、台地の地質が柔らかく傾斜が緩いため、谷幅が狭く、支谷が多く、川筋は樹枝状に伸びていた。その谷間に尾根を流れる玉川上水や三田用水から分水が流された。図は「武蔵野台地東南部の谷の縦断形による分類」久保純子「相模野台地・武蔵野台地を刻む谷の地形」『地理学評論611988より。黒丸は中流部。


  ここで図2をご覧いただくと、渋谷川が木の枝のような形をしていることが分かります。学者はこれを「樹枝状」とか「鹿の角状」と呼んでいます。淀橋台は海成の土地で、地質が柔らかく、元々ほとんど傾斜がなかったため、湧水の流れが木の枝の形をした細い谷間を作りました。この形がしっかり刻まれたのは、約2万年前の「ヴュルム氷期」と呼ばれる最も寒い時代です。

今の東京湾の土地が全て陸化して、その中心を巨大な古東京川が流れ、関東地方のほとんどの川が古東京川の支流となりました。古東京川の河口部は三浦半島の先まで及び、谷間は約120mと深くなりました。こうした古東京川の影響で渋谷川も急流になって勢いを増し、特に「ヴュルム氷期」に谷が最も深く刻まれました。それと共に樹枝状の支流も深く刻まれたことでしょう。今の渋谷川の原形はこの時代に完成したものと思われます。それが江戸時代になって、淀橋台の高地を流れる玉川上水や三田用水から低地を流れる渋谷川に分水が注がれ、効果的な水のネットワークが生まれました。もし人工の用水だけで広い土地に水を行き渡らせようとしたら、さぞ資金と労力がかかったことでしょう。



3.水システムの全体像

(図3.1)江戸・東京東南部の江戸明治からの主な川の流れを、言わば「地籍図」として「国土地理院・基盤地図情報(数値地形モデル)5mメッシュ(標高)」に描き入れ、「ハイブリッド」な水システムの全体像を示した。高度の色の目安は、茶色が標高30-40m前後の高台、黄色は20-30m前後の丘、緑色が渋谷川の河岸や東京低地。地図の左下は三田用水の分水口の一覧。

3.1は、江戸・東京南部の主な川の流れを、高低差が分かる国土地理院の基盤地図に描き入れて、「ハイブリッドな」水システムの様子を具体的に示したものです。言わば過去から現在にかけての「川の地籍図」です。色の目安ですが、茶色が高台、黄色は丘や斜面、緑色が渋谷川の河岸や沖積層(川や海が運んだ土砂)に覆われた東京低地です。北の茶色の尾根を東西に走るのが、先に「逆三角形」の「上の辺」と述べた「玉川上水」で、図の上の真ん中に玉川上水の「終点」の四谷大木戸が見えます。玉川上水はここから地下に入り、江戸城を始めとする市中を流れます。

次に、図の左上の笹塚駅近くから斜め下に降りている黒い線が「三田用水」です。渋谷の西に位置する高台の峠を伝わって笹塚から東南の方向に流れ、図の右下にある高輪台駅で目黒川に下っています。

最後に、図の中央を木の枝のような形で流れている「渋谷川」は、渋谷で新宿や千駄ヶ谷からの穏田川の流れと代々木や西原、上原からの宇田川の流れを併せ、さらにいもり川や笄川の流れも受けて東京湾に向かっています。その途中で、先程述べたように、玉川上水と三田用水から多くの分水を受けていました。

渋谷川は「自然の川」ですので湧水を水源としていますが、これまで述べた3つの大きな「人工の水源」からも大量の水を受けていました。これらが無かったら、近代の渋谷川の姿は全く違う物になったでしょう。次ぎにそれら3つの水源の特徴を述べます。

先ず、第1の人工の水源は玉川上水の終点「四谷大木戸」の余水です。昔はここに「水番屋」があり、そこで水のゴミをさらい、水量を調節して江戸城と市中に水を供給しました。その余り水を「渋谷川」に流し、この余水が渋谷川の最大の水源になったのです。ここから神宮前3丁目の原宿橋辺りまでを地元の人は「余水川」とも呼びました。なお「水番屋」の場所はこの会場の土地です。

2の人工の水源である玉川上水の「原宿村分水」は新宿の副都心の南側(代々木3丁目)にあり、ちょうど三田上水が払い下げられた時期に幕府が灌漑用に作った分水です。この地を流れていた小川(地元では芝川や代々木川と呼んでいます)に水を流し込んでおり、原宿橋まで複線の水路が続いて田んぼを灌漑していました。なお、玉川上水が完成する12年前の寛永19年(1642)年に作られた「寛永江戸全図」では、この小川の起点(現在の明治神宮「北の池」の北側の低い土地)が渋谷川の唯一の水源として描かれております。



   

(図3.2)「穏田の水車」。葛飾北斎70歳頃の作品、天保元年~3年(1830-32)頃。伝統的な精米水車を描いた。穏田川には、四谷大木戸からの余水川と原宿村分水からの芝川が合流しており、幾つもの水車を回していた。この絵のモデルは穏田川の「村越の水車」と言われるが、確定していない。絵は神宮前交番の標識より。


以上の余水川と芝川が合流する原宿橋の辺りは、昔は川あり池ありで、水がたいへん豊かな土地でした。この原宿橋辺りから渋谷駅までの流れを「穏田川」と呼びましたが、この川筋の上に作られた暗渠の道が今のキャットストリートです。図3.2はこの穏田川に架かっていた「穏田の水車」で、北斎の「富嶽三十六景」にある有名な絵です。水輪が2丈2尺(6m以上)という大型の水車で、ここを豊かな水が流れていたからこそ回すことが出来た訳で、玉川上水からの余水や分水の大きさが偲ばれます。


ここで、図3.1を再び見ていただき、渋谷川の第3の水源である三田用水について説明します。ここには全部で6つの分水がありました。これらの分水のルートですが、元々渋谷川の支流が作った谷であったと考えられます。そのため、分水を流すために開削した区間は、尾根にある分水口から渋谷川支流の谷頭までのごく短い区間で、後は自然の川の水路を使って渋谷川の河岸まで水を届けていました。⑫銭噛窪口分水(かつての白金口)など、分水口のある尾根から滝のように渋谷川支流に水を落としていた分水もあります。以上の説明で、玉川上水、三田用水と渋谷川の繋がりがご理解いただけたと思います。


4.時代で変わる用水の役割

初めに述べましたが、三田上水の60年間は高輪や三田、芝の武家や寺社、町人に飲み水や泉水を配り、泉水などの「残り水」を農民が灌漑に充てていました。三田上水の7年前に伊皿子の下屋敷に引かれた「細川上水」ですが、「細川家記(けき)」には、明暦3年「池を穿ちて玉川上水を注ぐ」とあります。この話が史実ならば、屋敷の池を作るためだけに玉川上水の水を引いたことになります。小話としては面白いですが、実際には江戸南部に武家屋敷や寺社、町屋を作るために必要な水道であったと思われます。

徳川吉宗の「享保の改革」が始まり、幕府は新田開発を促す政策を積極的に進めました。このため享保7年(1722)になると、三田上水など幾つかの上水を廃止し、水道を主に飲用と泉水用に用いていた時代が終わりを告げました。この背景には江戸市中での井戸の普及があったと言われています。このため三田上水は田んぼの灌漑用水として農民に無償で払下げられ、名前も三田用水に変わりました。武蔵野の新田開発もこの頃に進み、淀橋台を含む武蔵野台地全体がどんどん耕地に作り変えられていきました。原宿村分水も作られました。図4.1は三田用水の「別所上口分水」を描いた國長の「鑓崎(やりがさき)富士山眺望之図」ですが、分水が数段の大きな滝となって田んぼに降り注いでいます。三田用水の利用が武士から農民の手に移ったことを強く感じさせます。

   

(図4.1)三田用水の「別所上口分水」が、目黒新富士の脇からの大きな滝となって中目黒の田んぼに落ちている。歌川國長(1790-1829) 「鑓崎富士山眺望之図」。東京大学史料編纂所所蔵(重要文化財)。

歴史的に見ると、江戸時代の「享保の改革」こそが、江戸・東京南部の地にハイブリッドな水システムを作り出した原動力でした。流域の14カ村の農民は、三田用水に17の分水口を設け(明治時代には19に増えます)、組合を作って自分たちの手で管理しました。そして分水を渋谷川の多くの谷間に流し込み、その先々で水路を「延長」し、「迂回」させ、あるいは「複線化」して、田畑の面積を増やしました。これが食料の増産となって、人口増加を続ける江戸・東京の街の発展を支えたのです。

江戸後期になると、水システムの役割がさらに多様化します。先ず地主や商人が分水の水路に多くの水車を設けて、精米や製粉業を営むようになりました。明治になると、精米業の他にも、火薬や繊維、金属などの近代的な産業の動力に水車を使うようになりました。



   

(図4.2)三田用水・鉢山口分水の分水口の東側にあった「角谷の水車」は近代産業を牽引した。渋谷区教育委員会所蔵。明治初めは水車を使って「米搗き」をしていたが、やがて「綿打ち業」を始めた。水車の方式は上掛けで(絵の左下に水車用水)、工場では蒸気機関を併用した。

4.2はその一例で、三田用水・鉢山口分水にあった「角谷の水車」です。初めは米搗きでしたが、やがて綿打ち業に変わりました。上図は水車と蒸気を利用するダイナミックな工場の絵です。また玉川上水・余水川での話ですが、日本で初めて鉛筆を考案した眞崎仁六(まざき・にろく)は、明治20年に今の内藤町に水車を借りて鉛筆製造を始めています(後の三菱鉛筆です)。明治の後半には、三田用水に49(本流と分水、目黑川に向かう分水の物も含む)、渋谷川の本流に11台の水車が回っていました。


   

(図4.3)三田用水を工業用水として用いた日本麦酒の第二貯水池。『目黒区史』より。今の恵比寿ガーデンプレイス内の旧「三越」付近にあった巨大な水槽(一辺100m×深さ9m)で、ビールの製造とビンの洗浄に使われた。他に工場西側に第一貯水池があった。 

 


三田用水の用途はさらに広がりました。図4.3は、恵比寿の日本麦酒がビール製造や洗浄に使った巨大な貯水池です。明治42年に作られた「2号貯水池」で、縦横100m、深さは9mありました。また次の図4.4は、同じく工業用水に用いていた目黒の火薬製造所で、絵の右側の建物群です。他にも、海軍研究所が艦船実験用のプールに、目黒や高輪消防署が消防用水に、さらに大型庭園の泉水などに用いられました。その頃になると三田用水の周りは住宅地となり、農地はほとんど無くなりました。

   

4.4小林清親「目黒いゑんひう蔵(目黒焔硝蔵)」部分。目黒区めぐろ歴史資料館所蔵。図の右側の煙突と赤煉瓦の建物群が目黒火薬製造所。明治18年に工事が完成し、三田用水の水車で火薬製造が始まった。その後蒸気機関も使用。

 

 


三田用水は、昭和49年(1974)の通水停止まで250年の間(三田上水を含めると310年間)、田んぼの灌漑の他にも様々な形で、産業の発展や人々の暮らしを支えました。 

最後に本日の話をまとめますと、まず、この地域の水システムが「人工の川」である玉川上水・三田用水と、「自然の川」である渋谷川の「ハイブリッド」によって成り立っていたこと。次に、こうした水システムの実現には、渋谷川の地理的な条件と樹枝状の谷間が巧みに使われていたこと。そして、江戸の「享保の改革」が、この地にハイブリッドな水システムを作り出す歴史的な転換点になったことを述べました。また明治以降、こうした水システムが、田んぼの灌漑以外にも、、繊維、化学、金属、火薬製造用の水車の動力や工業用水などによって近代化に貢献した姿も併せてご説明しました。以上で話を終わらせていただきます。本日はご清聴をありがとうございました。

 

(注)渋谷川がいつ淀橋台に誕生したかについて、地理学者の貝塚爽平は「淀橋台や荏原台では、海底から海岸平野に移り変わると共に、そこに降った雨が新しく流路を作ることになった。今の渋谷川〜古川、溜池の川とそれらの支流の前身が、このとき現れたのである。」(『新修港区史』p20)と述べています。                    

 





(参考資料)講演会のプログラムと内容/講演資料より

 玉川上水・分水網関連遺構100選 上下流連携(羽村~日本橋)地区別展示と講演

5回 新宿および関連地区の展示と講演


●展示

 日時:20221117日()から1120()

 場所:新宿区四谷区民センター1階プラザ

●講演

日時:20221119(() 13301530

場所:新宿区四谷地域センター12階多目的ホール

【プログラム】  

 司会:寺井しおり(中央大学研究開発機構専任研究員)

     早澤華怜 (中央大学大学院理工学研究科都市人間環境学専攻修士2)

講演

1.江戸御府内と玉川上水                        

    真下 祥幸 (江戸東京博物館学芸員)

2.水循環と防災の視点から見た外濠 

    細見 寛(中央大学研究開発機構客員教授) 

3.玉川上水と渋谷川・三田用水のハイブリッドな水システム              

梶山 公子(渋谷川・水と緑の会代表) 

4.玉川上水関連遺構100選地区別展示と講演 第15              

    辻野 五郎丸(玉川上水・分水網を生かした水循環都市東京連絡会事務局長)

講評 山田 正(中央大学研究開発機構教授) 

 

                玉川上水・分水網を生かした水循環都市東京連絡会

 

(当日会場配布「講演資料」より掲載。展示の日時場所を加筆。)



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