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カウラ収容所脱走事件

 日本テレビ制作のドラマ「あの日、僕らの命はトイレットペーパーよりも軽かった〜カウラ捕虜収容所からの大脱走〜」が7月8日の夜放映される。脚本家・中園ミホが、捕虜だった伯父(87歳)の体験に触発されて書き下ろした。小泉孝太郎や大泉洋らが出演、放映とともにDVDも発売される。早くも右翼サイドでは、先人の決起尊厳を汚す国賊ものと非難している。

 カウラ事件については、以前NHKで問題をとりあげたこともあるが、教科書にも載っていないし、戦後四十年して明らかになったこともあり、あまり知られていない。以前『カウラの突撃ラッパ』を読んだことがあるが、関係書もいくつかあるようです。また、戦後この事件関係者による慰霊、相互友好訪問などの報道などもありました。

 1944年8月、オーストラリア・カウラ捕虜収容所の日本兵1104人が脱走を図り、231人が射殺・焼死などで死亡、31人が自決。オーストラリア側も警備の市民兵4人が殺された。
 オーストラリアはオランダの依頼で、日本兵やアフリカ戦線のイタリア兵の捕虜などを収容していた。オーストラリア軍は日本兵を虐待したわけでなく、ジュネーブ協定に準じた待遇だった。ところが収容所の手狭などから、兵のみを別の収容所への移動を計画した。これに対し、兵と下士官も一緒に移動するよう要求したが聞き入れられなかったことが事件の発端と言われる。
 この背景には移動して何をされるか分からないという動揺と疑心暗鬼があった。日本軍は捕虜を平気で殺してきたこともあり、場合によればという不安もあった。 兵たちがジュネーブ捕虜協定を知っておれば、こんなことはあり得ないが、ともかく日本兵は動揺し、下士官らの主導で集団脱走を計画する。
 待遇には特に不満があったわけでなく、作業の合間には野球や相撲、将棋や麻雀など楽しみ比較的のんびりとした捕虜生活だった。作業は野菜作りや伐採などで、警備も市民兵らによる緩やかなものだった。
 脱走計画は強行派、反対派と別れ議論が続いた。この時の衆議一決したのは「キサマら、それでも帝国軍人か」の強行派の一言だった。「生きて虜囚の辱めをうけず」の戦陣訓をたたき込まれ、「それでも〜」は常日頃上官から言われていた言葉だった。また捕虜という立場の後ろめたさもあった。
 一斉蜂起するにも武器はなかったが、ナイフやホーク、野球ばっとなど手近な道具を武器に仕立て、病人や動けぬ者は自決の道具を作り、突撃ラッパの合図とともに行動を起したのだった。結果は脱走蜂起は失敗し逃亡したものは全員捕まった。ところが、脱走を計画したリーダーたちは全く無傷で、このことは後を引いた。

 別ブロックには日本軍将校やイタリア兵が収容されていた。ヨーロッパ戦線の捕虜収容所ドラマのように、兵と将校の連携はなかったようだ。イタリア兵は国際赤十字を通じて本国の肉親との文通も行われていたが、日本兵は捕虜を恥とし、それが分かれば肉親も「非国民」とされることから、何れも豊臣秀吉とか石川五右衛門など偽名を名乗っていた。
 日本は1911年(明治44年)ハーグ陸戦条約を批准し、そのなかで捕虜の扱いなど規定されているが、日本は周知義務を怠り兵には知らせなかった。だから大陸戦線では捕虜や民間人を裁判もなく平気で殺した。欧米では捕虜の考え方が全く違うが、捕虜になった場合のマニュアルがあった。日本軍はこれらを想定していないため、殺されるのではないかの恐怖心や、喋らなくてもいいことまで喋ってしまったと言われる。コウラ事件は戦陣訓ゆえの惨劇だったが、「捕虜になるなら死ね」という思想は兵隊だけでなく、広く民衆のなかに刷り込まれ、それが沖縄戦でも集団強制死となった。
08/07/03 W



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