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長谷川テルを巡る「失くした二つのリンゴ」放映によせて

●「失くした二つのリンゴ」の放映
 地域により日時の違いはあるが、2月11日、ドキュメンタリー「失くした二つのリンゴ〜日本と中国のはざまで 長谷川テルが遺したもの」が民放33局で放映される。http://www.rcc-tv.jp/08ringo.htm
 2月5日の朝日新聞夕刊でも、『反戦訴えた母を追って〜「長谷川テル」遺児、中国を歩く』として報じられた。同番組は系列を超えて加盟する民間放送教育協会が企画し、中国放送(広島市)が制作した。
  長谷川テル(1912〜1947)は山梨県に生まれ、36年に中国人留学生・劉仁と結婚しその後中国に渡り、中国戦線の日本軍兵士にラジオで反戦を訴え続けた。その間生まれたのが長女暁子さんで現在大阪に在住。しかし暁子さんは生後10ヶ月でテルと死別し母親の記憶はない。番組では中国の両親の墓や関わりのある建物など訪れ、遺児として母親の生き方などを追想する内容のようだ。

●長谷川テルをめぐる新著
  昨年の8月、『長谷川テル−日中戦争下で反戦放送した日本女性』(「長谷川テル」編集委員会編、せせらぎ出版)が出版された。在阪6人の筆者によるが、テルに関する諸著作でも最近刊。「失くした二つのリンゴ−病床にて」テルの長編詩、関係資料も豊富に収録され、「遺児」長谷川暁子さんも寄稿している。
 この出版推進を担ったのは澤田和子さん。ところが昨年1月頃病に倒れ、7月23日念願の出版完成を待たず急逝された。享年68歳だった。このため子息の和也さんが編集作業を受け継ぎ出版にこぎつけた。
 澤田さんは女性史研究会代表、女性誌『あごら』編集員、「9条連近畿」(憲法9条−世界へ未来へ連絡会)の世話人など、その活動範囲は多彩だった。澤田さんがテルに関心を寄せたのは、80年に放映された日中合作テレビドラマ『望郷の星〜長谷川テルの青春』(栗原小巻主演)あたりではないか。94年にピース大阪でこの上映会があり、栗原小巻と暁子さんが対談した。その後、調査・研究グループをつくり各地で講演するなど、澤田さんは「長谷川テルの語り部」とまで言われた。
 私が澤田さんのことを聞いたのは90年頃、女性史研究仲間、五条の福本嘉子さん(夫正夫さんは戦前からの活動家)からだった。憲法集会などでよく顔をあわせたが特に親しかったわけではない。「9条連」がセクト関係で何かと問題になったせいかも知れないが、その生前の努力に心から敬意を表したい。

●エスペランチストたち
 昨年12月22日、戦前からのエスペランチストで事業家、宝木武則さんが病のため死去された。テルが生きておれば同年の96歳だった。言わばかつてのテルを知り親交のあった最後の一人といっていい。テルは奈良高等女子師範に入学し、姉も大阪に在住していたことから、関西でのエスペラント運動にも関わりが深かった。
 在学中運動関係で逮捕され退学処分となり、そのご東京でのエスペ運動を通じて留学生劉仁氏と知り合う。その後この二人の上海「密航」にはエスペランチストや留学生らの支援があったからで、宝木さんもその一人で横浜での出航を見送った。
 日中戦争本格化の37年、宝木さんは弟寛氏や親友宮西直輝らと、エスペ・人民戦線運動で検挙される。宮西氏はその後兵役で通信兵として中国戦線に赴く。そしてテルの反戦放送の声を聞いた。この時の短歌は前記著書でも紹介されている。
 次男の寛氏は43年大阪刑務所病棟で獄死、26歳だった。この兄の生涯を末弟の実氏は長男武則の資料提供を得て、『レジスタンスの青春〜人民戦線運動と宝木寛の生涯と』(84年、日本機関紙出版センター)著作出版した。
 宝木武則さんは戦後「反核産業人の会」など結成し活動する時期もあった。前記の今回の出版でも色々資料提言もあったようだ。スパイ大谷のこととか、カールヨネダのこととか、何時とはなく頂いた資料が私の手元にもある。一昨年あたり新聞も眼鏡なしで読めるとか、元気な様子だったが残念なことだった。

08/02/09 W

反戦・反基地ブログ