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西宮在住の竹林伸幸さんが急逝されました。

広島や長崎でご存じの方もあろうかと思い、お知らせします。
先月28日頃死去、死因は虚血性心不全とのことです。29〜30日親族で通夜、葬式は行われたようです。
21日の関西共同行動例会のあと、メンバーに「血尿がでる」など体調がよくないことを漏らしていたようです。また、以前に前立腺ガンで入院したこともあります。

丸亀出身、享年72歳。中国語講師、反戦・反核活動家と言っていいでしょうか。かの辣腕の坪内を相手に、一人で佐世保重工不当配転を闘ってきました。その後も「一人でもやる派」で、市議に何回も立候補したり、「反核1日行動」の
提唱やらいろいろでした。阪神タイガースの帽子をヘコにかぶり、胸に反戦のゼッケン、桃太郎旗というのが竹林さんのスタイルでした。

2008/2/9 W

◆竹林伸幸(たけばやしのぶゆき)さんは3年ほど前、前立腺ガンで入院したことがある。その後元気だったようですが、今年1月半ば頃から急に元気がなくなった。亡くなった後から聞いたことによると、27日に別居中の奥さんに買い物を電話で頼んだ。その翌日28日に品物を届けに行ったところ、竹林さんはすでに亡くなっていた。直接の死因は虚血性心不全。29〜30日にはご親族で通夜・葬式が営まれたようでした。36年生まれで誕生日がまだでしたら享年71歳ということになります。いつ頃から家族と別居なのか、プライベートのことは分かりませんが、奥さんと、息子・娘さん子どもが3人だったようで、もう何れも成人され30は過ぎておられると思います。趣味は囲碁、囲碁仲間が一人暮らしの竹林さんを訪ねて行ったところ、死去を知り私たち運動仲間に伝わった。

◆丸亀市出身で京都大学経済学部卒業後、SSK・佐世保重工大阪営業所に就職。造船不況のなか会社は危機を迎え78年、「乗っ取り屋」とも言われた、かの坪内寿夫氏が「救済王」として乗り込んでくる。合理化のための強制研修や強制配転など荒れ狂うなか、組合はあてにならないので竹林さんは一人で闘う。配転は裁判で闘うが敗訴、やむなく四年半ほど家族と離れ佐世保暮らしとなる。解雇反対闘争では、大阪の岩井計算機労組支部に「竹林さんを支援する会」の連絡先がおかれていたこともあった。(これらについての経験は、大阪で発行する「労働者通信」に連載中だった。)

◆私が竹林さんと始めて話したのは、西宮の団地集会所での相原三郎さんの告別式の帰りだった。相原さんは戦前「満鉄調査部」に勤務。戦後は大阪で発行されていた夕刊紙「国際新聞」の記者をされていた。当時「アカハタ」か「国際新聞」かと言われるほどの内容だった。土井たか子さんの地元でもあり、後援会の弔辞もあった。私は「軍事費拒否裁判」に相原さんが原告に加わってくれたことによる告別式への儀礼参加だった。SSK解雇・退職後の竹林さんは、中国語の翻訳業をされたいたようで、相原さんとの関係は同業仲間、又は先輩・後輩の関係だったのだろうと思う。80年代の頃で、何を話したか忘れたが、浜手の団地から駅までは長い道のりだった。

◆佐世保重工当時もそうだったが、竹林さんは「一人でもやる」主義だった。相原さんもそうだったが、大阪で発行する「人民新聞」にはよく投稿していた。パソコンが普及するなかで、竹林さんはインターネットを通じてさまざまな問題
 提起をしたが、イラク戦争以後それは顕著だった。ブッシュ大統領への手紙。アメリカ製品不買運動提起。核廃絶全世界一日行動の提起。公明党への申し入れ。米領事館ヒューマンチェーン連続行動など様々だった。亡くなる直前には「核廃絶!日本市民会議」の案を考えていた。また地元西宮で市議や市長への立候補の繰り返し。どこへ出かける時も、阪神タイガースの帽子を逆さにかぶり、胸に反戦のゼッケン、反戦「桃太郎旗」持参というのが毎度のスタイルだった。西宮というところは市民運動も活発で、市議の得票数ももう少しあっていいと思うのだがそうでもない。あくまで反戦一本槍のせいなのか。そして選挙のたびに貧乏が重なった。それでも次々と行動することを止めなかった。これらについて色々批判もあるかも知れないが、「一人でもやる」を貫いた竹林さんのその志を賞賛したい。                     
08/03/01 W


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