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「共存共栄」とブラジル移民

 6月18日、NHKの連続番組「その時歴史が動いた」で、「移民は共存共栄の事業なり〜ブラジル移民100年〜」が放映された。明治41年(1908)6月18日は、神戸から出航した移民船笠戸丸がブラジルのサントス港に到着した日だった。
 番組は、移民会社を設立し日本で始めてブラジル移民事業を推進した、水野龍という人物を中心にその苦難の経過が語られる。

 明治以後、日本は富国強兵策のなかで、日清・日露戦争を経て台湾・朝鮮、そして「満州」を植民地とし大量の移民を送り出した。そのあげく苦難の「引き揚げ」や「残留孤児」という不幸な結果をもたらした。これらのなかで「五族協和」「平等互恵」「共存共栄」「大東亜共栄圏」などがうたわれたが、軍事力による強権的な政策のもとでは、ほんとうの「共存共栄」とはならなかった。
 水野龍は板垣退助らとの自由民権運動の闘士だったが、日本の大陸への野望という動向のなか、ブラジル移民という選択を推進し、真の共存共栄、他民族との共生を目指した。当初は「一旗あげる」もうけ話の思惑もあったようだが、やがて永住へと定着する。その間様々な差別のなかで苦闘するが、征服者・差別する側からの植民地移民とは対照的だった。ブラジル移民100年という歴史のなかで、様々なトラブルもあったようだが、水野龍のように責任感の強い推進者がいたことは幸いだった。(番組のなかでは言及していないが、無責任な官僚主導によるドミニカ移民とは対照的だった。)

 神戸元町駅から山手方向に行くと、急な坂道の突き当たりに「旧移民センター」がある。移民者はここに全国から集結し、神戸港から移民船でブラジルに渡った。
 50年代神戸にいた頃、その四階建物近くに友人が住んでいた。その頃は「はしけ」・水上生活者の子供たちの寄宿舎となっていたが、その搬送船「はしけ」も全く見かけなくなった。今は看護専門学校や移民記念館に使われているという。
 60年代には、まだ神戸港からブラジル行きの大型船が就航していて、知り合ったブラジル帰りの青年を見送ったことがある。現在は日系ブラジル人が、30万人以上、日本の基幹産業の働き手となっている。残念ながら厚遇されてはいない。

08/06/30  W
反戦・反基地ブログ