私の好きなCD、書籍、映画、画家の紹介。ま、とりあえずこれだけ。
この手のコーナーを虚勢を張らずに書くことはかなり難しい。

 MUSIC

ブライアン・イーノ「鏡面界」 
環境音楽という言葉をはじめて耳にした人は、知ってて損はない。聴きこむのではなく、聞き流すための音楽。本当に美しいBGMとしてつくられた始まりも終わりもない耽美的な曲。


ピンクフロイド「おせっかい」

おじさんになる前は誰だって悶々としてる。やたらさわやか系は、汗と一緒に脳みその一部を落としてきていると思っている、心配ない。高校時代、このアルバムの中の「エコーズ」という曲と出会って救われた。それほど当時の心象風景とぴったりきた。高校時代に一番聴いた曲の一つだ。一曲23分ぐらいあるやつで、エレキギターが、空高く北風の中で飛び交う黒い鳥影のような音を出す。BGMではなく、ドッかと腰をおろして聴く曲。


B・バルトーク「弦楽、打楽器とチェレスタのための音楽」
これも高校時代にレコードが擦りきれるほど聴いた。若い頃の音楽の聴き方というには、おじさんには比べものにならないほどしゃぶりつくすものだが、そんな時代に私が一番聴いたのが、前述のピンクフロイドの「エコーズ」とこれだ。はち切れんばかりの不安感。音楽形態の前衛さ。こんな作品らから、ジャンルを取り外すことの大切さを学んだ気がする。


ロキシーミュージック「アバロン」
「お洒落なロックってもんがあったら紹介してくれ」と言われたら、これを選ぶ。大人の洗練された都会派というよりも都市派ロック。スーツを着て聴けるロックって、こういうのをいうと思う。その立役者は超一流のレコーディングエンジニアたち。打ちこみで音楽を作っていると、楽譜に落とす事ができる音楽の要素はごく骨だけなんだということが骨身にしみて分かる。音処理は現代の音楽に携わる人達に残されている広い大地だ。


フォーレ「レクイエム」
音楽史的には1回転した音楽。清楚で無駄のない美しさに満ちているが、これはアバンギャルドの波を一度抜けてきた洗練さだ。この曲が大好きで、コンピュータに歌わせようと、打ちこんだことがある。出だし部分のスコアを改めて見て仰天した。シンプルの極み。これにどうニュアンスを付けていくかが、指揮者やアレンジャ−の美意識にぽんと託されている恐ろしい曲だ。


チェット・ベイカー「チェット・ベイカー・シングス」
この頃、一番聴いているアルバムと言われたらこれだ。酒を飲むときにカバノンでよくかけている。実際によく鳴らしている曲は1950年代のジャズが圧倒的に多い。今では気持ちよく飲むために音楽をかけているという感じだ。


夏川りみ「ファムレウタ 〜子守唄〜」
40を過ぎ音楽を聴いて、これほど涙する体験をするとは思わなかった。ヘッドフォンをつけMDを回した途端、ぼろぼろ涙が溢れて仕方がなかった。久々の衝撃、忘れていたものの再生、人間の歌声のもつ底知れぬ可能性。あなたが、まだ彼女の歌を聴いたことがないのなら、このサイトを読む事などすぐにやめてCDショップに走るべきだ。最初聴くときは、ぜひヘッドフォンで。楽器がじゃまだ。アカペラ版が出ればいい。


 BOOK
生和寛「風景を作る人 柳生博」
大人のための絵本のような美しいムック。この本がなかったら、里山道楽は始めていなかっただろう。3年ぐらいこの本を眺めた後、里山づくりを始めた。今では私もこの本の植生と違う方向、つまり常緑樹の森作りに方向を変えたが、このムックの持つ夢を語る力には感服し続けている。

仙波喜代子・今井今朝春・構成「小屋の力」
分厚いムック。このムックが好きな人とは、私は友達になれる.。いろんなところにあるボロ小屋の写真もたくさん掲載されている。私が「美しい」といいながら読んでいる光景を、家人は不思議なものをみるように眺めていた。

講談社学術文庫
大学を出たての頃、地方都市で手に入れることができる社会科学の書籍として、むさぼように読んだシリーズ。大学時代にろくに読んでいなかったものだから、一層拍車がかかったのかもしれない。ボールディング、ダニエル=ベル、公文俊平。古典ではなく現在蠢く学術書。助けられた。面白かった。感謝。刺激的な活きた本が多い。

ライアル・ワトソン「生命潮流」
1980年代に読んだ。あの時接した世界がずっと私の頭の中にある。生命とは何か、肉体を乗りこなすものとは何か、そして時間的・空間的に拡張しとうとうと流れる意思とはなにか。世界観がゆさぶられ、垣根が取り払われて行く本。

「現代用語の基礎知識」
これは自分がやって良かったと思っていることなので、お勧めしたい読書法。年末になると本屋に山済みにされるこの分厚い本を、365で割る。出てきた一日あたりのページ数で一年間読んでいく。一年終わる頃には、現代の各分野の状況や、問題点がぼんやりと掴める。ただし、私はその当時まだこの本しかなかったからこれを読んだが、今始めるのなら「イミダス」あたりが毎年の訂正が行き届いていていいかもしれない。批判的姿勢は未だにこちらの方が上だけれど。

ピーター・メンツェル他「地球家族」
写真を読むムック。世界30カ国の平均的な家族の写真をじっくりと細部まで読む。するとその国では、何が重視され、どのような家庭愛が、あるのかじんわり伝わってくる。このTOTO出版はいろいろと面白い本を出している。また、フォトランゲージ用に同じ写真が紙芝居のようになってERICから出版されている。

浅田次郎「鉄道員(ぽっぽや)」
浅田次郎は日本人の涙腺の在りかを知った職人作家だ。青い血が流れていない限り、この本には声を出して泣く。人前で読み出してはいけない。どんな文章構造になっているのだろうと分析的に読んでいると、悔しいことにまた泣かされる。悔しいがしかたない。

村上春樹「1973年のピンボール」
村上春樹はあの「ノルウェーの森」あたりで大ヒットし始めたけれど、本人はたぶんあのあたりから自分の作品に退屈し始めているか、方向性を変え始めていると思う。少なくとも作品の冒頭からさらわれるように引き込まれる文章の組み方は放棄されている。氏の作品ではこれが一番のお気に入り。作品全体にピーンと張りつめた冬の日の朝のような静謐な空気が満ち満ちた、独特の美意識がある。


 MOVIE

スタンリー・キュブリック「バリー・リンドン」

18世紀西洋の貴族バリー・リンドンの半生を描いた長編。映画館で見ると途中でトイレ休憩時間が差し込まれる。4時間ぐらいあった。凝り性のキュブリックの極みともいうべき作品。美しい完璧な構図の画面が全編にわたり崩れないのだ。たとえば風景の中を主人公が右から左に移動する。すると背景にある馬車が、画面構図がこわれないように、左から右にバランスを取りながら移動する。この神のような構成と意図に、多くの現場スタッフは理解できないままに泣きながら付き合った事だろう。言うまでもなく、キュブリックの作品は他のものも極めて質が高く、私の敬愛する監督だ。


ウディ・アレン「アニ−・ホール」

今、検索したらamazonでも在庫なしだと。こんな素晴らしい作品が、片隅に置かれて行く市場原理を疑ったがいい。都市生活者の可笑しくもほろ苦いラブストーリー。ウディアレンを知ったとき、日本のコメディアンの位置がわかった。「ダディ・ダーって別れ際に言う女にははじめて出会った」という台詞を未だに忘れないのはどうしてだろう。


宮崎駿「千と千尋の神隠し」
初期の宮崎駿をその画質から嫌っていた。申し訳ない。類稀なクリエイターだ。そのことは、ナウシカの原本を読むと一層よく分かる。いろんな分野に問題意識が張り巡らされた素晴らしい監督だ。この作品を教条主義と評した批評があって思わず失笑した。その批評家は右脳の働きに欠陥がある愚か者なのだ。千と千尋は、右脳で見なければ。あの油屋前の橋のシーン、海に伸びる鉄道のシーン。本当に美しい。


アンディ・ウォシャウスキー, ラリー・ウォシャウスキー 「マトリックス」

ここを見た幾人かは「ケッ!」と言ってるにちがいない。わかりつつ書くが、感心するほどよく出来ている。恥ずかしながら昔、一本だけ映画づくりを試みたことがある。ほうほうの態で退散した。難しい。こちらの思いを、相手に長時間座って見てもらうことの困難さ。この作品は現代の病理に関わる小難しい弁を、見事に劇場版化してみせている。あの「エイリアン」と同じく、第1作目だけをみること。2作目から、スーパーマンのお話になっていく。蛇足だろうが、この手の作品として名作の誉れ高い「ブレードランナー」や、「未来世紀ブラジル」をまだご覧になってないなら、もちろんお勧め。


高畑勲 「火垂るの墓 」

泣く。私を泣かせようと、家人は背後から「ほたる…」と言っていたぐらいだ。定番だが、こればっかりはどうしようもない。これを見て批評的薀蓄を垂れるような奴とは友達になれない。


フランシス・F・コッポラ 「地獄の黙示録」
これだけアメリカ映画ばっかり選ぶのも悔しい。けれどアメリカの才能と資本は、この分野に随分集まっていると改めて思う。帝国のプロパガンダを、国境超えて伝えるにはやっぱり映画だ。さて、かつてこの作品の撮影時のコッポラの日記を読んだことがある。この作品の中で、彼はプロパガンダではなく真からアートをやりたかったのだと思う。

 PAINTER
レンブラント・ファン・レイン
神の如き画家だ。畏れおおい。晩年の荒い筆跡が残る作品は人類の宝だ。17世紀の画家であることを感じさせない。離れて見てその精神性の深さに打たれ、近づいて見て人間離れした奇跡のような筆跡に驚愕する。

宮本武蔵
武蔵の水墨画は出会うたびにゾクゾクする。気迫だとか、そういった言葉で形容されることが多いが、同じ言葉で表現されるシーレと比べると、いかに近代の西洋的自己表現が青臭いものかわかる。今後は墨の濃淡や、空間のとり方など、スタイリッシュな面からの引用も多くなろう。このような視点からは、テイストは違うが竹内栖鳳も敬愛する作家。うまい。

オディロン・ルドン
ここまで書いてまた随分躊躇しはじめた。このページを書く作業は、若き日の自分の舞台裏を見せるような行為だと改めて思う。この作家の絵を見ながら、ピンクフロイドを聴くという生活がしばらく続いた。永いこと色彩というものを目にした事のなかった人間が、突然知覚できるようになったような色使い。そして浮遊感。

オーブリー・ビアズリー
好きな画家というのではない。私の心の奥底に巣食って拭い切れぬ作家だ。絵が好きだった父が持っていた画集。それは戦時中に発行された粗末なものだったが、その画集にこの作家の作品があった。寒村に育った私は幼いころ飽かずその画集を長め暮らしたために、心のどこかにへばりついて離れない。私のクリムト好きや尾形光琳好き、あるいはハンス・ヴェルメール好きと無関係ではなかろう。

ジャクソン・ポロック
学生時代の私の愚作が様々な素材を使っているその端は、ポロックにある。禅の修業僧みたいだなと勝手に思っていた。「ポロックは僕にとってのヒーロー」なんぞと学生時代はほざいておったわけで(笑)。今では当時ほど惹かれない。アメリカ大量消費文化の匂いが鼻につき、百年の恋も冷め始めている。

ザオ・ウーキー
この作家は私が絵を描かなくなる前頃に好きだった作家。東洋風のアンフォルメルといったところ。絵を離れてからは、地方都市ではなかなか作品を目にすることができない。