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 池田正枝さんと初めて会ったのは77年、茨木で「ベ平連」活動をすすめていた黒川さん(酒店店主、享年34歳)という方の「追悼の集い」の時でした。その頃ベ平連は一応解散していましたが、黒川さんは『反戦青空写真展通信』(約
200部)を発行し、水俣や三里塚の自主上映会など続けておられました。
 私たちベ平連の仲間は、ご家族から預かった遺品の住所録を見て黒川さんの死去と追悼会をお知らせしたところ、池田さんは黒川さん発行『通信』の読者の一人として追悼会に参加して頂いたのでした。
 黒川さんは「ベ平連ニュース」にもよく投稿され、それを見て池田さんは連絡されたのでしょう。また、池田さんからは「京都の定例デモに参加」云々の便りを頂いたこともあり、かねてベトナム反戦運動にも深い関心を寄せられていたとも思われます。「一人でもやる」を貫いた黒川さんには、何となく池田さんと共通したところもあるように思われます。
 なお追悼会の当日、ベ平連仲間の菱木君がアムネスティ案内書を配っていたことから、池田さんは以後アムネスティに入会(大阪支部)されたようでした。
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 その後池田さんとは長いつき合いになりますが、あくまで「運動上のつきあい」であって、99年発行『二つのウリナラ』を読むまでプライベート上のことはほとんど知りませんでした。私たちが池田さんについて何となく知っていたことは、かつて植民地朝鮮で教員をしていたことと、教え子6人を挺身隊員として日本に送り出し、そのことの責任を感じ自らの行動規範とされていたことなどでした。
 私の神戸の妹の夫は、隣家の福地幸造さん(解放教育研究家)と親しく、いつか三人で雑談していたとき、なぜか池田さんのことが話題になりました。その頃池田さんは神戸の青雲高校(通信教育)の教員をされていたとか、その時聞いたことがあります。確かなことは分かりませんが、解放教育のあり方をめぐり福地さんとの交流もあったとも思われます。
 『二つのウリナラ』によれば、八尾の小学校教員時代、自ら被差別地域の教員を志願されたと知りました。「帰国」して48年に教職復帰されるまで職業も転々として苦労され、復帰後は占領軍による民族教育弾圧、更に解放教育や障害者運動など戦後教育の激動期を自ら体験されていたことなど、『二つのウリナラ』を通じて初めて知りました。
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 関西共同行動は95年に「敗戦50年企画」を立ち上げ、「アジアの子どもたちと戦争展」/新屋英子「赤い鳳仙花」上演/「アジアのピースアート展」その他を年間を通じて企画しました。8月の<侵略の歴史を克服し世界平和を築く敗戦50年集会>では、佐高信/徐勝/岡部伊都子各氏ら講演と金田きみ子氏(仮名、元「従軍慰安婦」)の証言などがありました。この時池田さんは呼びかけ人の一人でもあり、主催スタッフとして開会挨拶をされました。
 これらの経過記録は<敗戦50年企画実行委編>『アジアを鏡として戦争が見える』

(96年、社会評論社)として出版されました。同著には池田さんの「ソウルの思い出」と題し、94年富山テレビスタッフと訪韓のことが掲載されています。
 いま改めて思い返しますと、こうしたアジアと向き合う企画に際しては、池田さんのような方は、貴重で得難い方であったと思います。悪く言えば色々な場面で利用したのかも知れませんが、池田さんも自ら望み、いつも笑顔で快く引き受けていただいたことを改めて深く感謝しています。
 このほか、私たちが知らないところで、池田さん自身の思いで、さまざまな関わりも持っておられたことも聞き及んでいます。そういう池田さんの全体像が分かればいいと思います。
 何か印刷物を送るたびに丁寧なお手紙と切手カンパを頂きました。(筆無精の私はろくにお礼もせずでしたが。)長文の年賀状も「今年はどんなんかなあ」とたのしみでした。「もう私は先が長くないから」など聞きながら、デモで一緒に歩くことももうありませんね。池田さん、ほんとに長い間色々ありがとうございました。
さようなら、安らかにお休み下さい。

2007.3.7 W
反戦・反基地ブログ