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脇田憲一さんを偲ぶ 

昨年に11月亡くなられた脇田憲一さんの「偲ぶ会」が1月23日、高槻現代劇場で行われた。ながらく労組・議員・生協活動など多方面にわたり活躍されてきた関係から百人以上の関係者の方々が参加された。その「偲ぶ会」へ寄せられたメッセージは全国各地からに及び、脇田さんの活動スケール大きさを物語るものであった。
以下は、当日配布された資料のうち「故・脇田憲一氏の足跡」などからによるもので一部省略した部分もある。

               ◆ ◆ ◆

●【脇田憲一さんの足跡】
1935、1月25日、愛媛県に生まれる
1951、単身大阪へ。北浜の証券会社に勤務。松山高校から守口の定時制高校に転入
1952、日本民主青年団(民青)に加入。(翌53年18歳で日本共産党に入党)
   ・2~8月、共産党「中核自衛隊」として武装闘争に参加
   ・6月25日、日本の朝鮮戦争加担に反対し、枚方事件(旧枚方工廠爆破事件)
     に17歳で関わる。
   ・10月5日、事件で逮捕・起訴される。(10月、枚方事件裁判が始まり、以
      後15年に及ぶ長期裁判となる。67年11月15日、最高裁は懲役2年、執行
     猶予2年の判決 )
1953、8~12月、和歌山水害救援隊から、奥吉野の山間部で山村工作隊(独立遊撃
       隊員)として活動
1954、1~12月、八尾大正飛行場周辺で軍事オルグとして活動
1955、2~12月、アカハタ城東分局員として活動(7月「六全協」)
1956、4月、職安の紹介で大阪特殊製鋼に臨時工として入社。その後執行委員、専
    従書記長として組合中心リーダーとなる。
1959、樋口光子と結婚
1961、共産党除名
1962、10月、工場閉鎖で失業。(63年5月「大阪特殊製鋼組合運動史」発行)
1963、・中堅建材メーカー営業マン就職。労使紛争で組合分裂し組合委員長に立候 
    補、企業スタッフを兼務し労働条件改善に尽くす。
1973、大阪総評の地方オルグとなる。(産別オルグ8年、未組織対策オルグ4年。
       健康を害して総評オルグを退職。)
1985、大阪総評北摂地区のオルグ就任、パート労働の組織化に取り組む。北摂生活
    者(トータル)ユニオン理事長、社会党高槻総支部長など務める
      ・9月、高槻生協再建運動に取り組む。
      ・10月、パートタイマーなどの退職・福祉など「パートふれあい条例」直接
     請求運動起こす。(86年3月、高槻市議会は「ふれあい条例」を否決)
   ・11月、「高槻消費者クラブ」設立。同松ヶ丘店を出店。
1987、・社会党離党
   ・5月、北摂・高槻生協総代会で理事に就任。(90年6月専務理事。91年6
     月から3年間理事長を務める)
   ・8月、公立幼稚園廃園の反対直接請求運動起こす。(12月、高槻市議会は
         同案を否決)
1990、・4月、高齢者所帯配食サービスの「(株)安全給食センター」設立、同代表
     取締役となる。
   ・5月、ポンポン山ゴルフ場反対運動に取り組む。
   ・6月、開放政策後の中国実情調査のため訪中。
   ・8月、フィリピン訪問、現地の協同組合と交流
1993、「美しい摂津峡を破壊するスポーツセンター建設に反対する会」発足に参加
1995、・4月、高槻市議会選挙に立候補し当選。(99年4月、再選を目指したが2
     票差で落選する)
   ・12月、「高齢者福祉協会」を設立
2000、・9月、不正をなくそう市民連絡会「JR高槻駅前開発の公共用地買収疑惑」
          に関する住民訴訟を起こす。(04年1月、大阪高裁は控訴棄却の判決)
2002、有事立法反対運動に取り組む。
2003、・4月、小沢福子大阪府議選、松川泰樹市議選に取り組み当選果たす。
   ・12月、高槻市議会「イラク自衛隊派兵に反対する意見書」採択。同派兵反
     対運動に取り組む。
2005、高槻・島本在宅支援ネット設立に取り組む。<
2006、障害者自立支援法反対運動に取り組む。
2007、・小沢福子府議選当選、松川泰樹市議選敗れる。
      ・よつ葉ホームデリバリー京都に設立
2008、高槻生協楽農会に積極的参加、同会の畑仕事に打ち込む。
2009、第45回衆院選挙「今、憲法が危ない」弁士中北龍太郎、衆院議員服部良一
2010、・1月、原生協=「北摂・高槻生活協同組合55年史」完成
   ・4月、同55年史出版記念集会、入院中病院から許可を得て参加する。
   ・11月1日、拡張型心筋症(心臓病)で死去、享年75歳

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●脇田憲一氏の主な発行出版物
1957.10.10、個人誌『文学ノート』創刊号発行
1976.11.30、『文学ノート』2号(枚方事件覚え書き=日共武装闘争世代の原点)
1977.12.15、『文学ノート』3号(奥吉野山村工作隊)
1978.12.15、『文学ノート』4号(奥吉野山村工作隊 第二部)
1978.6     運動史研究会発行『運動史研究』(三一書房)の企画で戦前の労働運
      動「全協時代」の生存者から聞き書きを始める。
1987.6.25、『奥吉野巡歴~山村工作隊から34年』(本音文庫 第8巻)発行
2004.3.20、『朝鮮戦争と吹田・枚方事件~戦後史の空白を埋める』(明石書店)
2005.12.25、『労働運動再生の地鳴りが聞こえる~21世紀は生産共同組合の時代』
      (社会批評社)発行 武健一・脇田憲一編著
2010.1、  『原生協=北摂・高槻生活協同組合55年史』発行

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 私は脇田さんより五つ年上だが入党したのは同時期。53年の和歌山水害救援隊には兵庫共産党の部隊として参加した。小隊長を命じられたが、文句ばかり言う年上のおっさん隊員がいて弱った。ともかく御坊から龍神村までトラックでかなり危ない目に遭いながらたどり着いたが、記憶に残るほどの「救援活動」をしたわけではなかった。
 脇田さんたちは特別の任務で、そのまま山村工作隊員として約半年間、奥吉野に居残り活動されたのだった。著書によれば、その後世話になった地元の人たちから丹念に聞き取りをしている。また、山村工作隊員で自死者が出たことにも触れられている。私の郷里明延鉱山の山村工作隊員にも自死者がいたが「六全協」後のことである。一体あれは何だったのか。共産党は「あれは所感派がやったこと」と知らん顔である。脇田さんとはメールの交換など短いつきあいだったが、『朝鮮戦争と吹田・枚方事件』という名著を残された。脇田さんのご冥福を心より祈る。
                                                    
2011/2/15  W

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