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開拓の歴史写真展を見る

先日22日、兵庫県小野市の市民会館で、写真家・宗景正(むねかげ・65)さんに
よる旧養父郡(現養父市)出身者の旧満州開拓団関係写真展を見ることが出来た。
 国策によって1939年から送りだされ、最終的には約120所帯600人が第9次
養父郷開拓団として入植した。敗戦で開拓団は46年9月に病死者を除きほぼ全員引き
揚げ帰国した。元団員らのうち絆をたよりに約50人が、小野市と三木市にまたがる草
加野台地にテントとランプで共同生活しながら原野を切り開いた。58年には念願の東
条湖ダム揚水で稲作もできるようになった。現在40戸が離農せず営農を続けている。
 宗景さんは「残留孤児」問題など手がけてこられたが、2005年頃から取材し5年
間かけ、今年3月『開拓民~国策に翻弄された農民』(高文研・2500円)を出版さ
れた。これには関係者30人聞き書きや、送り出した村の風景、草加野の人々の今、か
つての入植地満州の風景、開拓の歴史その他の写真などが収められている。この出版を
機に3月、神戸の県民会館で関係者の証言や約90点の写真展が行われた。残念ながら
私はこのことを後で知ったので証言など聞けなかった。
 旧養父郡は私の出身地で、奥地は深く明延などの鉱山があるが土地は狭く、明延から
8所帯が開拓団に加わった。私の同級生F君の家族も開拓団に加わっていた。戦後、彼
と偶然会ったことがあり、今回その後の消息が分かるとも思ったが、他の入植地かどう
か結局は分からなかった。親父さんは石工だったが病気か何かで亡くなり、追悼碑には
合祀されているようだ。
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 養父郡のこの開拓団は引き上げ時、病死者は出しているが、いわゆる残留孤児を出し
ていないし「集団自決」などなく珍しいケースである。
 同じ但馬でも隣の旧出石郡高橋村(現豊岡市但東町)は戦争末期の1944年3月、
103戸479人が第13次大兵庫開拓団として渡満入植した。高橋村は貧しく収入も
他の村の半分くらい。隣村の資母村は分村計画に反対し非国民と非難された。入植した
高橋郷は少なくとも二町の土地を持ち、九月には稲作の収穫が予定され順調だった。
 45年8月ソ連の侵攻が始まるなか、男は徴兵され女と子供と老人ばかりが、飲まず
食わずの逃避行が続き17日、力尽きて増水したホラン河に345人が入水自決する。
うち61人が救助され病院に収容された。かろうじて生き残ったのは69人だった。
 これらについては、春木一夫『遙かなり墓標~分村開拓団高橋村の壊滅』(1969
年・神戸新聞兵庫新書)があり、始めてあきらかになった。
 高橋郷の場合、引き揚げを急ぎすぎたのであろうか? 養父郷は越冬して翌年に引き
揚げている。その間、現地の団体と食料提供などして開拓団の安全を確保した。八路軍
からは看護婦提供を要求され18人がこれに応じたようなこともあり、今回の展示会で
当事者が証言している。なお、春木氏の『遙かなり墓標』とその後のレポートとは数字
にばらつきがあるが、とりあえず春木氏の数字に準じた。 

2012/5/28 W
反戦・反基地ブログ