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●竹林伸幸さん略歴  ----「一人でもやる」で駆け抜けた、その生涯----

1936年 7月、香川県丸亀市に生まれる。
1956年 京都大学経済学部入学。マルクス主義経済ゼミや弓道部などに籍をおく。
第一次安保闘争、警職法反対闘争など「一般学生」として参加。
1960年 京都大学卒業。佐世保船舶工業(後の佐世保重工・通称SSK)に入社、3ヶ月研修後、東京営業所経理部に配属。◆SSKは旧海軍工廠。三菱長崎造船と共に戦艦など建造。戦後は船舶建造、海自艦艇・米軍艦艇の修理などする。入社当時同社は本工・臨時、社外工など含め約6千人規模。
60年代 労働組合は「労愛会」と称し民社党系の労使協調路線。このなか竹林は支部役員、青年部部長としてメーデーの先頭に立ち、高卒社員の待遇改善、キャンプや各種パーティ。中野好夫、むのたけじ著書をテキストに学習会など文化・教宣活動に力を注ぐ。
・67年の都知事選では、自民・民社の松下推薦の組合路線に対し、「支部ニュース」で美濃部支持を訴え、支部大会でも支持決議する。
・67年に結婚、長男生まれる。68年、佐世保に原子力空母エンタープライズ入港反対闘争激化、以後大型核疑惑艦船が入港。また、日本各地を漂流し続けた原子力船「むつ」修理をSSKが引き受ける。
・60年代後半からのベトナム反戦では、佐藤内閣打倒を訴え、有志で「ベ平連」などの集会やデモに参加する。
・勤務の余暇に、倉石武四郎創設の「日中学院」に通い中国語を学ぶ。(このことは後の解雇闘争期間、アルバイトなど生活の支えとなる。)
1970年 4月、会社は佐世保本社への転勤を命じる。組合支部長3期目で体裁のいい「追放」だった。転勤時、妻は2人目の子ども妊娠中。
・佐世保では「東京からアカが来る」と宣伝され、組合代議員に立候補したが惨敗。74年に「愛労会」会長に立候補、「闘う組合」改革を訴える。結果は敗れたとはいえ、3200票対2600票、45%の得票だった。
1975年 会社は突然大阪営業所(約30人の職場、以後西宮市に転住)への転勤を命じる。これに対し役員立候補などが原因とし、長崎地裁に不当労働行為の仮処分を申し立てたが却下される。その後再度、大阪から「会長」に立候補したが敗れる。
1978年 「造船不況」始まる。佐世保重工も経営不振となり「救済王」として坪内寿夫(瀬戸内の来島ドックグループ会長)が政財界の要請で登場。大幅な人員整理と「坪内式研修」を実施する。
・竹林は4日間の研修特訓を命じられるが、これらを労基法違反として佐世保労基署に告発、同署はSSKに是正を勧告。地元の長崎新聞も大きく報道する。その後、坪内の強引さに、労使協調路線の組合も不当労働行為として告発する。
1979年 西宮で「常磐公園を守る会」など地域の市民運動に参加。この頃中国帰りで元「国際新聞」記者相原三郎氏を知り、中国語の翻訳など手がける。
1983年 8月、坪内社長より懲戒解雇通告される。以後、解雇撤回の闘争に入る。この間、「SSK竹林さんの闘いを 支援する会」(岩井計算機労組気付)発足、『狼の尻尾をつかんだら放すな』など会報を発行。
・坪内は結局、在任4年にして経営不振を「救済」できず退任する。
1990年 7月、遂に会社側は解雇を撤回、自主退職を内容とする和解成立。終結に至る7年間、数回の解雇に対し、大阪地労委申立、民事本訴や仮処分など4回の判決・決定を受け取る。竹林47歳、この間3人の子どもたち も小学生の育ち盛りだった。
1992年 西宮市長選に立候補。以後95年、99年、03年、07年に市議選立候補、何れも落選、得票は5百票が限度だった。2000年再度の市長選立候補、5736票で落選し50万円の供託金没収。これら計7回の選挙で「私しか言えないこと、諸悪の根源は天皇制」と訴える。選挙登録では、職業「翻訳業」のみで職歴・学歴などの記載なし。
・かつての争議経験者によるネットワーク「関西争議交流会」結成に竹林も参加。その後、自分は「半労働者市民」だとして市民・地域住民運動に活動の重点をおいた。
2002年 3月、SSK前姫野社長、会社幹部ら7人、中高年労働支援助成金の不正受給で詐欺罪で逮捕されるなど、その腐敗ぶりが暴露された。
・10月7日、米のアフガン攻撃開始1周年にあたり、大阪米領事館<24時間包囲行動>を呼びかける。(「核とミサイル防衛NO!キャンペーン」との連帯行動。)
・この頃から<核兵器廃絶、全世界一日行動>を訴え、その実行委員会を発足させる。インターネットで呼びかけ、大阪でもミニ集会・デモ始める。このほか「平和ロードマップ」と称し、ゼッケンと桃太郎旗スタイルで街頭宣アピール活動する。
2003年 2月、「日米環境活動支援センター」「戦争ボイコットネットワーク」と竹林が代表の「戦争反対ええじゃないか桃太郎運動」の三者で、<アメリカ製品不買運動>を呼びかけ、世界各地の不買運動に呼応。
2004年 6月、市民に呼びかけ、有志60名連名で「いつまでブッシュのイラク戦争を支持し、小泉の番頭を続けるのか」とする<公明党への公開質問状>を提出する。公明党本部には竹林とほか1名が参加。
2005年 11月ブッシュ来日、京都で小泉と日米首脳会談。これに呼応し大阪米領事館前で<連続ヒューマンチェーン行動>を提唱、以後継続。◆この頃「前立腺ガン」で治療のためしばらく入院する。
2006年 8月3〜10日、広島・佐世保・長崎へ平和行動。11〜15日、東京での「平和の灯火を、ヤスクニの闇に」行動に参加。
2007年 8月、恒例「青春18切符」の8.6広島、8.9長崎行きが最後となった。
・8月22日、米領事館ヒューマンチェーンで、「ブッシュ大統領への手紙」提出。(竹林死去後、インターネットで「遺書」として紹介される。)
・全平和運動を網羅する、<核廃絶・日本市民会議案>を起草するが、普及は不調に終わる。
・10月、「このままでええの!日本と世界 10.21反戦共同行動in京都」実行委に参加する。
2008年 1月28日未明、虚血性心不全で急死、享年72歳。通夜と葬儀は28〜29日、親族で行われた。前立腺ガンでの入院後、一見元気そうだったが快癒には至っていなかった影響もあった。

【後記】
◆08年3月2日、地元市民グループ・ピースネットなどが呼びかけ、西宮男女参画センタープレラで「竹林伸幸さんを偲ぶ会」が開催され、関係者約50人参加。元気だった頃の竹林について語られた。
・「偲ぶ会」には、地元の四谷薫市民派議員、ピアニスト渡辺幸恵さん、漫画家松田妙子さん、泉南市議小山広明さん、解雇反対や常磐公園運動当時からの友人など多彩な参加があった。後日、参加者寄せ書きの冊子『追悼 竹林伸幸』が発行された。
・また、竹林は2年ほど前から、梅田駅前の松本アキさんら「辺野古に基地をつくらせない大阪行動」に最年長者として参加してきた。「偲ぶ会」には若いメンバーも多く参加し彼を惜しんだ。なお、沖縄「糸数選挙」では激励とカンパアピールを訴えたこともあった。
・「竹林さんに会うと、またカンパを要請か」という思いだったが、「亡くなって何だかホットした」という本音発言。「竹林さん呼びかけの集会、行って見ると主催者と私二人だけだった」「竹林さんはそれでも頓着しない楽天性があった」など、「独断専行型」の彼については様々な感想が飛び交った。
◆竹林は、自称「ヤセガエル」ほか、様々な肩書きをもったが、「戦争に反対し行動する市民の会」として、ホームページも開設。インターネット複数の「メーリングリスト」などに投稿、かなり広範囲の賛同者も得ていた。自宅にはパソコンと印刷機、選挙用の三輪自転車とハンドマイク、幟旗など闘いの有力な道具だった。晩年の趣味は囲碁。家族とは別居暮らしだったが、全くの別離というわけでなく、死去前日には妻に買い物など依頼していた。
・この「略歴」制作で、佐世保重工就職から解雇に至る経過は、「竹林さんを支援する会」の会報『狼の尻尾をつかんだら話すな』(「労働者通信」復刻連載)などを参考にした。
・広島、長崎の原爆記念日が近づいてきました。元気だった頃、一緒に青春切符で広島まで行ったことを思い出し、かの「名物男」不在で何だかぽっかり穴があいたような気持ちです。

08/07/20 W



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