追悼・平井正治さん
昨年11月脇田憲一さんの死去に続き、平井正治さんの訃報が届いた。 何れも貴重な昭和史の証言者たちであり、極めて残念なことです。
以下は平井さん自著「無縁声声」からで、後半一部付け加えました。
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1927年(昭和2)
11月3日、旧大阪市南区日東町の教材屋長男として誕生 1933年(昭和8) 旧天王寺第九小学校に入学 1934年(昭和9) 生家倒産し差し押さえうける 1937年(昭和12) 親戚に預けられ丁稚奉公(奉公先を飛び出しガキ大将になる) 1940年(昭和15) 金属工場の見習い工になる 【紀元二千六百年】 1941年(昭和16) 京都の教材屋組合倉庫で働く、青年学校に通学 ・グライダー訓練養成所に入る、海軍を志願する 1942年(昭和17) 京都の大林組飯場で働く 1943年(昭和18) 3月、舞鶴海兵団に入団(海軍工廠で水雷の火薬詰めする) 1945年(昭和20) 9月、敗戦で復員、帰阪し闇屋になる ・10月、出獄戦士歓迎人民大会に参加 ・12月、松下電器に入社 ・日本共産党に入党 1946年(昭和21) ・松下「七精神拒否」 ・松下電器労働組合木工支部青年部長、書記長、本部理事(中 央委員)など歴任 1950年(昭和25) 共産党専従地区委員 【レッドパージ、朝鮮戦争】 1951年(昭和26) 2月、反米ビラ運んでいて逮捕、松下電器解雇 1952年(昭和27) 共産党内で孤立深める 1954年(昭和29) 共産党の査問とリンチをうけ除名【55年、日共「六全協」】 ・京都で撮影所の仕事につく 1960年(昭和35) 一匹狼として諸闘争に参加 【安保・三井三池闘争】 1961年(昭和36) 釜ヶ崎に移り港湾労働者になる【8月1日、第一次釜ヶ崎暴動】 1966年(昭和41) 港湾労働者の組合結成、全港湾労組大阪港支部執行委員、副委 員長など歴任 【港湾労働法施行】 1969年(昭和44) 釜ヶ崎日雇い労働者組合結成の協力 1970年(昭和45) 4月、港湾ゼネスト、賃金格差改善
【天六ガス爆発、万博】 1983年(昭和58) 【大阪城築城四百年祭】 ・共著『秀吉の侵略と大阪城』に「大阪城と陸海軍」を執筆 1987年(昭和62) 【関西国際空港計画】【御堂筋パレード始まる】 ・81年、「新空港を作らせへんぞ百人委員会」結成 1995年(平成7) 1月、【阪神大震災】、震災救援活動に参加 2011年(平成23) 2月8日、西成のアパートで死去判明。享年83歳 ・(正確な死亡日時、病名・死因等は解剖所見の続報を待つ) ◆ ◆ ◆ 【平井正治さんの自著・共著】 ◇共著・辛基秀/柏木宏之編『秀吉の侵略と大阪城~ちょと待て、 大阪城
400年まつり』(第三書館 1983年) ◆『博覧会から見た釜が崎の歴史』(『新日本文学』新年号
1988年) ◇共著・藤原書店編集部編『震災の思想~阪神大震災と戦後日本』(1995年) ◆『無縁声声~日本資本主義』 (藤原書店
1997年) ◆『無縁声声~日本資本主義』【新版】(藤原書店 2010年) 特別寄稿 「新しい日本人」~新版によせて 高村
薫 歴史に彼らの声を刻みつけよ 稲泉
進 ◇共著・大阪市の100年刊行会編『目で見る大阪市の100年』 上・下巻(郷土出版社 1998年) ◆ ◆ ◆
●現代史の案内人 平井さんの三畳アパートは、現代史資料で一杯だったそうです。浪速・釜が崎 の「生き字引」だったと言われた平井さん、もっと長生きして頂だきたかった。 上に掲げた共著・自著のほかに書かれたものがあると思いますが、経歴などを 含めてご存じの方はご指摘をお願いします。
平井さんのことは早くから知っていたが、一緒に行動したことはほとんどない。 97年11月からの、あいば野日米軍事演習に米本土から米兵が関空定期便を利用し て来日するというので抗議に駆けつけた時、平井さんも参加されていた。 その後、98年6月の「平和都市枚方を考える会」主催フィールドワークの案内 人が平井さんだった。戦前の禁野陸軍火薬庫爆発事件(死者96人、負傷者602人) や戦後の枚方事件など「戦跡めぐり」は平井さん勝手知ったる独壇場であった。 併せて枚方市民による戦争遺跡保存の運動なども知ることができた。 フィールドワークと言えば「人類館事件百年」(2003年)の活躍や、琵琶湖疎 水工事を巡る問題(2004年)など、底辺の労働者が如何に工事の犠牲になったか、
なにわ民衆史研究家の平井さんならではの案内人となった。
2011/2/28 W
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