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「満州」報国農場と勤労奉仕隊

◆8月3日の京都新聞に、「県の満州農場に引率女性教師 米原で展示、生き抜いた一年半証言」の見出し記事があった。米原市の青年学校教師だった神戸幸子さん(87、当時24)は45年5月、県の命令で女子生徒約90人と共に、滋賀県満州報国農場の勤労奉仕隊として「満州」に渡り、10月には帰国する予定だった。
 ところが8月9日のソ連軍侵攻と日本敗戦後は様々な苦難を体験する。やっと帰国できたのは46年10月、その間3人が命を落とした。神戸さんたちは毎年8月に集まり交流を続けている。今回の記録展示などを通じ、二度と戦争を繰り返してはならないと訴える。

◆『満州開拓史』(1966、全国開拓自興会編)によれば、満州開拓民制度の種類のうち「開拓民に準ずるもの」として次のものがあった。
A、開拓農業実験所(18ヶ所)
B、報国農場(74ヶ所)
    日満を通ずる食糧増産のため昭和17年度から実施、各府県から開拓民とは別に青年男女の勤労奉仕隊を出し、数ヶ月交替で経営に当たらした。一ヶ所少ないものは20名、多いのは300名。
C、開拓女塾(17ヶ所)
    配偶者養成のため昭和16年度から開始、一塾概ね30〜50名を収容した。
D、満州建設勤労奉仕隊
  勤労奉仕隊制度は康コ6年(昭和14年)から実施された。1・特設農場隊(文部省選出)/2・報国農場隊(農林省選出)/3・開拓増産促進隊(大東亜省選出)右のうち主力は報国農場隊であった。

◆報国農場は都道府県が郷土開拓団周辺に設置した直営農場。当初収穫物は内地に供給を建前としていたが軍への供出が主となり、延べ1万5千人が派遣された。毎年春に渡満し収穫期を終え越冬隊を残し帰国、翌年に交替の奉仕隊が渡満した。また満州現地や朝鮮からも学生らが奉仕隊に動員された。長野県のように開拓団の多いところは8ヶ所、山形県7ヶ所、青森・群馬は3ヶ所など府県により様々で、このほか県農業会や農業大学経営のもの、開拓団内の「乙種」報国農場などもあった。戦争末期には船舶状況で交替帰国できず、そのまま終戦を迎え逃避行のなか、開拓団員同様に寒さ飢え病気その他で亡くなった。
◆種  別 死亡者 未引揚者  帰国者
開 拓 団  67.680   9.550    118.970
義 勇 隊   3.200   1.000     17.800
報国農場   1.120     450      3.200
  計      72.000  11.000    140.000  (1956年現在、「満州開拓史」より)

◆奈良県は2ヶ所報国農場を設置。44年〜45年に延べ150人の県下青少年が奉仕隊に参加した。45年4月、奈良県十津川村から91人が報国農場に派遣されたが、そのうち敗戦後46人が飢えや病気のため死亡した。奈良市には同じ状況で死亡した開拓団員130人を祀る「拓魂碑」があるが、報国農場関係者は合祀されておらず、慰霊祭には毎回県幹部が出席する。県は「報国農場は国策であり直接責任がない。国側の窓口も不明確で確かな資料がない」などを理由に責任を回避。これらについて遺族らは「派遣責任を認めよ」と県に要望した。(朝日新聞1994.8.13)
 その後2002年にも県議会厚生委員会でも追求されたが、軍人軍属でもなく「開拓民に準ずる」立場などから、それほど進展したとはいえない。

◆山田昭次編『近代民衆野記録〜満州移民』(1978、新人物往来社)に、根塚伊三松「報国農場日記」が収録されている。筆者根塚氏は富山県報国農場に、食糧増産隊(少年農兵隊)47名を引率し45年3月に渡満した。ソ連侵攻と敗戦で逃げるうち病気などで22名が亡くなった。また一人の隊員が消息不明となり、「八路軍で働いているうち病死」と公報があった。しかし中国人養子となり生存していたことが分かった。『生きていた少年農兵、「老母に会いたい」33年ぶり一時帰国』と、毎日新聞(1978.6.7)が伝え、根塚隊長と再会し無事を喜んだ。
 食糧増産隊は、元来内地の食糧増産を目的として編成されたものだったが、府県によっては満州に派遣されたケースもあったようだった。

◆報国農場要員や満州開拓移民の送出、または食糧増産隊など、これら都道府県のセンターとなったのが「農民道場」だった。よく知られるのは「修練農場」だが府県によって開拓・拓殖訓練所など名称は様々で、いわゆる「大陸の花嫁」養成の女子開拓訓練所などもあった。そして、これらのお手本となったのが、満蒙開拓義勇軍内原訓練所のシステムであり、加藤完治らの農本主義の皇国思想であった。
 
08/08/25  W




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