千々石街道をめぐる考察



 
  一枚の古地図との出会い

以下、スリリングで推理小説を読んでいるようでした。

古地図の面白みにはまり、国立公文書館デジタルアーカイブのこの地図(クリック)で島原半島を見ていて驚きました。 「なんだ、この島原城から千々石に島原半島を横一文字に走る道は!? 無茶苦茶な道だな」 この地図は幕府の命でつくられた天保国絵図。幕府の命でつくられた地図に記されているということは、主線道と認識された道であるということ。 この道に何か書いてあるな、どれどれ……(上図アップ部分)。読めない。そこを捨老さんから「此壹里山之間坂有難所荷附馬不通」、つまり「ここから一里は山間部の坂で難所があり、荷物を付けた馬は通れない」という意味だと教えていただきました。合掌。当時から険しいコースであったことがわかります。
どこだろう? 千々石(ちぢわ)から山の中へ分け入る道は心当たりがありました。千々石から田代原キャンプ場に至るコースです。通ったことがあります。これって九千部岳T断層沿いの険しい道なんです。おいおい、あれを徒歩でいくなんて、とんでもないですね。

一方、田代原キャンプ場から東へと伸びて島原城に至る道が思い浮かびません。どのコースだ? 島原城付近のコース周辺を確認しますと、三会村の寺中名と、杉谷村の山寺名が読み取れます↑。
そこで 「三会村寺中名 杉谷村山寺名 街道」 で検索しますと、「伊能忠敬測量による長崎県内の主な街道・千々石街道」というサイトが出てきました。ここは以前拝見したことがあり、伊能忠敬が計測した道を辿っていらっしゃる優れたサイトでした。詳しく読んでいきますと、こんな地図↓が載っていました。

赤い道が、千々石街道といい、伊能忠敬が計測して歩いています。お!、地図中に杉谷村山寺名があります。その近所に三会村寺中名があることも知っています。これか。探していた道は千々石街道というのか。そして伊能忠敬一派も通った道なのか。千々石街道の詳しいコース図はここからダウンロードできます(pdfデータ)。ダウンロードして地図を見ますと、田代原〜島原市側の山道は前述サイト管理者も道不明瞭・危険と記した状況とのこと。実に興味深いルート。地図に見入ってしまいます。
さらに「千々石街道」で検索しますと、一説には勝海舟や坂本龍馬が通った道との見方もあるとのこと。これは怪しいでしょうけれど。さらにこのブログ管理者は千々石街道を実際に歩いてらっしゃいます。体を張ったリポートはここから。江戸時代の街道跡が山中に残っているのですね。文章も面白いですし、掲載写真も必見です。やはりコースの多くが忘れられた状態になっているようです。

  • thomさんのコメント
    地図をずっと眺めていました。 礫石原から国道389号に抜ける部分がピンときません。 あの一帯は舞岳もあるし、稜線と深い谷が近い距離で並んでいますよね。 なぜあそこに荷物を運べない街道ができたのか? 歩き専用道ってのがあったのでしょうか。

  • まつをのコメント
    同感。 私もあの辺りが一番ピンときません。 歩いたリポートではここここあたりですよね。

    教科書的に言うなら、当時は大量荷物の運搬は海路であり、陸路中心の思考は現代になってから。車社会出現以前は身一つで移動する道も必要だったと。けれど、お立ち場の水から赤岩神社までのコースのとり方がピンときませんよね。今では消えていますし。それがなぜ主線道として活用される道であったのか……。

    クリックで拡大図
    わかったかも。 第1に、3D化してみると適切なコース取りです。 第2に、湯江川、土黒川と川を辿り、飲み水の確保ができやすいコース取りです。

  • thomさんのコメント
    なるほど、確かに。その道がなぜ現在に残っていないのかも不思議です。

  • まつをのコメント
    >その道がなぜ現在に残っていないのか
    その点が私たちが共通に思い浮かべていた謎でしたね。これも解けたようです。

    ↑湯江川上流をグーグルマップでアップしてみます。
    するとダムのようなものが見えます。これは砂防ダム。同じように土黒川の上流にも砂防ダムが見られます。実は湯江川、土黒川の上流は平素は水が流れておらず雨天時のみ流れる川のようです。つまり、先の、「湯江川、土黒川と川を辿り、飲み水の確保ができやすいコース取り」という認識は誤り。
    さらに、湯江川流域には地形的に氾濫しやすいと考えられる場所があるという論文があり、そこに土石流の氾濫予想ルートが記された地図を見つけました(『雲仙普賢岳地域の地形変化と災害危険度の予測.』- 京都大学防災研究所)。

    この図と千々石街道を重ね見ます。すると……。

    もうお分かりですね。二つの川は度々氾濫を繰り返していた。江戸時代は千々石が移動は主要街道の一つであったため、その度に修復されてきていた。しかし、鉄道の発達によって海岸沿いのコースに流れが移りました。戦前はこの一帯は住む人とて少ない地域でもありました。さらにモータリゼーションが発達。こうして修復の手は止み、氾濫に任される状態が続き、街道は消えていったのでしょう。
    さて、この推論はあっているでしょうか?
    (注:戦後に開拓団として入植された方々の植林活動も関係しているようです)



魚洗川

千々石街道を巡ったイベントがネットで紹介されていました。そのコースとして、1日目:島原城桜門→杉谷→魚洗川茶屋跡→田代原 との記事。魚洗川?! 懐かしい。これは「いわれご」と読みます。私の地域では「いわらご」と呼んでいました。島原に住んでいた子供の頃に耳にしていた地名。そうか、魚洗川を千々石街道は通っていたのか。
万事この調子です。千々石街道に関する本なしでこの記事を書き進めていますので、こうして事実に出会うたびに新鮮な驚きを味わっています。本なしで調べすすめる面白さ。しばらくこれで行きます。
で、魚洗川ってどこだ? 検索。

↑おお、ビンゴ! 前記事でthomさんたちと話題にしていた場所です。


「伊能忠敬測量による長崎県内の主な街道・千々石街道」サイトでも、魚洗川は「字魚洗河内」と記されています(地図右上)。
検索をすすめますと、興味深いことが分かってきました。
・島原の殿様が千々石街道で長崎へ出向く際、魚洗川で一休みし昼食を食べていた。
・千々石から魚を島原方面まで運ぶ途中、ここで魚が傷まないように洗っていった。これが魚新川の名の由来か。
・ここは往来が多く、茶家もかなりあった。 「魚洗川のこおりどうふ」、「魚洗川の馬」と言えば有名だった。
・昭和10年ころ1800m下方に開墾地ができ多くの住民が移住。昭和26年には一軒残っていた。
(以上出典:千々石deその日暮らし
・かつての魚洗川集落は現在の雲仙普賢岳災害の砂防ダムの中に位置した。 そこには多くの石垣群や井戸などが残っていた。(出典:栗原農園HP管理人さんのブログ
両ブログとも実に前向きな姿勢の方のサイト。勉強になります。
なるほど、魚を洗ったり、茶屋があったり、井戸もあったりと、水が豊富な所だったということですね。私は前回の終わりに、「飲み水の確保ができやすいコース取りという認識は誤り」と書きましたが、前言撤回しなければなりません。このコースは飲み水の確保ができやすいコース。

なぜ水が豊富なのか。地図をじっと見ます。
「あ! ここは扇状地だ」
調べてみますとここは火砕流や土石流が積もった扇状地で、堆積物の厚さは最大20m以上とのこと(出典:日本の活火山)。けれど水が出やすいのは扇形の先っちょの扇頂部であり、魚洗川はもっと山間部。これ↓は、湧泉箇所が記された地図(出典:「農業用地下水研究グループ: 日本の地下水、地球社)。こうしてみると山間部にも湧水が見られることが分かります。




  魚洗川に湧水はあったのか

魚洗川に湧水があったか否か。地下水学会誌の論文『名水を訪ねて(44) 長崎県の名水 -島原湧水群-』に出会いました。この論文によると、有明町から西有明町までの地域には合計98ヶ所もの湧水が存在するといいます。以下、この論文から紹介します。
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島原半島の湧水は3つのタイプに分類できる。
@雲仙火山溶岩および凝灰角礫岩中の割れ目からの湧水
普賢岳や眉山などの安山岩質溶岩流の末端から湧き出るもの。標高 300〜400m以上の急斜面沿いに多い。宇土出口、江里神社、熊野神社など。
A扇状地砂礫層 ・眉山崩壊堆積物中か らの湧水
扇状地末端から湧き出るもの。深江町から島原市の標高20m以下の海岸線のもの、白土湖、浜の川湧水など。
B竜石層の砂礫層中か らの湧水
標高100〜120mの地形変換点や竜石層を切る浸食谷の谷頭付近においてシルト質細粒層を不透水基盤として上位の砂礫層中より湧出するもの。
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魚洗川の標高は、標高がワンクリックでわかる地図で確認。結果は312m。ということは標高 300〜400m以上の急斜面沿いに多いという@の可能性ありでしょうか




  魚洗川という地名の謎

〇大閑道人さんのコメント
当時の道幅って、どのくらいでしょうね。 「荷附馬には、通行不可」だとすれば、幅、1メートルもないのでは?? そうなると、次の疑問は、道の両側には、脊の高い木は生えていなかったのか、というもの。 道幅が狭い上に、道の両側に脊の高い木が生えていれば、 歩いていても、空はあまり見えなかったのではないか、と推測。 私は、高い山とか特徴のある岩を目印に方向を確認しながら歩いた、と考えたが、 果たしてこの考えは妥当でしょうかね。

○捨老さんのコメント
魚洗川。面白い地名ですね。「いわれご」も一見妥当な転訛に充てられた表記のようにも見えます しかし「本当にそうなのでしょうか」。古地図を読み解く醍醐味はこのあたりからはじまります(笑)。漢字名が後付であるかぎり 一考の余地があります。地名には突発的で単独なものもありますが 多くの場合その「名前」の登場には、生活史誌的な全体性から生まれ出た事を自己証明するかのような理由があります。「なぜ いわれご」と呼ばれるに至ったのかの一考は、古地図の誘いとも言えます。
まつをさんが提示された「天保郷帳」には「黒丸は一里塚」とあります。一里塚には、平地の街道であれば、榎・楠・松など時代によって定められてもいたようですが、山中となれば、よほどの巨老木でない限り名づけ標識には不向きとなり 特徴ある大岩や地形が有効となり、多く山道の標塚とされます。塚につけられた仇名も、そのまま旅の指標になりえます。たとえば 「いわれご」と一里塚は重なる位置にあるのでしょうか。そもそも、なぜ「いわれご」なのでしょうか。その命名には、全体性から生まれ出た自己証明は秘められてはいないのでしょうか。物語もこのへんからはじまるようです(笑)。

○まつをのコメント
「いわれご」の語源は、地元の郷土史家によれば二説ありとのこと。
語源1、千々石の行商が魚が傷まないように清水で魚を洗ったから。
語源2、「いわ」は岩もしくは大きな石、巨石。その昔山岳信仰で栄えた霊峰雲仙の入り口の岩を指す。 これは大閑道人さん、捨老さんのご指摘のとおり、ランドマークとなる巨岩から「いわれご」の名が来ているとの説ですね。 今、グーグルマップで調べてみてゾッとしました。魚洗川から千々石街道沿いに山手を仰ぐと、こんな光景になっています。正面に山が。

この山は鳥甲山(とりかぶとやま。注:後で調べてみると鳥甲山はこの右側で隠れて見えません)。住民の信仰を象徴する霊山で、赤岩観世音が巨岩下の穴に祀られています(出典:千々石deその日暮らし)
さらに魚洗川の旧集落にも赤岩観世音が祀られています
以下、赤岩観世音について転記(出典:奥雲仙の自然を守る会)。
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 〔奥雲仙むかし話(赤岩観世音さま)〕
国見町八斗木(はっとき)の南、鳥甲山(とりかぶと)822mの東で、矢筈岳(やはず)のすぐ西にあたるとこが、”観音平”(かんのんびら)とよばれています。その中腹にあたるところに岩穴があり、この中に、島原半島三十三番の札所中の第二十八番の白衣観音(びゃくいかんのん)がおまつりしています。この赤岩観世音さまは、たいへん古くからおまつりしてあったそうです。
大宝元年(七〇一)、行基(ぎょうき)というえらいおぼうさんが、雲仙に温泉山・満明寺をひらかれました。この時、行基上人は田代原にも、寺や僧坊を建てたいという願いを込めて九千部岳で苦行をしました。
赤岩観世音さまは、この行基の願いを助けてやろうとした伝説があります。この言い伝えから考えると、温泉山よりまえ、いまから千三百年もまえにまつられたことになります。この赤岩観世音さまにおまいりすると、ご利益が多いせいでしょうか、魚洗川(いわれご)や八斗木(はっとき)の人はもちろん、島原や有明など、遠くの村からもたくさんの人々が、おまいりにきています。
 〔ご命日〕
むかしは、なにごとにも旧暦でしたので、この観世音さまのご命日も、旧の三月十八日だったそうです。この日は、晴着をきた善男善女(信仰の深い男女)が長い列をして、おまいりしました。またこの日は、里のほうから道ばたでいろいろなものを売る店が赤岩観世音さまのある山奥までのぼってきました。そして、お酒やうどん、おかしなどを売っていました。おかしは、まるいおこしのようなものや、ゆびわの形をしたおかしがありました。これを紙のこよりや、シュロの葉などをとおして、木の小枝につるしました。この小枝を肩にかつぎ、みんなで声高らかに歌を歌いながら、夜の山道を下り、家まで帰ったものだといいます。つぎに、旧の七月九日は『千日ごもり』といって、この日におまいりすると、千日おまいりしたと同じご利益があるといわれたので、おおぜいの人たちが集まりました。夜になると、ご詠歌(えいか)の合唱があり、それに流行歌がまじって、大変にぎわい、夜明けまでつづきました。このように、映画も、テレビも、カラオケもなかった時代の信仰と娯楽をかねた行事でした。
 〔赤溜り(あかだまり)〕
むかし、八斗木(はっとき)小学校の西側の丘で、神代(こうじろ)村との境のところに、広々とした野原がありました。今では、ほとんど開拓され畑になっていますが、ここは、八斗木小学校の運動会をしたところです。ここの南側を『赤溜り』といいます。ここでは、毎年旧の三月十八日になると、赤岩観世音さまの出開帳(でかいちょう)が、ありました。出開帳とは、老人や子供たちが、山奥までのぼれないため、赤岩観世音さまにこの『赤溜り』まで、来ていただいて、お祭りをしたのです。これをはじめた人は、岑若狭守(みねわかさのかみ)という人だそうです。ここでは、まわりを長い幕でかこみます。そして、中に祭壇(さいだん)をかざりました。まん中に、観世音さまのかけじく、そしてお神酒(おみき)、大きな魚、野菜、白米、塩などが並べられました。この時も、またで店が並んで、にぎやかだったといいます。
 〔その後の赤岩観世音さま〕
大正九年(1915)赤岩観世音さまを鳥兎(うと)神社の境内にうつされました。だから、赤溜りでしていた三月十八日のご命日も、七月九日の千日ごもりも、この鳥兎神社にうつされました。近ごろは、毎年八月十六日に”千日祭り”が行われて、芸能やのどじまん大会でにぎわっています。また、鳥甲山の中腹にある赤岩観世音さまは、あたらしくつくりかえられました。入口には大鳥居(おおとりい)が奉納されて、巌(いわや)の中には、古い像や新しい像がきちんとおまつりしてあります。遠くや近くの町から、たくさんの信者の人たちがおまいりしています。
赤岩観世音さまのご詠歌
  島原半島三十三番の中、二十八番
  白衣観音
  なにたかき いわやの
  やまの いわよりも
  かたきは のりの
  ちかひ なりけり
  崇台寺観音堂
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「いわれご」と一里塚の関係について。 各一里塚はどこにあったかについてはだいぶ探しましたが分かりません。 伊能忠敬の計測したやつが手掛かりがあるのではないかと調べてみたのですが。 島原城から二つ目の一里塚がどこにあったのか? なお伊能一団の千々石街道計測は、1812年11月11日。 ただし伊能らは二団に分かれ、一派が伊能を中心に南回りルートを計測し、 他の一派が千々石街道を計測とのこと。出典:『島原領測量と島原藩の地図作成』松尾卓次。




  魚洗川=石生川(いはあれがわ)説

○捨老さんのコメント
昨日の写真を見る限り魚洗川の古道ではないようですが、想像しますにおそらく古道は谷道ではなかったのでしょうか。と云うのは、常時は道(水無川)であっても、雨季には道自体が川となる可能性です。つまり、《魚生川(いおあれがわ)→石生川(いはあれがわ)》であった可能性です。
日本最初の天皇(神武天皇)は、名を「神倭磐余毘古(かむやまといはれびこ)」と云いますが、まさに「いわれご=磐生子」であり聖域の古称となりえます。鳥兜神社の創建も、この地名にあやかった創建のようにも思えてきます(笑)。

○まつをのコメント
捨老さん、なるほど! 魚洗川の地名の由来は「石生川(いはあれがわ)」ですか。納得できます。
また、大閑道人さんご指摘のとおり、写真からも住民や旅人の霊山として、ランドマークになっていたと。
さらに、調べていたように、魚洗川は水の豊かな土地のようです。そのことについて島原半島ジオパークで著名な地学専門家 寺井邦久さんに聞き取りをした結果、次のようなコメントをいただきました。

出典:産総研:活断層データベース
「魚洗川は土黒川の上流に位置する。あそこは山手に千々石断層などが迫り、複雑な地層をしており、地下には伏流水が流れている。その証拠に国道389号線沿いの牧場の地面はじゅくじゅくの状態だ(地図上で青い箇所)。さらに魚洗川は溶岩流の末端でもある。一般の方はご存じないが、溶岩はひび割れだらけで、水タンクだと思ってもらっていい。以上の地形的なことから、魚洗川は水が豊富であろう。湧水があるかどうかは確認していない」
ピースがはまってきたようです。あとは時期を見て現地に行ってみようと思います。



  赤岩神社

鳥甲山に鎮座され古くから住民の信仰を集めた赤岩神社。魚新川集落にも現在2社の赤岩神社を確認しています。こちらと、こちらです。2社とも川周辺と言っていい場所です。

赤岩観音の「赤岩」という言葉に、もしやと思い検索をかけますとこんな記述を見つけました。
■ 赤岩(あかいわ): 福島県福島市大笹生赤岩。火山の噴火によって生じた赤い岩がゴロゴロしているという自然地名。 【JR・第三セクター 全駅ルーツ事典 村石利夫 東京堂出版】
「魚生川(いおあれがわ)→石生川(いはあれがわ)」という捨老さんの指摘と関連がありそうですね。寺井さんも魚洗川が溶岩流の末端に位置することを指摘しています。下の火山土地条件図を見ても流れておりますね。なお赤岩神社とは神社名であり、おまつりされていらっしゃるのは白衣観音であることは前述のとおりです。

出典:国土地理院 火山土地条件図
火山土地条件図とは過去の溶岩流出などの地形特性を表したもの。

  • 捨老さんのコメント
    噴石と「赤岩」と言う名の関連のご指摘ですが、ボクはまだ赤岩神社も烏兔神社も、見聞しておりませんし資料も持ち合わせないので何とも言えませんが、昔(高校生のころ)国見町周辺をブラついたことがありまして、そのとき 「岩屋神社」の扁額がついたミニチュアのような石鳥居の祠を 山辺のあちこちで見かけた記憶があります。赤岩神社は本山のような位地だったのでしょうか。大岩の裂け目や大岩の下に社殿を作る様式は全国各地で見られます。たしか長崎の穴弘法も似たような様式だったと思います。噴石が神の吐瀉物と云う考えは大昔からあったようです。



  フィールドワーク

ついに魚洗川と赤岩神社に行ってきました。

〔結論〕
千々石街道は、極力高低差がなく、なおかつ極力水が入手しやすいルートで、島原半島を横断していた。赤岩神社は巨岩信仰のアニミズム的信仰のもとに置かれた神社である。


魚洗川(いわれご)を流れる土黒川(ひじくろがわ)
写真をご覧ください。これが魚洗川の奥上原橋から写した土黒川。そう、こんこんと清水が音を立てて流れていました。本当に澄んだ水です。これから上流にある新矢筈橋上で川を確認するともう水無川でした。つまり千々石街道は、極力水が入手しやすいルートでできており、その最も高い標高場所が魚洗川でした。さらに魚洗川の栗原農園さんから、「現在はダムの関係で湧き水は減りましたが ダムができる前は各所で湧き出てました」というコメントを頂きました。魚洗川に流れる水は、雲仙火山溶岩および凝灰角礫岩中の割れ目からの湧水であろうと思います。
写真をご覧いただけば、岩がゴロゴロとしていることも分かります。つまり、捨老さんのおっしゃるように「石生川(いはあれがわ)であった可能性」が高いと思います。


また魚洗川にある2社の赤岩神社も、実際に伺いますと、巨岩のもとに祀られた神社。写真をよくご覧いただくと、二つとも鳥居の奥に巨岩があることが分かります。これについても栗原農園さんから次のようなコメントを頂きました。「塚については祖父たちが『腹の神様』と祭る塚らしき物が千々石街道沿いにあります。 また、現在はわかりにくくなってますが、やはず橋より山手から入る道があり、音姫観音の横を通り現在の赤岩観音の大鳥居に続く道が千々石道と聞いてます。小学校の遠足のルートでした」
こちらの本社にあたるのが鳥甲山の赤岩観音(神社)でしょう。よしここまで来たらと思い、訪ねることにしました。田代原の近くの大鳥居周辺に車を止めて、山道に入って行きます。
すると写真のような千々石断層の巨岩むき出しの山道になっていて、イノシシが掘り起こしたであろう跡が点々とあります。そんな中を歩くこと25分、赤岩神社が現れます。
この存在感。人知を超えたものの力に満ち溢れ圧倒されます。ここが千々石街道で最も高い所にある神社として祀られたということが、納得される神々しさでした。実際、赤い岩ですので赤岩神社なのでしょう。雲仙の秘境と言えます。