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農耕勤務隊に動員された「朝鮮兵」

大戦末期、少年たちの食料増産隊(農兵隊)が組織される一方、軍隊内にも「農耕勤務隊」(又は開拓勤務隊)が南方前戦や内地で編成された。
 8月7日の朝日新聞に、<「日本へ召集・燃料用イモ畑へ」〜農耕隊63年目の証言>の見出で、この関連記事が掲載されていた。雨宮剛さん(73歳、青山学院大学名誉教授)は少年の頃、愛知県の郷里で朝鮮から動員され、農作業に励む「ボロボロの軍服姿」の朝鮮人部隊を目撃した。その実態は不明のまま「脳裏から離れない」として、改めてその調査に手がけ、韓国に渡るなどして、元農耕隊員から聞き取りをすすめているという。

 農耕兵については、三井喜二郎『戦う陸軍農耕兵〜農事班四百日の記録』(06年光人社)がある。主に輜重兵による編成で農業経験者が三割。敗戦まで約一年北海道で開墾や農作業に従事した。その間、農耕に関することより軍隊生活の厳しさ理不尽さがその記録の主な内容となっている。
 NHK放映「兵士の証言」のなかで、ビアク島での「開拓勤務隊」が編成されたことが語られていた。補給兵站を断たれた日本軍は、食糧自給のため開墾・作物栽培に手がけるが、痩せ地の強いアルカリ土質では作物は育たず失敗だった。
 これが軍隊内に「農兵隊」を創設した始まりとされるが、結局は圧倒的戦力の米軍を前に、兵器も食糧もない厳しい最前線の戦いは餓死との戦いでもあった。ビアク島については、元読売大阪社会部記者の、田村洋三『玉砕・ビアク島〜学ばざる軍隊・帝国陸軍の戦争』(00年光人社)があり詳しい。

 植民地朝鮮では「内地」に遅れ、44年に徴兵制および国民徴用令が施行され、大量の「軍人・軍属」が日本各地の軍事施設や工場などに動員された。そのなかに農耕勤務隊の補充のための朝鮮人「兵士」もいた。
 記録によれば、一隊を約2500人とし第一部隊〜第五部隊まで、富士山麓、茨城・群馬県下、栃木県那須野ヶ原、愛知県下、長野県伊那谷などを中心に展開され、農耕隊兵の補充又は交替したという。(塚崎昌之「朝鮮人徴兵制度の実態」)
 彼らは軍服は着ていても、階級章は星のない「赤ベタ」で、土木工事や陣地構築にも当たったが、前記『朝日』記事にもあるように、なかでも航空機燃料用の「イモ作り」に大きな目的であったようだ。
 愛知瀬戸市では約百人の農耕兵が学校に宿泊し「約百町歩を開墾した」と小学校の沿革にある。また、富士山麓大石寺には約三百人の朝鮮人農耕兵が宿泊し、近くで耕作に従事していたが、失火で各種建物が焼失し法主が逃げ遅れて焼死した。
 この時幹部将校らは「農耕兵の逃亡監視」のため消火を手伝わず、駆けつけた消防車も故障で動かないなどが重った。その上「農耕兵放火」の噂なども流された。この問題は今日の大石寺と創価学会との対立問題もあり、複雑に尾をひいている。

 なお、「朝鮮人強制連行年表」に兵庫県青野ヶ原に「第一、第二耕作隊軍人・軍属35人」、加西市の「海軍航空隊建設に13人」などのデータがあるが、詳細は不明である。青野ヶ原と言えば冒頭の「食糧増産隊」との関わりもあり、又の機会に述べたい。
08/08/12 W



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