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村田久さんを追悼する

村田久さんは私とほぼ同世代で、知ってから10年以上になるが何となく会っていた。
惜しい人を亡くし運動にとって大きな損失です。もっと長生きしてほしかった。

 ◇村田さんは1935年生まれ、<三菱化成(現三菱化学)黒崎工場に15歳で入社、本工下
  層労働者として定年まで勤務。ただし70年代初期に工場内で発生した労災事故をめ
  ぐって企業の向こうずねを蹴ったことから定年までの20数年間を窓際族として終始
  した。これまで様々な課題の地域運動に関わり、ここ10年間『北九州かわら版』を
  発行してきた。現在「ピースアクション全国討論合宿」世話人>

 これは2005年7月に米子で行われた「田をつくる」米子シンポに向けた『かわら版』
の自己紹介からです。省略してありますが、つれあいの和子さんと共に三菱化成のマレ
ーシア・ブキメラ村への公害輸出追求の運動にも加わってこられ、その後も医薬品を送
る活動を進められています。

 米子シンポで和子さんも報告していますが、安渓遊地・安渓貴子編『出すぎる杭は打
たれない~痛快地球人録』(2009年みずのわ出版)の第2章に、和子・久さんの「出すぎ
る杭は打たれない~公害輸出を告発」の聞き書きが掲載されています。何回も夫妻でブ
キメラに赴きますが、久さんはあくまで黒子としてホローされていたようです。

 村田さんは20代前半に谷川雁・上野英信らの『サークル村』(58年~61年)に加わって
いる。松原新一『幻視のコミユーン~「サークル村」を検証する』(2001年創言社)にそ
の総目次があり、村田さんも寄稿していた。またこの出版を機に第三期『サークル村』
を復刊させ、2004年6号には「大企業の向こうずねを蹴る・三菱化成の労災闘争」を寄
稿している。

 私が初めて村田さんに会ったのは、1999年10月北九州門司山荘の「周辺事態法を軸と
した合宿討論会」だった。<呼びかけたのは村田さんや、天野恵一さん(『派兵チェッ
ク』発行)>。以後この合宿討論会は佐世保・広島・岩国・呉・熊本・名古屋・浜松・
札幌・東京などと続くが、やがてイラク戦争反対へ関わることになる。

 この間に06年の「米子シンポ」が入る。はっきりとは思い出せないが、村田さんと何
となく会ったのは、この99年の合宿討論会以後のことです。(村田さんはこの頃「新ガ
イドラインに異議あり!北九州行動会議」を名乗っていた)。またパソコンも普及する
なかで、村田さんはこれらを機会にインターネットMLの「ケーピース」を立ち上げ、
現在も運営委員が管理しているが今もこのネットは生きて重宝している。

 92年9月の京都・宇治のカンボジア1次派兵に始まる「反派兵のための全国交流会」
は以後、93年2月東京、同3月札幌(2次派兵)、同9月大阪、94年3月名古屋と続くが
「合宿討論会」はこれらを継承することになった。もちろんこの間に、キャッチピース
・反改憲・非核平和条例など様々な全国交流会が行われた。

 1979年、故・松下竜一さんらの豊前火電反対の集会で、村田さんは初めて花崎皐平さ
んに出会う。以後80年頃から「地域をひらくシンポジウム」を各地で約10年間開催され
る。そして05年の米子シンポとなるが、村田さんは『かわら版』を頻繁に発行して準備
して頂いた。大阪からは能勢農場の津田道夫・津林邦夫さんと私が参加、津田さんの報
告や著書で能勢農場のことを知ることができた。ほとんどの人は初対面でしたが、こう
いう人たちこそ「日本の地下水」だと思った。

 『かわら版』29号に空自築城基地の座り込みを続ける、渡辺ひろ子さんらの活動を紹
介している。(渡辺さんは私ら湾岸平和訴訟の頃、九州の掃海艇訴訟を提起)。この座り
込みには松下竜一さんも参加、もちろん村田さんも参加していた。同号表紙には「課題
・領域を超えた交流と連帯を」と表示されている。村田さんがまさに言いたかったこと
を表していると思う。

 その後の長井シンポには参加できませんでしたが、「花崎・村田さんの二人旅」を大
阪でも受け入れましたが、その前の新大阪コロナホテルでの会合など楽しく歓談できた
ことは懐かしい思い出となりました。

 村田さんには何かとお世話になり、ありがとうございました。私ども老年は遠からず
この世におさらばですが、安らかにお眠りください。






2012.08.28  W

反戦・反基地ブログ