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宝木武則さん一周忌によせて

 昨年12月22日、エスペランチストで事業家だった宝木武則さんが病のため、堺市で亡くなられた。享年96歳だった。その後「宝木さんを偲ぶ会」開催の話もあったが、もはや宝木さんを知る人もご高齢や病などのため立ち消えとなった。
 94年4月、名古屋の集会に招かれたのが縁で、断片的ながら資料など送っていただいた。その後、「関西わだつみ会」のゲストとしてお話をうかがったことがあり公の場で最後の発言だった。それ以後、一昨年10月に友人の車で龍神温泉に一緒に行った。その頃はまだお元気で眼鏡なしで新聞も読めるほどだった。しかし昨年10月、同じく龍神温泉に行く途中、堺のご自宅に立ち寄った頃は、ほとんど寝たきりの暮らしだった。資料がきちんと揃っているわけではないが、断片的ながら資料をたどり、宝木さんの足跡をたどってみた。          08/12/27 W


1911年(明44) 福岡県田川郡香春(かわら)町で、父瀧蔵、母マサの長男として生ま
     れる。「ひとやま、ふたやま、みやま越え〜」の炭坑節発祥地で、五木寛
        之原作ドラマ『青春の門・筑豊編』の舞台だったところ。
    宝木家は代々「焼石灰業」だったが、大正時代に化学肥料に押され破産し  
   た。父瀧蔵は三井田川鉱業に就職、その後山下汽船炭坑に転職した。母マ
    サは実家が酒屋だったことから酒売業を始める。東条英機家とは親戚関係
    で、夫人の勝子とマサは同級生で親友だった。次男茂が三歳の時、三男寛
    (ゆたか)生まれるが、茂はその年疫痢で死去する。
1921年(大10) 父瀧蔵は不景気のあおりで首となり、大阪の親戚中山商店をたより
    就職、そのため一家は尼崎に転居。父母三十歳、武則十歳、寛四歳、末弟
    幹市は生後二ヶ月だった。この年の秋、父は中山商店東京支店へ転勤が決
    まる。武則は小学六年転入学する。
1923年(大12) 九月に関東大震災が勃発。武則、巣鴨学園商科一年の時で実家は半
    壊。中山商店は大阪工場からトタンを取り寄せるなど「焼け太り」となり
    トタン板製造から中山製鋼へ事業を広げる。
    気丈な母マサは漬物屋を始めるが、翌年祖父の馬平死去で漬物屋を売却、
    一家で香春町に帰省する。その後東京の西荻窪で、中山商店の下請け建材
    業を開業、武則ら学業の傍らトタン板など売る。
1925年(大14) 母マサ、東京小金井村で金物店開業。この年長女京子生まれる。病
    弱な弟の寛、小学校に入学する。
1928年(昭3) 武則、大倉高商(後の東京経済大学)に入学。巣鴨学園商科在学中、
    担任教師・萩原先生(小樽高商時代の小林多喜二と同級生、のち人民戦線
    事件で検挙)に初めてエスペラントの手ほどき受け、弟寛にも紹介する。 
1931年(昭6) 4月、武則は大倉高商卒業後東京税務監督局に就職するが、卒業時
    は大学のストライキばやりで二ヶ月巻き込まれる。年末には大阪の中山製
    鋼に転職する。
1933年(昭8) 武則、中山製鋼で全協の労働運動に関わり首になる。
1934年(昭9) 室戸台風で鶴町の自宅高潮に襲われ被害うける。寛17歳、エスペラ
    ント語を本格学習し「国際通信」など始め、国際誌や『労働雑誌』にルポ
    ルタージュなど投稿する。神戸の中塚吉次らマルシェ社結成、宝木兄弟ら
    参加する。35年末『マルシェ』は特高弾圧で廃刊。中塚は無名の宝木兄弟
    に後事を託すが検挙後に獄死する。弟幹一、日本脳炎で死去する。
1936年(昭11) 寛は武則らとフラート社結成し『フラート』創刊。三号まで続刊、
    主に国際通信を翻訳掲載、三号から寛入院のため発行人は武則となる。
    海外エスペラントルートから、コミンテルン第七回大会ディミトロフ報告
    書を入手し、寛は藤井英男らと翻訳、非合法出版する。
    ※全訳 300部、要約版1000部出版し各団体グループに送る。この「人民戦
     線戦術の諸問題」提起は日本にとって画期的なものだった。しかしすで
     に共産党は弾圧で壊滅、各地で再建準備運動など起きる。その後「人民
     戦線運動」事件など起きるが何れも弾圧される。
     デイミトロフとコミンテルンの指導的立場を交替したスターリンは、エ
     スペランチストは元より一切の批判的な人物を根こそぎ弾圧粛清する。
    12月、寛は入院中の刀根山病院で逮捕、藤井英男らと共に豊中署で厳しい
    取り調べ拷問を受ける。
1937年(昭12)  4月、エスペラント仲間だった長谷川テル、夫劉仁のあとを追い上
    海に亡命、武則これを見送る。 
    中国侵略戦争全面化。5月に武則、続いて友人宮西直輝ら検挙。7月に寛
    らと共に大阪地裁に起訴される。
    ※宮西は三年間拘留の後、兵役召集され電信兵となり、長谷川テルの放送
     を聞き短歌に書きとどめる。「重慶放送 その流暢な日本語を ひそか
     に聞きて穏やかならず」。
1938年(昭13) 8月寛の一審判決、懲役二年、執行猶予五年、罪名・治安維持法違 
    反、この時寛は危篤状態、直ちに入院する。
    10月、武則の判決、懲役二年、執行猶予五年、罪名・治安維持法の違反。
    犯罪事実は、昭和8年中山鉄工内で社会科学研究会を組織/プロレタリア
        エスペラント運動/同人誌『野武士』の発行/したことなどとする。
1941年(昭16) 太平洋戦争に突入。武則、自転車製造禁止令のため、南海精工所工
    場長となりベアリング製造に転換する。療養に励む傍らの寛と共にベアリ
    ング研究に没頭し特許申請などする。翌42年、寛は、結核回復を待って下
    獄するが結核は悪化をたとる。
1943年(昭18) 弟寛、大阪刑務所で結核悪化し危篤となり刑執行停止。骨と皮にな
    り担架で堺市の自宅に帰る。7月26日死去、享年26歳だった。
1945年(昭20) 7月堺大空襲、親しい友人ら死傷する。この頃、海軍の指定工場認
    定を受けベアリング製造に励み、朝鮮人や被差別部落民を積極的に雇用し
    ていた。譲り受けた軸受株式会社の社長として戦後数十年続く。
1946年(昭21) 精密機械産業の賠償案で情報を得るため、GHQの民間情報検閲局
    に2年間勤める。(朝鮮戦争でオーストラリア賠償案は中止となる。)
1982年(昭57) 「反核産業人の会」結成し『会報』など発行。代表世話人は武則。
    会報発行人松本広治、中村欽吾ら入院のため、武則が21号(89年4月)
    より編集担当する。会員約300人。このほかに「本音を語る会」など発 
    足する。
1984年(昭59) 宝木 実『レジスタンスの青春〜人民戦線運動と宝木寛の生涯と』
    出版(日本機関紙出版センター)※末弟の実が、獄死した兄の寛について
    「取材」して書いたものだが、実質的には兄武則の資料提供による。寛の
    エスペラント機関紙投稿文や関係者の証言、年譜などが収録されている。
1984年(昭59) 日系二世で社会主義者カール・ヨネダ(78)、自伝出版のため来日し
        ペンフレンドだった武則と50年ぶりに会う。ヨネダは16歳でエスペラント
    詩人エロシェンコに会い弟子となる。その後徴兵忌避のため帰国、帰国後
    米国共産党に入党し反戦活動する。(毎日新聞9月20日)
    ※デイミトロフ報告文の入手もヨネダらの尽力による。米国『労働新聞』
     の主筆で、日系米人の隔離政策を告発したリーダーの一人だった。
     カール・ヨネダには自伝『がんばって〜日系米人革命家60の軌道』(84  
     年)、従軍記録の『アメリカ一情報兵士の日記』(89年)などがある。
     また、在米中の野坂参三の代行人を務めるが、晩年の野坂が除名の原因
     となる同志をスターリンに売り渡し、幹部が処刑されたことなど告発し
     たと言われる。
1986年(昭61) 宝木武則/藤井英男『ブルガリア印象記』(本音を語る会)出版。
    ※85年8月、反ファッショ人民戦線五十年記念し、ブルガリアから国賓招
     待され、二人はデイミトロフ勲章とパルチザン勲章を授与された。その
     時の「印象記」。(デイミトロフは初代ブルガリア大統領)藤井氏は90
     年に死去する。
1988年(昭63) 武則85歳、郷里の福岡香春町に訪れる。盆踊りなどする。
1993年(平5) 武則が生業としているミニベアリングが、米軍トマホークに利用さ
    れていることが分かる。(京都新聞4月7日)    
1994年(平6) 2月、ピースおおさかで、特別展「戦争は、中国でどのように伝え
    られたか」開催。日中合作テレビドラマ『望郷の星〜長谷川テルの青春』
        上映(80年制作)主演の栗原小卷ら講演。オープンセレモニーで、テル関係
    者として武則は招待される。※91年、長谷川テルの遺児暁子一家の住居、
    堺の自分の持家を提供する。
2007年(平19) 8月、澤田和子ら在阪有志の『長谷川テル 日中戦争下で反戦放送
    した日本女性』出版、武則の記述などある。
2007年(平19) 12月22日武則、内蔵疾患のため死去、享年96歳だった。

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