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岡部伊都子さん追悼会に参加して

先日5月31日、京都の同志社新島記念館で「岡部伊都子さんを偲ぶ会」があり参加しました。親交のあった130人が呼びかけ、全国から「岡部フアン」など約600人が参加した。スライド上映や病状説明のあと、友人を代表し、京大名誉教授上田正昭さん、美術館長佐喜真道夫さん、染織家志村ふくみさん、岡部さん全集の編集者佐高信さんらが挨拶された。
 岡部さんは常々「私は学歴はないが病歴はたくさんある」と言っておられた。幼くして病身で13歳のとき結核で女学校中退され、90年代には肝炎や肝硬変で入院を繰り返し、そして7年前に肝臓ガンとなり、医師も驚くほど「長生き」されたという。
 見かけでもあの華奢な身体。「病は私の分身」とされ、まるで死と隣り合わせのなか、その間の文筆活動で134冊の著作を世に送り出された。これらは「みんな自分の子ども」と考えておられましたが、その都度人々に贈ってしまわれるので、出版のたびに貧乏されていたようでした。

 「僕は君のためなら死ねるけど、天皇のために死にたくない」に対し、岡部さんは「私なら喜んで死ぬけど」と、婚約者木村邦夫さんと別れ際に言った言葉を悔やみ、「私は加害の女」とずっと責め続けてこられた。木村さんの命日がちょうど5月31日で、この日木村さんの妹さんも挨拶されたが、実の姉のように慕い戦後は木村家との親交があったようです。
 岡部さんは木村さんが戦死された沖縄に永住するつもりで、竹富島に家を建てられたが、病院施設などないことから医師の勧告などで断念。家と蔵書は児童図書館として寄贈され「こぼし文庫」が開設された。その後も島の人々との交流は続けられたが、今回竹富島でも「岡部さんを偲ぶ会」が催されたそうです。当日も竹富の上勢頭芳徳さんが挨拶され島唄も流れました。
 沖縄に行くと岡部さんは誰彼となく子どものように抱きつかれたようです。佐喜間さんや上勢頭さんによれば、岡部さんは細くて小さくて、きつく抱けば壊れてしまいそうだったと話しておられた。
 自分に厳しく、人には優しくが岡部さんの生き方。在日の方々も多く参加されていたようです。「賑やかなことも好き」ということで、朗読あり、独唱ありで、最後のお別れ献花では、岡部さんが歌う歌のテープが流されていました。


 いわゆる戦争の「加害責任」が言われ出したのは、ベトナム戦争の頃からだったと思う。日本は戦後たしかに外国に出かけ人を殺すようなこしはしなかった。しかし沖縄から爆撃機が飛び立ちベトナムを爆撃。「ジャングルシューズからナパーム弾まで」と言われ、日本は兵站基地となりベトナム人殺戮に加担した。東京都心に米軍野戦病院があり、横田や立川から米軍輸送機が飛んだ。だから「ベトナム戦争に加担するな、ベトナムから手を引け」がベトナム反戦のスローガンだった。
 その後、東西冷戦が終わっても、湾岸戦争やイラク戦争があり、日本から米艦や航空機が出撃した。そして始めてイラクに自衛隊が派兵され今も続いている。幾つかのPKO自衛隊派兵もあったが、何時も「安全な」なところで、紛争に巻き込まれて「戦死」するようなこともなかった。憲法九条のおかげか、ともかく直接的には戦争はしなかったが、戦争は常にどこかにあって、日本はそれらに何らかの関わりを持ち続けてきた。

08/06/06  W




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