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岡部伊都子さん逝去を惜しむ

 いつ頃だったか"関西共同行動"も関わる集会で岡部さんに発言して頂いたことを思い出します。あのように華奢な身体で、今にも消えてしまいそうな声をハラハラしながら聞きましたが、中身はしっかり筋の通ったお話でした。ともかくすごい人を失ってしまったことはとても残念です。
 元々身体が弱い方であることは知っていましたし、『遺言のつもりで』という本も書いておられます。ガンの摘出も「私の身体の分身だから」と拒否され、死の前日には「わたし明日死ぬねん」と語られたそうですが、岡部さんらしい、悠然とした死を迎えられたようです。
 五十年代、岡部さんは神戸の東灘に、お母さんやお手伝いさんらと住んでおられた。その頃私も神戸にいて、ラジオから流れる岡部さんの「四百字のことば」を聞いた。朝の番組だったと思う。起きぬけ、短いが珠玉のような「ことば」を聞いて一日さわやかだった。後にこれが『おむすびの味』として出版され、随筆家として広く知られるようになった。
 神戸で私は雑誌の読者サークル活動に関わっていた。そのサークルに岡部さんの家の「お手伝いさん」が入会されていた。ある日とつぜん岡部さんがサークル例会を見に来られた。「雑誌」には岡部さんも寄稿され、若者たちが「どう生きるか」など話し合うもので、決して「怪しい」サークルではなかったが、心配だったのだろうか。ところが開会予定時間になっても誰も来ていなかった。私は当日は仕事の都合で参加できなかったが、このことを後から運営メンバーから聞いた。私もメンバーとして運営の不手際などお詫びし、ついでながらサークル会報への寄稿をお願いした。岡部さんからは『おむすびの味』を送って頂き、「この中から自由に転載して下さい」など返事を頂いた。もう半世紀以上にもなるが、岡部さんと言えばこの時のことを思い出す。
 その後、岡部さんは京都「鴨川のほとり」に転居されてから、著作活動は本格化し、著書も300近く出版された。その厳しい生き方や物事のとらえ方など多くの人々の心をうつものでした。女一人ペン一本、晩年まで反戦・反差別を貫き通した岡部伊都子さんの冥福を心から祈るものです。

 08/05/02  W

反戦・反基地ブログ