長崎湾一周
   前半 長崎駅〜旭大橋〜旧ロシア村〜三菱長崎造船所〜女神大橋


長崎には海があり、都市があり、山がある。それが近接して繋がる街は早々にはない。
今回は長崎湾岸を一周する黄色で示したルートだ。
結果、17.5キロ、4時間15分。刻々と変化する環境に飽きることがない名コースだった。

11月某日。昨夜から引き続く雨音の中、目を覚ますも、午後雨上がる。降雨確率20%。上等。午後13時15分から出発。

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振り出しは長崎駅かもめ広場だ。アミュプラザ・ホテルニュー長崎方面に出て右折。旭大橋を渡る。今回は左廻りに周遊し、女神大橋を経て帰途につく。

旭大橋の歩道入口に注意。上写真のように進むと案内板が出ている。
黄色い階段を上がる。
旭大橋の歩道帯に至る。
視界が展開する。埋め立てられた海だ。





ロシア村
対岸へ。広い意味で稲佐と呼ばれるエリアだ。
階段で降り立ったところは旭町。

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稲佐は幕末から明治にかけて約50年間、子どもでさえ片言のロシア語を口にするほどロシア色に染まっていた。不凍港を求めたロシア艦船が多数停泊し、ロシア本国にもロシア村として聞こえていたのだ。古写真「南山手より長崎港湾奥を望む」(クリック、ズームできます)では、明治初期の長崎湾に多くの艦船が浮かんでいる様を見ることができる。ロシア船籍も多いことだろう。左手がロシア人居住地の稲佐エリアだ。
この橋の近くに、ホテルヴェスナーがあった(クリック、古写真)。稲佐お栄が経営するロシア人を対象としたホテルだ。彼女は「ロシア海軍の母」と称えられた女性だ。

  • 捨老さんのコメント
    お栄さんが造ったもう一つの茂木長崎ホテルは、ボクの小さい頃まだ残っていて、進駐軍のクラブハウスのような使われ方をしていたようだが、やがて三菱の管理となって、老朽化したまま放置されていたようだった。
    ニコライ二世が滞在したおり、艦船の精密な模型を鼈甲で作ってプレゼントした鼈甲屋があり、この鼈甲船は現在ロシアの国宝となっているそうだ。これと同じもう一つの鼈甲船がその鼈甲屋に保存されているというが、一度見せてもらいたいものだ。
    ニコライ二世が滞在を終えても 船員の中には帰艦せず、長崎に住み着いた者も多かったと言うが、その中の船員の一人と、長崎女との間に出来た子が、大泉晃の父 大泉黒石であった。

  • 散人さんのコメント
    お栄はニコライ二世が長崎を離れる前日、一夜を共にした。その夜、お栄は街から彫り師を稲佐まで呼んで互いの二の腕に「龍の入れ墨」を入れた。
    「殿下 また逢えますか?」とお栄はニコライの胸元で呟いた。
    「キョウ ガ サイゴデス」とニコライは瞑目して呟いた。
    お栄は 急に離れ
    「殿下! ここに龍の入れ墨をいれましょう」と袖をたくし上げ云った。
    「イレズミ? リュウノ?」とニコライはお栄のただならぬ決意にすこしたじろいだ。
    「契、ちぎり です」
    「チギリ デスカ?」
    「そう、契です。日本では三世を結びあったものはそうするのです」
    スルスルと帯を解く衣擦れの音が夜の静寂(しじま)を走った。
                『信平 走る』田屋敷酒散人著から
    お栄は実はスパイだったという説もある。佐世保の東郷中佐が担当だった。ニコライ二世のお栄にいった「もうこれが最後」の言葉は日露の関係からすると非常に暗示的だった。これによって東郷も日露の衝突は避けられないことを確信した。





三菱 長崎造船所
いよいよ三菱の城下町 飽の浦町に入る。

三菱通り。赤レンガの壁が歩道沿いに続く一帯だ。
長崎と造船の関わりのルーツは、長崎海軍伝習所にまで遡ることができる。1853年にペリー黒船が来航。2年後幕府は長崎奉行所内に泥縄式でこの組織を置いた。その使命は西洋式の海軍設立。幕府スタッフとして着任した一人に勝麟太郎(のちの勝海舟)がいた。ところが4年後、政策転換により伝習所は閉鎖される。

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しかし建設中であった船舶修理等の施設 長崎熔鉄所は1855年に完成。その後、長崎製鉄所と改称。明治維新を経て岩崎弥太郎に払い下げられ、これが三菱重工業の起源となった。古写真「長崎製鉄所」(クリック)にかつての状況が写っている。
そんな三菱の歴史を見学できる長崎造船所 史料館
閑話休題。
坂の街 長崎の中でも、マニア間ではつとに有名な最も急な坂「変電所の坂」。自動車も通行可の坂としては日本一。

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ここを自転車で登っている漢がいた。下るシーンでこの坂の急さが実感できる。

飽の浦トンネルを通らずに左折する。
すると三菱重工業の長崎造船所本館が見えてくる。

大きな建物だ。しかし周囲の施設があまりにも巨大なため、その威容が実感できにくい。
・捨老さんのコメント
造船所裏の杜に囲まれた禁足地 占勝閣。ボクは幼い頃、米軍の立ち入り見聞の折り立会人の一人として選ばれた叔父や父に連れられて邸内に入ったことがあった。その豪壮な広間や階段また調度品や額絵などに、ただただ驚いたことだけは覚えている。今はどうなっているのだろう。
立神へ。ガリバーの世界にようこそ。屹立する第2船台のガントリークレーン

ここからは工場萌えの方々には堪らない風景が続く。

戦艦武蔵はこの第2船台で作られた。戦艦大和とサイズや排気量とも同じ姉妹艦である。進水式の際、高波と水位上昇を引き起こし沿岸部が浸水したと伝えられている。

第2船台の北側に、第1ドック、第2ドック、第3ドックと続く。1905年に建設された第3ドックは、当時の姿を残し現在も稼動している。
(1)旧第一ドック 明治12年から昭和38年まで運用、その後埋立。
(2)旧第二ドック 明治29年から昭和40年まで、昭和40年から47年までは第四ドックに呼び名が変わる。その後埋立。
(3)第三ドック 明治38年から現在まで変わらず使用(途中拡張された)。
(4)新第一ドック 昭和40年から現在まで。
(5)新第二ドック 昭和40年から現在まで。

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今、長崎市で第二次産業が総生産額に占める割合は2割を切る状況となっている。

『第二次長崎市経済成長戦略』長崎市商工部から)





女神大橋
西泊トンネルへ。

出たところが西泊番所跡。

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西泊があるなら東泊もあるのか。ある。対岸の戸町である。江戸時代、双方とも番所が置かれ湾警備を行っていた。
木鉢トンネル。

トンネルを出てすぐ左折。なおここにコンビニがあり、ここでトイレ休憩と水分補給をした。

100mほど進むと、左手に路地があるので、これを登る。

登りきると車道に出るので右折。女神大橋が見えている。

掲示板に従って進む。

歩道は女神大橋の左右両側についている。私は長崎湾側を進んだ。

女神大橋だ。
橋に出ると急に気分が高揚する。もう一度書くが、このコースを楽しまなくては長崎住民としてもったいない。

見はるかす長崎湾。爽快だ。
海外に開かれていた海の玄関口。

実はこの場所に橋が架かるのは史上二度目だ。
1647年、ここに橋が架けられたのだ。全長約400メートル。両岸を綱で結び、舟を浮かべ、板を敷いてつくられた。目的は追放を言い渡していたにもかかわらず突然来航したポルトガル船の長崎湾封じ込めのためだ。橋に加え多数の船が警備に当たる緊迫した事態だった。ここにその時の様子を描いた絵図がある(クリックしスクロールバーを使い確認できる)。前述の戸町及び西泊番所も確認できる。結局、ポルトガル船は無罪放免。2度と来ることはなかった。

橋上は風が強い。冬場出かける際は、コース上ここが最も冷えるのでそのつもりで服装等用意すること。
橋を支える柱には作業用ハッチ。

これは夜間照明用ライト。

橋の両端には季節によって資材が伸縮する分の隙間が設けられていることが分かる。

橋の降り口はパーキング公園への案内が出ているので、ここから階段を降りる。

下から見上げる。作業用の通路が確認できる。

陸上に出た。

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ここが登り始める路地入り口だ。

女神だ。

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つづく→