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追悼:若野さんとイラク戦争とその遺稿

◆「泉州沖に空港をつくらせない住民連絡会」代表の若野正太郎さんが、6月14日急逝された。享年67歳、十二指腸ガンによると聞くが早すぎる死去という他はなく残念でならない。いずれ「ゼネ石」などから「若野さんを偲ぶ会」開催も予定されていると聞いている。
◆急逝といえば「関西生コン」の川村賢市さん(09年4月30日死去、享年61歳)の訃報を思い出す。川村さんは60年代北海道で自衛隊の体験があり、その北海道でイラク派兵を違法とする「箕輪訴訟」が提起された。それに呼応し関西の労組活動家などに呼びかけ、36名が全国トップを切って本人訴訟によるイラク派兵差止め訴訟を提訴した経緯がある。
◆その後名古屋を始め全国11ヵ所でイラク派兵差止め訴訟が開始されるが、大阪では辻公雄弁護士ら呼びかけにより、小田実を代表とする「関西訴訟」が04年4月から始まる。四次にわたる提訴で原告は千人以上となり、毎回の弁論はスクリーンが持ち込まれ大法廷を埋め尽くした。私も原告に加わったが知らない人がほとんどだった。そんな中に若野さんが原告として参加していて、顔を合わすたびほっとする思いだった。
 (この時若野さんが裁判所に提出した「意見陳述書」を遺稿として添付します。少し長いですが父親のこと生い立ちのことなど踏み込んで書かれています。)
◆1997年11月、あいば野日米共同演習に米本土から米兵が参加、この時米兵らは関空を利用し定期便で来日。その後ハワイ・カリフォルニャ・テキサス・ニューヨークなど計5回にわたり共同演習に参加している。これら関空の軍事利用は公表されず詳細は不明。これまで共同演習は約10回、本土以外は沖縄の海兵隊。これ以外に伊丹指揮所演習へ米兵が来日にしているが詳細は公表されていない。
◆イラク派兵第5次は、陸自中部方面名古屋の部隊が05年1月、第六次は中部方面伊丹の部隊が05年5月に出発した。これに伴う武器輸送問題でアントノフ大型チャーター機利用が浮上した。「住民連絡会」はいち早く関空へ軍事利用反対の申し入れを行った。当初は「軍需輸送はしない」と関空は答えていたが、申し入れを重ねるなかで次第に黙りノーコメント、コンテナの中まで「確認していない」などを繰返すに至る。
 国からの相当な圧力があったのであろう。結局若野さんらは情報公開法による輸送品目などの公表を要請する。しかし返ってきた回答書は墨で塗りつぶされたもので何も分からなかった。(名古屋の訴訟団が要請した航空部隊人員輸送などに関する回答書も同じく「墨塗り回答書」だった。)そして08年4月、名古屋高裁控訴審は原告側の実質「勝訴」となった。その後政権交代後、再度の情報公開では原告側が予想した通りの内容であった。   


 2010/6/26 W


●住民連絡会通信『おにおん』117号(05年3月26日)掲載

 意 見 陳 述 書                     若野正太郎

 私は1943年生まれの61歳、年金生活をしています。私が生まれた時父はいませんでした。「赤紙」で召集されていたのです。父は私たちに(復員後の1947年に弟が生まれています)よく軍隊での話をしてくれました。
 軍隊はビンタで明けビンタに暮れる。何でもかんでも連帯責任で一人でもミスをすると(ミスと言えないようなミス。例えば班の誰かが干していた軍足を盗まれたような場合でも)班全員がビンタです。上官や古参兵がビンタで手が痛くなると履いていた革製のスリッパで叩かれました。とにかく軍隊内は班長や古参兵の言うことは「朕」の言葉であり絶対逆らってはいけない。逆らえばビンタが飛んでくる。白と言われたら黒でも白、黒と言われたら白でも黒なのです。
 あるとき上官の間違いから練兵場の端から端までビンタをくらわされたあげく、営倉まで入れられました。そんな時でも一言の弁解も許されませんでした。あまりの辛さに脱走を試みたと言います。塀の上までよじ登り、今まさに乗り越えようとした時、ふと未だ見ぬ我が子の顔が思い浮かび、後難を恐れて脱走を思い止まったのです。
 それからは軍隊内でビンタを食らわずにどう生きるかという処世術を身につけていきます。「早飯、早糞、芸のうち」というのが父の口癖となったのは、この時身に沁みて体得したものと思います。それからの父は、班の誰かの何かが無くなると他の部隊から盗んできて当人に渡し、そんな時は取り返しにくるかもしれないと寝ずの番をしたそうです。こんなことは二度や三度ではありませんでした。
 ここで父の生い立ちについて少し触れておかなければなりません。父は1920年、大阪市西区北堀江の商家の5人兄弟の長男として生まれました。一人息子ということもあり我がままに育てられたようです。祖父は羽織袴で出でかけ、おこもさんに出会うと羽織袴を与え、藁縄を締めて帰ってくるという人だったそうです。父が小学校五年生のとき祖父が亡くなり、稼業も成り立たなくなって父は小学校を卒業すると同時に奉公に出されました。
 僅か12歳の少年が大の大人に混じって社会の荒波に洗われたのです。長じて旋盤の技術を身につけましたが、タバコや酒、博打も覚えました。5尺そこそこの小柄だった父は、腕に彫り物もしていました。ハッタリをきかすため必要だったのでしょう。大勢の荒くれ者と喧嘩をしても負けなかったと言います。負けず嫌いと向こう意気の強さとすばしこさで、気の荒い職人社会を生きてきたのです。そんな父だったからこそ軍隊で潰されることなく復員できたのだと思います。もちろん運がよかったことが一番の原因ではありますが。
 そういえば、父は二度命拾いをしています。一度は父たちの部隊が大陸を離れた翌日、ロシア軍が駐屯地に侵攻し多くの日本兵が殺されました。一日遅れたらと思うとぞっとすると言っていました。二度目は日本に上陸したとき空襲に遭い、机の下に身を小さくして潜り込んだそうです。空襲が去り顔を上げると机を貫いて顔の前とお尻の後ろに爆弾が突き刺さっていたそうです。これも父が小柄であったことが幸いしたのでしょう。爆弾が破裂しなかったことも運がよかったとしかいいようがありません。
 二等兵として召集された父は、伍長として復員してきました。わずか三年たらずの間に下士官になるという大変な「出世」です。軍隊内の活躍だけで「出世」したとはとても思えません。父の軍隊の話は先に述べたこと以外は決して話しませんでした。ひょとして、中国大陸で私たちに話せないような何かやってきたのではなかろうか。南京大虐殺の話など聞くととても不安な気持ちになり、胸が痛みます。
 生活面では、北堀江の家を焼け出され、父が復員してきても家が無く伯母の嫁ぎ先の一間を借りていました。そこにも長くおれず、次に叔母が借りていた家の一間を借り親子三人が(後に四人となるのですが)生活しました。そこも追い出され民家の一間を借りたり、父が勤めていた工場に間仕切りをして住み込むなど方々を転々としました。
 食べ物はスイトン、じゃがいもの蒸したものはまだいい方で、サツマイモの蔓を湯がいて食べたこともあります。随分ひもじい思いもしましたが、両親ががむしゃらに働いているのを見ていますので、何か欲しいとねだることはしませんでした。わが家では「おやつ」の習慣がありませんでした。当然です。ですから私は今でもほとんど間食を取りません。
 父の唯一の楽しみは酒を飲むことでしたが清酒は買えません。合成酒です。それも毎日は買えません。麹を買ってきてどぶろくを密造したこともありました。ちびりちびり嬉しそうに飲む父を見て清酒を飲ませてやりたいとよく思ったものです。 
 衣類は従兄弟のお下がりに母が継ぎを当ててくれそれを着ました。上履きは買えないので真冬でも教室や講堂では裸足でした。靴下だと滑って危険なのです。釘が頭をだしており怪我をしたことがあります。また運動会ではゴム底の白い足袋が買えず裸足で走りました。
 私は両親に旅行に一度の連れて行って貰ったことはありません。父は腕に覚えのある旋盤工の仕事を探し東奔西走しています。その日の生活にも困っていましたので、零細企業の鉄工所など少しでも給料の良いところを求め転々と会社を変わりました。母は裁縫や封筒貼りの内職を夜なべでしておりました。私も封筒貼りを手伝いました。また町中でタバコの吸い殻を拾い集めそれをほぐして一本のタバコにして業者に納めることもやりました。
 父が60歳になり厚生年金を申請に行ったとき、初めて職員の方に「受給資格がない」と言われました。12歳の時から働いてきた父です。戦争に取られたり就職できなかった時を除いても40年以上働いてきた父です。ヒロポンをうち寝る間も惜しんで働いてきたのに。やっとの事で勤めていた期間と会社名を思い出し、それも全てではありませんが20指に余るものでした。しかし中には社会保険に加入してない会社も多く、父が受け取る年金は年額98万円ほどで、手取額は一月8万円にもなりません。家賃や水道、光熱費を払えばいくらも残りません。そんな窮屈な生活を強いられてた父は1988年、67歳でこの世を去りました。母も11年後の1999年、77歳で世を去っています。
 父の復員後、両親は死ぬまでその日の生活に追われ、何かいいことがあったでしょうか? 何のためにこの世に生まれ、生きてきたのでしょうか? どんな思いで死んでいったのでしょうか? 何もかも戦争がダメにしてしまったのです。もう戦争はいりません。私の子や孫の時代もずっと平和であって欲しいのです。
 今もイラクでは、世界の人々が反対し国連でさえも不当とし、米英軍の侵略戦争を直接的原因とし、加えて占領に抗する人々の抵抗闘争の巻き添えになり、罪のない多くの市民が殺害されています。子どもたちは、飢えと病、戦争の傷痕に嘆き苦しんでいます。
 小泉さんは平和憲法をないがしろにし、いち早く米ブッシュ大統領の侵略戦争に賛成し、膨大な戦争費用を提供するばかりか自衛隊という軍隊まで派兵しました。そのせいでイラクの人々の日本を見る目は変わり、日本人フリージャーナリストが拘束されたり殺されたりもしています。小泉さんはどう責任を取るというのでしょうか。それとも殺害されたイラクの人々に対しても「自己責任」を押しつけるのでしょうか。小泉さんの口からイラクの人々対する哀悼の言葉は一度も聞いたことがありません。
 また、自衛隊の武器弾薬を含む物資を輸送するために、民間機をチャーターしたり、民間飛行場を軍事使用しています。更に秘密裏に民間技術者を戦場に派遣し、自衛艦や輸送機の修理をさせています。これらの費用のため私たちの、いえ私の税金が使われているのです。私は軍事のために税金を納めているのではありません。
 父の世代は直接侵略戦争に参加させられました。そして今また税金にを納めることを通して米軍の侵略戦争に荷担させられているのです。この苦痛は耐え難いものです。私は二度と再び戦争の悲哀を味じわいたくないのです。加害者にも被害者にもなりたくありません。
 さらに小泉政権は、周辺事態法、有事関連法、非常事態対処法など矢継ぎ早に、戦前への回帰をはかり、世界に冠たる平和憲法を、好戦憲法に変えようとしています。私は小泉さんに憲法改悪を頼んだ覚えはありません。混沌とした時代だからこそ平和憲法が必要なのです。派兵されている自衛隊員の皆さんも、その家族の方々も不安で不安で仕方がないと思います。
 いま、私たちが声を上げないと本当にものが言えない社会となってしまいます。裁判長も検事の皆さんも例外ではありません。どうか私たちの声に耳を傾けてください。そしてコスタリカの最高裁判所が「政府がイラク戦争に際し米国の有志連合に名を連ねたことは、平和主義を維持し中立を国是とする憲法に違反する」と判決しているように、イラクへの自衛隊派兵が憲法違反であることを素直に宣言して欲しいのです。
 違憲判決を出していただき、一日でも早くイラクから自衛隊を撤退させ、私たちの、そして私の不安を取り除いてください。自衛隊員とその家族を安心させてあげてください。是非お願いします。                    以上













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